2017年08月22日

下り口説

下り口説
くだい くどぅち
kudai kuduchi
語句・くだい 「上り口説」(ぬぶいくどぅち)という首里から東シナ海を北上して薩摩藩入りするまでの口説(くどぅち)があるが、その逆の薩摩藩から琉球への旅程を歌ったもの。・くどぅち 室町・江戸時代に流行した「口説」(くどき)は歌舞伎、浄瑠璃などで情景や叙事、悲哀や恨みなどを一定のメロディーで繰り返して「説く」ものだったが、17世紀以降薩摩藩の琉球支配の時代に、それが琉球に伝わり七五調で大和言葉(のウチナーグチ読み)を使ったものになった。


一、さても旅寝の假枕 夢の覚めたる心地して 昨日今日とは思へども最早九十月なりぬれば
さてぃむ たびにぬ かいまくら 'いみぬさみたる くくちしてぃ ちぬーちゅーとぅは うむいどぅむ むはや くじゅうぐゎちなりぬりば
satimu tabini nu kai makura 'imi nu samitaru kukuchi shiti chinuu chuutu wa 'umui dumu muhara kujuu gwachi narinuriba
さても旅寝の仮の枕、夢が覚めた心地がして 昨日今日とは思えるが最早9、10月になってしまえば
語句・かいまくら 「仮寝」(旅の泊まり)と同じ。・いみ 夢。



やがてお暇下されて使者の面々皆揃て弁財天堂伏し拝で
やがてぃ'ういとぅまくださりてぃ ししゃぬみんみんみなするてぃ びざいてぃんどーふし うがでぃ
yagati 'uituma kudasariti shisha nu miNmiN mina suruti bizaitiNdoo hushi ugadi
やがて御暇(の命令)下されて使者の面々が皆揃って弁財天堂を伏せて拝んで
語句・ういとぅま帰還の命令。正月に来て約一年ほど滞在した。・びざいてぃんどー 弁財天堂。弁財天を祀る建物。弁財天は本来のインド仏教では水神、農業神だったが日本では芸術、学問の神や、財産の神ともされる。



いざやお仮屋立出でて滞在の人々引連れて行屋の浜にて立ち別る
'いざや'うかいやたち'んじてぃ てぜぬふぃとぅびとぅふぃちつぃりてぃ じゅやぬはまにてぃたちわかる
'izaya 'ukaiya tachi 'Njiti teeze nu hwitubitu hwichichiriti juya nu hama niti tachiwakaru
さあ!御仮屋(琉球館)を出発し滞在した人々を引き連れて行屋の浜で別れる
語句・いざや 「さあ」と呼びかける大和口的、または文語的表現。・うかいや 薩摩藩に琉球王府から毎年正月に来る使者(高級官僚である三司官や親方)が滞在する役館。今で言えば大使館。現在の鹿児島市立長田中学校のあたりにあった。1783年から琉球館と呼ぶ。・じゅやぬはま 「天保年間鹿児島城下絵図」に琉球館の北東の運河に「行ヤ橋」というのが見える。現在のJR鹿児島駅前の市電乗り場あたりは昔「行屋堀」と呼ばれる運河があったという。「行屋」とは「修行僧などが行をする家」などを言う。その辺りではないかと思われる。「ぎょうや」gyouyaは「ぎょ」が「ぎゅ」に(三母音化)、さらに「ぎゅ」は「じゅ」に(破擦音化、たとえば「かぎやで」の「かぎ」が「かじゃ」に変化したように。)変わり「じゅや」とウチナーグチで発音される。



名残り惜しげの船子共 喜び勇みて帆を揚げの 祝の盃めぐる間に
なぐりうしぢぬふなくどぅむ ゆるくび'いさみてぃふ−'あぎぬ ゆえぬさかじちみぐるまに
naguri ushiji nu hunakudumu yurukubi 'isamiti huu 'aginu yuee nu sakajichi miguruma ni
名残り惜しい様子の船子(船員)共、喜び勇んで帆を揚げる 祝いの杯がめぐる間に
語句・うしぢ 惜しげ。<うしぬんushinuN 惜しむ+ 気(ち) 連濁でぢ・ふー 帆。



山川港にはい入れて船の検めすんでまた錨引き乗せ真帆引けば
やまごー んなとぅにはい'いりてぃ ふにぬ'あらたみしんでぃまた 'いかゐ ふぃちぬしまふふぃきば
yamagoo Nnatu ni hai 'iriti huni nu 'aratami shiNdi mata  'ikayi hwichinushi mahu hwikiba
山川港に入り船の検め(検査)が済んで、また錨を引き、乗せて真帆を引く(上げる)と
語句・やまごー 山川港。なぜ「やまがー」とならないのか不明。しかし、幸喜(古くは川内と言った)を「こーち」ということがある。山川を「やま・こー」→「やまごー」になったのか?・あらたみ 薩摩藩による「船改め」、荷物、人員などの検査。・まふふぃきば 順風を受けて走る時の帆の揚げ方。船の真後ろから風を受けて正面に船が進むときの帆の揚げ方。船とは垂直に帆があがる。「片帆」は船の斜め前から受けた風を後ろに流しながら前に進む航法にとる帆のあげ方。船に対して斜めに帆をあげる。「与那国ションガネー」に「片帆」がでてくる。ちなみに大和の歌に
「真帆ひきて 八橋に帰る船は今 打出の浜をあとの追風」



風やまともに子丑の方 佐多の岬も後に見て七島渡中も安々と
かじやまとぅむににうしぬふぁ さだぬみさちん'あとぅにみてぃしちとーとぅなかんやしやしとぅ
kaji ya matumu ni ni'ushi nu hwa sada nu misachiN 'atu ni miti shichitoo tunakaN yashiyashi tu
風は順風に北北東の方 佐多岬も後ろに見てトカラ列島の海も(航海は)安々と
語句・まとぅむ 真艫。順風のこと。艫(とも)とは船の後方にある高い場所を言い、船の後方から吹くことを言う。昔の帆船は後ろからの風で前に進む。・にうしぬふぁ 干支による方角で、北北東の意。子=北 丑=北東なので、その中間の北北東。・しちとーとぅなか トカラ列島の海。・やしやしとぅ 安全で順調な航海。



波路はるかに眺むれば 後や先にも友船の帆引き連れて走り行く
なみじはるかにながむりば 'あとぅやさちにんとぅむふにぬ ふふぃちつぃりてぃはしり'いく
namiji haruka ni nagamuriba 'atuya sachiniN tumuhuni nu huhwichi hwichitsiri hashiri 'iku
波の道をはるかに眺めると、後ろや前にも伴船が帆を引き連れて走って行く
語句・とぅむふに 供船。一緒に航海する船。



道の島々早やすぎて伊平屋渡立つ波押し添へて残波岬にはいならで
みちぬしまじまはやすぃじてぃ' いひゃどぅたつなみ'うしすいてぃざんぱみさちんはいならでぃ
michi nu shimajima haya sijiti 'ihyadu tatsunami 'ushisuiti zaNpa misachiN hai naradi
道の島々を早くも過ぎて伊平屋島の海に立つ波さえ船を押し添えて、残波岬に並んで(走り)
語句・みちぬしまじま 鹿児島県の南に連なるトカラ列島や奄美諸島などを「道の島々」と呼ぶ。海の航路にもあたり、また、その島の連なりからそう呼ぶ。・うしすいてぃ 「上り口説」と同じ語句が並ぶが、実際には波高く、海流が渦巻くので航海の難所とされたが、ウタでは「高い波さえも船を推し添えてくれた」と安全を祈願する。



あれあれ拝めお城もと 弁のお岳も打ち続き(ヱイ)袖を連ねて諸人の迎へに出でたや三重城
ありありをぅがみ'うしるむとぅ びんぬ'うたきん'うちつぃぢち えい すでゆつぃらにてぃ むるふぃとぅぬ んけーにんじたやみーぐしく
'ari'ari ugami 'ushiru mutu biN nu 'utakiN 'uchitsijichi (yei) sudi yu tsiraniti muru hwitu nu Nkee ni 'Njitaya miigushiku
あれあれ!眺めよ お城元 弁の御嶽(うたき)も続き 袖を連ねて人々が迎えに出てきたのは三重城に
語句・びん 弁ヶ嶽。標高168.4mで、かつては航海の目印にもなっていた。・うたき 御嶽。・みーぐしく 三重城。



(コメント)
口説(くどぅち)系の歌で、上り口説と逆のコースをたどり、薩摩から沖縄に戻る人々の思いや情景を歌っている。舞踊曲。古典。発音にはヤマトグチをウチナーグチに変換したような部分もある(「改め済んでまた」→「あらたみしんでぃまた」)。

歌としては、上り口説の最後のメロディーから、つまり、薩摩に着いたときのメロディーから始まる。あとは、五番で山川港を出港し、南に下る情景をものがたる。随所に上り口説の歌詞が使われることで対比され、逆のコースでの船旅を体感するようで面白さがある。

さて内容を見てみよう。一見、江戸上りの帰り(下り)の様子だと思われる方もいらっしゃるかもしれない。実は、それだけでなく薩摩を最終目的地とする「薩摩上り」の帰還の様子と言う見方も出来る。

1609年の薩摩藩による琉球侵攻以降、同藩は琉球王府に対して江戸上りと共に薩摩上りを命じた。実は「上り口説」もこの「下り口説」も江戸への、または江戸からの旅程は歌詞には無く、薩摩上り下りの情景を口説にしたものである。つまり行き先は薩摩の御仮屋(琉球館)である。薩摩上りは約一年の期間と言われ、正月に薩摩藩入りし、9月10月くらいまで琉球館に滞在した三司官や親方などは和歌や能、書道などの大和の学問芸術を学んだ。

江戸上りの方は1609年から幕末まで18回実施された。琉球王即位の際に派遣される謝恩使と幕府将軍即位の際の慶賀使の2種類があった。薩摩上りで琉球館に滞在した在番親方(ざいばんうえーかた)などの役人は通常は琉球からの物資を薩摩に販売したりして薩摩藩の中国との密貿易に関わったりしていたが、時期が来れば江戸上りの準備や上使の接待などもしていた。

【天保年間鹿児島城下絵図に描かれた琉球館、琉球の船、人々】

鹿児島市立美術館に所蔵されている「天保年間鹿児島城下絵図」(以下「城下絵図」と略す。)には当時の琉球館や船、人々の姿が描かれている。天保年間とは西暦1831年から1845年を指す。琉球王朝も江戸幕府も世界から揺さぶられつつ激動の時代に入っていこうとするその直前の時代である。


▲「天保年間鹿児島城下絵図」全体。



▲「城下絵図」には「琉球館」、「行屋橋」、「弁天橋」など「下り口説」に出てくるキーワードと関係がある場所が描かれている。

さらに詳しく見てみよう。

琉球館


鹿児島城(鶴丸城)のやや北東に描かれている。

現在の鹿児島市立長田中学校(鹿児島県鹿児島市小川町3番10号)の敷地内に琉球館の碑がある。




「城下絵図」の縮尺の不正確さゆえに明確には言えないが中学校の敷地とほぼ同じくらいの広さが琉球館にはあてがわれていたのではないか。当時は門番が立ち、立ち入りは厳重に制限されていた。薩摩藩の財政改革で功績をあげた調所広郷(ずしょ ひろさと)が家老の立場で「琉球館聞役」として常駐したが、これも薩摩藩が琉球を通じての中国との密貿易を極めて重要視していた証拠である。ちなみに調所は薩摩藩の借金500万両を、奄美の砂糖の専売制やこの密貿易などで黒字に転じた人物。

弁財天

「弁財天」は、当時は七福神の紅一点で、琵琶を弾く女神で「福徳、諸芸能上達の神」として信仰されていた。本来のインド仏教の弁才天の水神、農業神というイメージとは異なっている。


▲「城下絵図」には琉球館のやや東の浜に「芝居」小屋と共に「弁天」の文字が見て取れる。

行屋の浜

今は埋め立てられてしまったが、鹿児島市内を流れる稲荷川から運河が伸びて築地を形成していた時代がある。その運河を「行屋堀」、そこに架かる橋は「行屋橋」と呼ばれた。現在のJR鹿児島駅付近である。


▲「城下絵図」には「行ヤ橋」とある。そこを渡ったあたりの浜が「行屋の浜」だろう。対岸には琉球船も停泊している。ここで船への乗り降りが行われたようだ。

山川港

薩摩半島の東側にある天然の良港。九州の南端にあたり昔から海外交易やカツオの集積港として栄えた。薩摩藩に入出航する船はここで船改(ふなあらため)を受けた。琉球使節の乗る琉球船もここに停泊した。


▲現在はこの山川港を見下ろす見晴らしのいい丘に「琉球人望郷の碑」がある。碑には《江戸時代には琉球から山川港へ幾たびも使臣船が来航した。この間遭難・客死した使臣は数百名にも上るが、明治10年代それらの琉球人の墓も取り壊され西南の役戦没者招魂塚が創設された。新たな交流元年にあたり、福元墓地の一角に琉球人の鎮魂墓碑を、眺望の利くここ愛宕山には「琉球人望郷の碑」を建立した。時代の潮流に翻弄されながらも身命を賭して往還逝去した琉球の古人たちに、心から敬意を表するものである。》と刻まれている。

琉球人花見の図

「城下絵図」を詳しく見ていくと珍しい様子も描かれている。


▲桜で有名な現在の磯浜あたりで船で花見に興じる琉球の人々。おそらく琉球館に詰めていた親方などの上級士族達であろう。三線のようなものを弾く姿、踊る人、鼓を叩くものなどが見える。薩摩上りの主要な目的の一つが「大和文化の吸収」ということであるから当然ではある。この時期の琉球王朝は薩摩藩からの重税に応えるために宮古・八重山地方に過酷な人頭税を課して200年目になっている。人頭税は15歳から50歳までの全ての男女の頭(あたま)数によって税負担を増減させるもの。この頃の八重山、宮古地方の生産性を上げるための過酷な施策を知れば知るほどこの上級士族の様子に疑問もわくのである。「下り口説」の一番の「夢の覚めたる心地して」とはどういう意味なのか、と。

もちろん、この絵図だけで判断するものでもないし、「薩摩上り」が命がけの旅であったことは否定しようがない。しかし琉球館に隔離され、強制的に薩摩藩の対外貿易の片棒を担がされていたというだけの側面をみていたのではいけないという気がしてくる。


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Posted by たる一 at 07:25│Comments(5)か行沖縄本島
この記事へのコメント
じゃなじぃじぃです。よろしくおねがいします。
Posted by じやなじぃじぃ at 2007年01月24日 15:30
こちらこそゆたしく~
Posted by せきひろし at 2007年01月26日 00:05
なんとなく思ったのでコメントします。

最後の「弁の御嶽」は「保栄茂の御嶽」ではなく、首里城の近くにある「弁ケ嶽」ではないでしょうか。
北から来た船が首里城下と首里城近くの聖域である弁ケ嶽をみた、と解釈したほうがよいと私は思います。
「保栄茂」だと、那覇港よりも遥か南にあり、首里城下と一緒に歌うのはちょっと難しい。それよりも冊封使が来琉したときにも必ず訪れる聖地の弁ケ嶽を詠んだとしたほうが納得がいくかと・・・
さらに弁ケ嶽は高台にあるので首里城方向を海から臨むと見えるはずです。
首里城に想いを馳せて眺めた船員たちの目に映った城下と弁ケ嶽。もうすぐ登城して家へと帰れる、という安堵も歌われているのではないでしょうか。
Posted by ぽーく at 2011年06月04日 11:36
ポークさん
ご指摘ありがとうございます。
またゆっくり調べて書きたいと思いますが
ご指摘のとおりですね。

沖縄語辞典で地名を見、「びん」には「保栄茂」しかなかったことからそう書いてしまいました。

当然意味からして首里城近くの弁ケ嶽ですね。

訂正しておきます。

またなにかありましたらよろしくお願いします。
Posted by たるー at 2011年06月08日 19:01
名瀬の繁華街は屋仁川(やんごー)ですね(○▽○)奄美方言かな?
Posted by ふーちゃん at 2019年09月01日 23:48
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