2014年02月24日

黒島節 2

黒島節
くるすぃま ぶすぃ
kurushïma bushï
◯黒島の歌
(語句などは黒島節を参照のこと。)

歌詞参考は「八重山島民謡誌」(喜舎場永珣著)。


一、宮里村おうりて 西表クマチゆ 欲しやんど
みゃんざとぅむら うりてぃ いりむてぃくまちゆ ふしゃんど
myanzatu mura uriti 'irimuti kumachi yu hushaN doo
黒島の宮里村で西表クマチという美人が欲しいものだ
語句・うりてぃ 旧仮名遣いでは「おうりて」だが、「お」は「う」に、「て」は「てぃ」に変化する。また直訳すると「降りて」だが、沖縄語の「うん」(居る)の「うてぃ」や「うとーてぃ」が場所を表し「〜で」という意味があるように「〜で」と訳した。・ を。「韻文のみで使う。口語では使わない」【「沖縄語辞典」国立国語研究所】・ふしゃん 欲しい。(形)・どー ぞ。だぞ。(助)


二、仲本村 おうりて本原ンガイゆ 欲しやんど
なかんとぅむら うりてぃ むとぅばるんがいゆ ふしゃんど
nakaNtu mura uriti mutubaru Ngai yu hushaN doo
仲本村で本原ンガイという美人を欲しいものだ。


三、東筋村おうりて 高嶺ブナリゆ 欲しやんど
ありしじむらうりてぃ たかんにぶなり ふしゃんど
'arishiji mura uriti takaNni bunari yu hushaN doo
東筋村で高嶺ブナリという美人を欲しいものだ。


四、伊久村おうりて 屋良部マントゆ 欲しやんど
いくむらうりてぃ やらぶまんとぅゆ ふしゃんど
'iku mura uriti yarabu maNtu yu hushaN doo
伊久村で屋良部マントという美人を欲しいものだ。


五、保里村おうりて 前盛ヤマリゆ 欲しやんど
ふーりむら うりてぃ まいむりやまりゆ ふしゃんど
huuri mura uriti maimuri yamari yu hushaN doo
保里村で前盛ヤマリという美人を欲しいものだ。


六、保慶村おうりて 赤名クヅラゆ 欲しやんど
ふきむらうりてぃ あかなくづらゆ ふしゃんど
hukimura uriti 'akana kuzura yu hushaN doo
保慶村で赤名クヅラという美人を欲しいものだ。



黒島節の元歌

前回の「黒島節」に引き続き同名のものを取り上げた。
「八重山島民謡誌」(喜舎場永珣著)に、掲載されているもので、今八重山で歌われている「黒島節」より以前に、そう呼ばれていたものであろう。

現在の「黒島節」は前回書いたように「正月ゆんた」を改定して歌われているのだという。

この「黒島節」について喜舎場永珣氏は「八重山島民謡誌」で

「この歌は黒島各村の一等美人を一人宛選抜して歌った美人盡(尽)しの歌である。何と赤裸々で面白いではないか」(括弧は筆者)

と述べている。

実際の実名をだして美人だと歌にするのは、現代ではミスユニバースとか、芸能人の売り込みなら多いに考えられないこともないが、封建制度のもとでおそらく士族ではない百姓(当時は市民はこう呼ばれた)の娘が歌に名を連ねるというのは民謡としても良くあることではない。

けれども当時は「安里屋ゆんた」などの例にもあるように、首里王府から派遣されてきた与人親(村長)や目差主(助役)といった官僚達が、現地の美人を賄(まかない)という名の妾(めかけ)、現地妻にしていたことと関係があるとすれば、あっても当然の歌といえるかもしれない。

同時に、美人賛歌は村賛歌と同じ意味があったとも考えられる。

村の名前

現在の村の名前は
保里、宮里、仲本、東筋、伊古の五つがある。
伊久はおそらく今の伊古であろう。
保慶は無い。これは黒島口説にでてくる村名である。


竹富町観光協会HPより)


歌の作られた時期

この歌の生まれた時期について喜舎場永珣氏は
「西表クマチといふ美人は寛政八年頃に生まれた者で、彼女が眞盛りの二十歳前後にこの歌が詠まれたと假(化)定したら、今から凡そ百六年前後の作である」(括弧は筆者)。
と述べていることを根拠にすれば、寛政は1789年からなのでクマチさんは1797年生まれ、二十歳は1817年だから、だいたい今から二百年前の歌ということになる。

歌の背景

ところで、1771年、いわゆる「明和の大津波」での黒島の被害はどうだったのだろう。

Wikipediaによると、「黒島 現・竹富町 男女二百九十三人、但、居村並公事ニ付石垣方ヘ罷渡溺死 / 家数八十五軒」
とあり、 大津波により黒島と、石垣島に居た黒島の人々の被害は293名とある。

別の資料も見てみよう。

(琉球大学理学部 中村衛研究室 1771年八重山地震津波(明和の大津波) より)

これによると、少し被害人数は異なるが、5mの津波が黒島には押し寄せて1119名のうち902名が亡くなり、そして100年後には438人にまで人口が減っている。

これは津波による塩害で飢饉や疫病が発生したこと、人頭税により島別けで石垣島などへの強制移住がおこなわれたためであろう。

その厳しい時代のさ中に生まれた歌と考えられる。


次回は本島の舞踊「松竹梅」につかわれる「黒島節」をとりあげる。




(2014年2月 黒島にて筆者撮影)


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Posted by たる一 at 13:33│Comments(0)か行八重山民謡
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