2018年10月11日

ノーウーマンノークライ

ノーウーマンノークライ

原曲 (作詞 作曲 ヴィンセント・フォード。歌 ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ)

作詞 知名 定男 うた ネーネーズ



NO WOMAN NO CRY NO WOMAN NO CRY
NO WOMAN NO CRY NO WOMAN NO CRY


里前に千惚りアヒ小に万惚り思い思まーてぃ五年
毛遊びぬ歌声ぬ秀らさ 三線弾ちゅる姿ぬ秀らさ
此ぬ世ぬ果報な者や我んどぅやてーる

(発音)
さとぅめに しんぶり あふぃぐゎーにまんぶり うむいうまーてぃ ぐにん
もーあしびぬうたぐぃーぬ しゅらさ さんしんふぃちゅるしがたぬ しゅらさ
くぬゆーぬ くゎふーなむん や わんどぅやてーる
satumee ni shiNburi 'ahwiigwaa ni maNburi ’umui ’umaati guniN
moo’ashibi nu ’utagwii nu shurasa saNshiN hwichuru shigata nu shurasa
kunu yuu nu kwahuuna muN ya waN du yateeru
(意味)
彼に千も惚れ 兄さんに万も惚れ(彼に惚れきってしまった)想い思い焦がれて5年 毛遊びでの歌声が愛しくて 三線弾く姿が愛しくて この世で幸せ者と言えば私しかいないって
語句・さとぅめー 女性から愛する男性に対する呼称。愛する貴方。・あふぃぐゎー 兄さん。ここでは里前と同人物。【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)には「一番下の兄。すぐ上の兄さん。平民についていう」とある。・しんぶり千惚れ。この語句は沖縄語辞典にはない。「まんぶり」は「首ったけ。まる惚れの意」【沖辞】とある。つまり、「しんぶり」は「まんぶり」に「万惚れ」と当て字をすることで出来た造語ではないだろうか。つまりワンセットで「千ぶり万ぶり」、かなり惚れていること。・もーあしび「農村で夜、若い男女が野原(moo)に出て遊ぶこと」【沖辞】。・しゅらさ <しゅーらーしゃん。しゅーらーさん。「しおらしい。かわいらしい。愛らしい」【沖辞】。体言止めなので「なんと愛しいことよ!」。・わんどぅやてーる 直訳すれば「私だけだって」。「てー」は「って」「だって」間接話法。



NO WOMAN NO CRY NO WOMAN NO CRY
NO WOMAN NO CRY NO WOMAN NO CRY


里前に千惚り アヒ小に万惚り思い思まーてぃ五年
久葉ぬ下に約束どーやー たがんなヨ
太陽ぬ落てぃれー急くに来ーよー たがんなヨ
此ぬ世ぬ果報な者や我んどぅやてーる
毛遊びぬ前立ちアヒ小 あんうぃりきさ舞ーゆがや
他島ぬ人んくーよーくーよー アンマーんくーよーくーよ
掛き弾ち小ぬちびらーさ あんうぃりきさ弾んちゅがや
他島ぬ人んくーよーくーよー 主アンマーんくーよーくーよ

(発音)
さとぅめに しんぶり あふぃぐゎーにまんぶり うむいうまーてぃ ぐにん
くばぬしちゃに やくすく どーやー たがんなよー
てぃーだぬ うてぃれー しぐにくーよー たがんなよー
くぬゆーぬ くゎふーなむん や わんどぅやてーる
もーあしびぬ めーだちあふぃぐゎー あんうぃーりきさ もーゆがや
たしまぬちゅんくーよーくーよー すーあんまーんくーよーくーよ
かきびちぐゎーぬちびらーさ あんうぃりきさ はんちゅがや
たしまぬちゅん くーよーくーよー すーあんまーんくーよーくーよ
satumee ni shiNburi 'ahwiigwaa ni maNburi ’umui ’umaati guniN
kuba nu shicha ni yakusuku doo yaa tagaNnaa yoo
tiida nu ’utiree shigu ni kuu yoo tagaNna yoo
kunu yuu nu kwahuu na muN yaa waN du yateeru
moo ’ashibii nu meedachi ’ahwigwaa ’aN wiirikisa mooyu ga yaa
tashima nu chuN kuu yoo kuu yoo suu ’AnmaaN kuu yoo kuu yoo
kakibichigwaa nu chibiraasa ’anwirikisa haNchu ga yaa
tashima nu chuN kuu yoo kuu yoo suu ’AnmaaN kuu yoo kuu yoo
(意味)
彼に千も惚れ 兄さんに万も惚れ(彼に首ったけになって)
クバの木の下で会う約束だよ 間違えないようにね
太陽が落ちたらすぐにおいでね 間違えないようにね
この世で幸せ者と言えば私だってば
毛遊びで前に立っているお兄さん あんなに愉快に踊るかねえ
他の村の人もおいで!おいでね!お父さんお母さんもおいで!おいでね!
掛け弾き(三線のテクニック)の素晴らしい事!あんなに楽しく弾(はじ)くかねえ!
他の村の人もおいで!おいで!父さんも母さんもおいで!おいで!

語句・やくすく 約束。・たがんなよー 間違えないでね。<たがゆん。「違う。たがえる。『たがう』に対応する」【沖辞】。否定の命令形。・めーだち 前に立つ。「めー」には空間的な「前」だけでなく、敬意を表す意味、時間的な「前」「最初」という意味もある。・うぃきりさ 面白いことよ!愉快なことよ!<うぃーりきさん。'wiirikisaN 「面白い。楽しい。愉快である。」形容詞で、体言止め「さ」で終わると感嘆表現ではあるが、ここでは「愉快に」「面白く」と副詞的に訳した。・たしま 他の村。シマとは村のこと。・ちゅ 人。「っちゅ」という発音にもなる。・くーよー 来いよ。<ちゅーん。来る。の命令形は「くー」。・すー あんまー お父さん、お母さん。・かきびちぐゎー 三線の弾き方のテクニックの一つ。爪を引っ掛けるように弾くがそのタイミングや速さなどで熟練を要する。・はんちゅがやー 弾(はじ)くかねえ。<はんちゅん。「はじく。弾力によってとばす」【沖辞】。


テンシトゥリトゥテンヨーテンヨー テンシトゥリトゥテンヨーテンヨー
テンシトゥリトゥテンヨーテンヨー テンシトゥリトゥテンヨーテンヨー
テンシトゥリトゥテンヨーテンヨー テンシトゥリトゥテンヨーテンヨー
テンシトゥリトゥテンヨーテンヨー テンシトゥリトゥテンヨーテンヨー

teeN shituritu teeN yoo teeN yoo
語句・しとぅりとぅてん 三線の擬音。・てんよー 「てんよー節」の囃子に「てんよーてんよーしとぅりとぅてん」があり、それを模した囃子言葉だろう。

あんすかな
あんすかなー
’aNsuka naa
そうするかい?
語句・あんすかなー あんす<あんしゅん。あんすん。そうする。+なー。「かい。かねえ」【沖辞】。

NO WOMAN NO CRY NO WOMAN NO CRY NO WOMAN NO CRY NO WOMAN NO CRY

待ちかんてぃーしみんなよーNO WOMAN NO CRY
まちかんてぃー しみんなよー
machikaNtii shimiNna yoo
私を待ちぼうけにしないでね
語句・まちかんてぃーまちかねる→待ちぼうけ。・しみんな させないで。<しみゆん。〜させる。の否定の命令。


待ちかんてぃーしみんなよーNO WOMAN NO CRY
待ちかんてぃーしみんなよーNO WOMAN NO CRY
NO WOMAN NO CRY NO WOMAN NO CRY




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解説

知名定男さんがネーネーズ(初代)のために、「ノー・ウーマン、ノー・クライ」(ボブ・マーリー&ザ・ウェイラーズ)の曲にウチナーグチの歌詞を乗せた。軽快なレゲエのリズムの曲とウチナーグチの歌詞が絶妙にマッチしている。

原曲の「ノー・ウーマン、ノー・クライ」の意味は、Wikipediaによると、
『繰り返されるフレーズ「No Woman, No Cry」はジャマイカ・クレオール語に直すと「No, woman, nuh cry」と表記される。「nuh」は「don't」を縮めたジャマイカの言葉。つまりマーリーはこの曲で「No, woman, don't cry」と歌っていることになる』

したがって「泣かないで」ということだ。

民謡「てんよう節」の囃子「てんよう てんよう しとぅりとぅてん」を元にしたと思われる「てんしとぅりとぅ てんよう てんよう」が実に効果的なリズムを醸し出している。

歌詞には、夜に野原で若い男女が遊んだモーアシビの光景と、女性の彼氏への熱い想いが描かれている。

女性である主人公の想う人はモーアシビの「めーだちあふぃぐゎー」(前に立つ兄さん)というのは「モーアシビ の頭(かしら)」とも言われ、モーアシビ の場で踊らせても一番うまい、そして三線では民謡を奏で、舞踊の地謡も務める三線弾き(さんしんひちゃー)のリーダーのことであろう。

少し横道にはそれるが、そのモーアシビ の情景とはどんなものだったのだろうか。

このウタの理解のために、当ブログの「越来節」で取り上げた「モーアシビ のイメージ」を一部再掲する。

モーアシビのイメージ

『しまうた』(一九二二年)所収『ヤンバル今帰仁のモーアシビ(玉城鎮夫)』より。
このパンフレットには1930年代以前のモーアシビの様子が描かれている。

「兼次部落の毛遊び」
まず毛遊びについての呼称について
(イ)毛とは野原の呼称である。
(ロ)場所は第一条件として部落のはずれ
(ハ)部落民の安眠の妨害にならない距離その他地形の平坦地であること。
(二)月夜が多く実施され闇の夜の星空の下で、たまには灯火もあった(砂糖小屋の中で)
(ホ)時刻、夏は9時半ごろから10時ごろまでには集合した。その他の季節はそれより平均して1時間か1時間半くらい早く集まった。
(ヘ)製糖期や田植前後の準備と田植えの諸作業期には中断が多かった。
(ト)人員は20人から特別に多い時は30人くらい。
(チ)三味線弾きは二、三名が多かった。
(リ)集合隊形は男女対向と円座形で座った。
(ヌ)毛と雖も芝生や雑草の少ない所にはその近くから草を手で千切って敷いた。
(以下略)』

こうしたモーアシビは1930年代からの日本の軍国主義への傾注とともに「風紀を乱す」と言う名のものとに取り締まりの対象となり警察などによって存続できなくなった。


初代ネーネーズのアルバムから最近のネーネーズのアルバムにも収録されている。




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2018年09月26日

仲島節

仲島節
なかしまぶし
nakashima bushi
語句・仲島 「[中島]那覇にあった遊郭の名」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。那覇には「辻」(ちーじ)、中島、渡地(わたんじ)の三つの遊郭があった。【沖辞】によると、辻は本土人(薩摩藩)、中国人、首里那覇の上流人を相手としていた。中島は首里那覇の普通の士族を相手にした高級遊郭で、渡地はいなか相手と、それぞれ、客の層が違っていたという。今の泉崎付近にあった。


唄三線 嘉手苅林昌


一、仲島の小橋あにんある小橋 じるが小橋やら定め苦りしゃ
なかしまぬくばし'あにん'あるくばし じるがくばしやら さだみぐりしゃ
nakashima nu kubashi 'aniN'aru kubashi ziru ga kubashi yara sadamigurisha
仲島の小橋 あんなにある小橋 どれが(約束の)小橋なのか決めにくい
語句・あにん あんなにも。<あん。ある。+ん。も。強調の助詞がついて→あにん。(例えば、「わん」〈私〉と「ん」が付いて「わんにん」〈私も〉となる」)・じる どれ。じるが→どれが。・ぐりしゃ しにくいことよ!(感嘆)。<ぐりしゃん。「‥しにくい。‥しがたい。」【沖辞】。



二、何時し名残ちゅが仲島の小橋 恋渡る人の繋ぢ所
'いちしなーぬくちゅが なかしまぬくばし くいわたるふぃとぅぬちなじどぅくる
'ichi shi naa nukuchuga nakashima nu kubashi kui wataru hwitu nu chinaji dukuru
いつのことか名が残ったのは 仲島の小橋 恋を渡る人を繋ぐ所
語句・いちし いつの。・ちなじ 繋ぎ。<ちなじゅん。糸などをつなぐ。



三、たとい仲島や音絶えて居てん恋渡る人の沙汰や残て
たといなかしまや'うとぅたいてぃうてぃん くいわたるふぃとぅぬさたやぬくてぃ
tatui nakashima ya 'ututaiti utiN kui wataru hwitu nu sataya nukuti
たとえ仲島は評判が絶えてしまっても恋渡る人の噂は残って
語句・うとぅ 「音。音響」もあるが「たより。音さた」「うわさ。評判」がある。「〜」・たいてぃうてぃん 絶えてしまっても。普通「絶えて」のウチナーグチは「てーてぃ」<てーゆん。を使うが林昌さんは「たいてぃ」と。文字数が「てーてぃ」だと二文字で字数足らずになるからか。・さた 噂。



四、仲島の浦の冬の寂しさや千鳥鳴き声に松の嵐
なかしまぬ'うらぬふゆぬさびしさや ちじゅいなちぐぅいにまーちぬ'あらし
nakashima nu 'uranu huyu nu sabishisa ya chiui nachikwii ni maachi nu 'arashi
仲島の浦の冬のさびしさは千鳥の鳴き声に松の嵐
語句・うら 「陸地が湾曲して湖海が陸地の中に入り込んでいる地形を指す。特に浦・浜は、前近代において湖岸・海岸の集落(漁村・港町)を指す用語としても用いられていた。」(Wikipediaより)





(コメント)

在りし日の嘉手苅林昌さんがよく好んで歌われていた曲の一つがこの「仲島節」。
普通のテンポと少し早弾きのそれがあり、人気度が高い民謡の一つ。

仲島と言えば、「仲島の大石」が有名で、泉崎にある那覇バスターミナル(2018年9月現在改装中)に突き刺さるようにそれは現在も残されている。その大石はよく見ると下の部分は波で侵食された跡、ノッチがある。沖縄の海岸でよく見るあの逆三角形の岩と同じものである。そしてこの岩は琉球時代の久米村の人々が「分筆峰」と呼んで縁起が良い岩として大切にされてきた歴史がある。


(2011年、筆者撮影)

仲島について

このウタは遊郭があった「仲島」をテーマにし、そこにあった小橋や浦の情景を描き込んでいる。それを知る手がかりを残された資料を元に少し覗いてみよう。

沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫に「沖縄志」(伊地知 貞馨著)がある。この作者のことについてはまた別の機会に触れたい。伊地知 貞馨(1826-1887)は薩摩藩出身の明治時代の官僚だ。この伊地知が1877(明治10)年に書いた「沖縄志」の第1巻に「那覇港圖」が描かれてある。



実に興味深い資料であるがここで見てほしいのは左側の仲島。拡大してみる。



仲島の大瀬(うふし)と仲島池がわかる。大瀬(うふし)は現在では大石(うふいし)と呼ばれているが大きな隆起サンゴ礁である。仲島池は「仲島小堀」(なかしまぐむい)と呼ばれていた。


「仲島の小橋」とは

「仲島小堀跡」(泉崎1-9)には那覇市が案内板を立てている。



その案内板の説明文にはこう書かれている。

『泉崎村(いずみざきむら)にあった人工の溜(た)め池跡。
 かつて泉崎村の地先一帯は、久茂地(くもじ)川が漫湖(まんこ)に合流する河口で、土砂が堆積(たいせき)した中州(なかす)は「仲島(なかしま)」と呼ばれ、その後の埋立により陸続きとなった地域である。
 河口(かこう)の水が湾入(わんにゅう)していた所は、17世紀中頃、泉崎村在住の唐人(とうじん)の薦めにより、火難封じの風水として、土俵をもって潮入口を塞ぎ、溜め池(小堀(クムイ))とした。小堀は、王国時代から養魚場として使われ、後に泉崎村の管理地となり、池から上がる収入で小堀の浚渫費(しゅんせつひ)に充てたという(『南島風土記(なんとうふどき)』)。
 仲島小堀では、その後も鯉(こい)や鮒(ふな)が養殖されていたが、昭和初期には埋め立てられ、1937年(昭和12)、埋立地に済生会(さいせいかい)病院が建設された。
 一方、仲島には、1672年に「辻(つじ)」(現那覇市辻一帯)とともに花街(はなまち)が開かれた。歌人として有名な「よしや」(吉屋チルー)は、この仲島で生涯を閉じたとされる。泉崎村から仲島へは小矼(こばし)(仲島小矼)が架けられており、花街への出入り口であった。仲島は、1908年(明治41)に辻に統合・廃止され、小矼も埋立・道路拡張により消失した。
 花街廃止後、埋立により住宅地として発展した泉崎は、沖縄戦後の区画整理により、往時の街並みとは異なった住宅地となった。』


上に掲げた「仲島節」の一番、

仲島の小橋あにんある小橋 じるが小橋やら定め苦りしゃ

に出てくる「小橋」とは上の説明文の中の

「泉崎村から仲島へは小矼(こばし)(仲島小矼)が架けられており、花街への出入り口であった。仲島は、1908年(明治41)に辻に統合・廃止され、小矼も埋立・道路拡張により消失した。」

の中の小矼のことだったのだろう。
ちなみに「矼」とは「石橋」のことである。


そして「仲島節」の四番で

仲島の浦の冬の寂しさや千鳥鳴き声に松の嵐

と歌われている「浦」とは仲島の大瀬(大石)が浮かぶあたりなのか、それとも仲島の小堀が海とつながっていた時代の「浦」なのか、どちらかはわからない。

遊郭の仲島は1908年(明治41年)に辻と統合されて移転した。
そして大正初年までにこのあたりの埋め立てが進んだ。

その後沖縄の鉄道の那覇駅が置かれていた。
沖縄戦で一帯は焼け野原となったが戦後はバスのターミナルとして沖縄の重要な交通の要所となって今に至る。

このウタが歌われた景色は「仲島の大石」以外にはもう消えてしまっている。
しかし三番の
たとい仲島や音絶えて居てん恋渡る人の沙汰や残て

歌うたびにタイムカプセルのように蘇るのである。


(この記事は2005年12月29日の記事を加筆したものです)




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2018年09月20日

今帰仁玉城小唄

今帰仁玉城小唄
なちじん たもーし こうた
NachijiN tamooshi ko'uta
語句・なちじん 今帰仁はウチナーグチで「なちじん」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)より。・たもーし 沖縄県今帰仁村の村。「岸本・玉城・寒水の三つの村(ムラ)が合併してできた字(アザ)である」(今帰仁村のホームページより)。


作詞/玉城長盛 作曲/川田松夫
(平良哲男氏の採譜から)


一、今帰仁の玉城 乙羽山くさて 昔並松の 栄え美らさ
なちじんぬたもーし うっぱやまくさてぃ んかしなみまちぬ さかいちゅらさ
nachijiN nu tamooshi 'uppayama kusati Nkashi namimachi nu sakai churasa
今帰仁村の玉城は乙羽山が後ろに控え 昔松並木はよく繁って美しいことよ
語句・うっぱやま 今帰仁村の玉城のすぐ南側にある標高275mの山。「乙羽岳」と呼ばれている。・くさてぃ 「後ろにすること。背にすること」【沖辞】。<くしゃてぃ。くし=背中、腰。どちらかというと背中全体。腰回りは「くし」(腰)と言わず「がまく」と呼ぶ。・なみまち 「松並木」【沖辞】。地元では「なんまち」と発音する。仲原馬場という場所にあるリュウキュウマツの並木。蔡温が植林を推奨したことにちなんで「蔡温松」とも呼ばれている。今帰仁ミャークニーの一節に「今帰仁の一条 並松の美らさ 花染みの芭蕉布と美童美らさ 」があるが「なんまちぬちゅらさ」と詠まれている。


ヤサヤサ ウネササ サカイチュラサ
やさやさ うねささ さかいちゅらさ
yasa yasa 'une sasa sakaichurasa
(囃子「ヤサヤサウネサ」は以下同じだが、「サカイチュラサ」のようにウタの最後の六文字が囃子の最後になる)
語句・やさ そう。・うね 「おや。珍しいものを見た時などに発する」【沖辞】。



二、並松の美らさ 村ゆだちかくて 生まりたる村や 親の心
なみまちぬちゅらさ むらゆだちかくてぃ んまりたるしまや わやぬくくる
namimachi nu churasa mura yu dachi kakuti 'Nmaritaru shima ya waya nu kukuru
松並木の美しことよ 村を抱き囲って 私が生まれた村は 私のご両親のようだ
語句・ 文語で「を」。口語では使わない。・だち 抱き。<だちゅん。抱く。・かくてぃ。囲って。かくまって。<かくゆん。「囲う。かくまう。」【沖辞】。・わや 私の親。<わー。私の。+ うや。親。融合したもの。・くくる 「心」ほかにウタでは「・・のよう」という比喩にも使われる。ここでも「松並木が村を抱き守っているように親が子ども抱いているようだ」ととれる。



三、ソーリ川の水や 岩かみて湧つい 玉城美童の 身もち美らさ
そーりがーぬみじや いわかみてぃ わちゅい たもーしみやらびぬ みむちちゅらしゃ
soorigaa nu miji ya 'iwa kamiti wachui tamooshi miyarabi nu mimuchi jurasa
ソーリガー(清水井)の水は岩を頭に乗せたようにして湧く 同じように玉城の娘は品行が美しいことよ
語句・そーりがー「字玉城にある泉の名。清水井の意。ソーヂは清水。『寒水』の字を当てた。」【今帰仁方言データベース】。ソーリガーは玉城にある。玉城は岸本・玉城・寒水の三つの村(ムラ)が合併してできた字(アザ)である。そのうちの寒水だった村にある。ソージガーがソーリガーと変化したのだろう。がー <かー。井戸。湧き水。この句は今帰仁ミャークニーの一歌詞である。・みむち「身持ち。体の保ちかた。また、品行。」【沖辞】。



四、村のなりわいや 作いもづくい 働ちゅる人の 心うりさ
むらぬなりわいや ちゅくいむじゅくいに はたらちゅるふぃとぅぬ くくるうりしゃ
mura nu nariwai ya chukuimujukui hatarachuru hwitu nu kukuru 'urisha
村の生業は農作物を作ること 働く人の心の嬉しさよ
語句・ちゅくいむじゅくい「農作物。季節季節の作物。」【沖辞】。・うりしゃ 嬉しさ。<うっしゃん。嬉しい。



五、デゴの花咲ちゅる玉城村里や 天雲ん晴りて山の美らさ
でぃーぐぬはなさちゅる たもーしむらさとぅや あまぐむんはりてぃ やまぬちゅらさ
diigu nu hana sachuru tamooshi murasatu ya 'amagumuN hariti yama nu churasa
デイゴの花が咲いている玉城の村々は天の雲も晴れて山が美しいことよ!
語句・でぃーぐ 「梯梧。旧暦4月ごろ、蝶形の、大きい、深紅の花を開く。沖縄の国花とされた。木材ではいろいろの器具を作る」【沖辞】。マメ科の落葉高木。東南アジア原産で日本では沖縄が北限。



六、岸本と玉城 寒永(そうじ)まで三村 互に肝合ち 村の栄え
きしむとぅとたもーし そーじまでぃみむら たげにちむあわち むらぬさかい
kishimutu tu tamooshi sooji madi mimura tagee ni chimu 'awachi muranu sakai
岸本と玉城、そして寒水まで三つの村 互いに心を合わせて村が栄える
語句・みむら 字の玉城は「岸本・玉城・寒水の三つの村(ムラ)が合併してできた字(アザ)である」(今帰仁村のホームページより)。



今帰仁の玉城を讃える民謡として、玉城出身の玉城長盛さんと川田松夫さんが作られた。玉城では婦人会が踊っておられるということで、三線の工工四を起こすために平良哲男氏から音源を頂いた。ネットで調べてみるとレコードの表紙と演奏者の名前がわかる。


▲レコードの表紙。

「今帰仁玉城小唄」という名前だと分かる。
バンド名は「川田松夫とニュースターズ」。
したがって歌われているのは川田松夫氏、ご本人である可能性が高い。

歌詞について

作詞された玉城出身の玉城長盛氏は三番に「今帰仁ミャークニー」の歌詞を挿入されている。
玉城長盛氏の詳しいことについてはわからない。

川田松夫氏のプロフィール

川田松夫氏は「西武門」節の作者として有名であるが、すこしプロフィールを見てみよう。

1903年(明治36年)那覇市生まれ。早稲田大学卒、大蔵省、沖縄県庁の職員時代に琉球古典音楽、舞踊を習得した。
1932年(昭和7年)「一日橋心中」「西武門節」発表。
1953年(昭和28年)東京で沖縄料理店「みやらび」開店。
1983年(昭和56年)永眠。78歳。
代表作品 西武門節、一日心中、オーライ節、疎開小唄、帰還の知らせ、しみるする何が、
居しどぅかかる、酒ぐゎ飲み飲み、嘆きの渡り鳥、想い。
【参考「沖縄新民謡の系譜」(大城學)】

今帰仁玉城小唄の工工四

(クリックで拡大)
又は「今帰仁玉城小唄」の工工四


(採譜 筆者たるー)


▲今帰仁玉城で「今帰仁玉城小唄」を踊っていらっしゃる婦人部の皆さん。


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2018年05月30日

今帰仁ミャークニー

今帰仁ミャークニー
なちじんみゃーくにー
nachijiN myaakunii
今帰仁のミャークニー(宮古の音)
語句・なちじん 現在の沖縄県国頭郡今帰仁村を指す。琉球王朝時代の17世紀の頃、今帰仁間切はほぼ本部半島全域だったが18世紀の初めに本部間切と今帰仁間切に分離された。・みゃーくにー宮古の青年が歌うアヤグを聴いた今帰仁の青年が今帰仁で作り変えたという伝承があるウタ。故に「宮古根」「宮古音」「宮古ニー」などとも書かれる。沖縄本島で愛される様々なナークニーの原型とも言われる。


歌三線 平良正男氏
(2017年末にお借りしたテープから筆者聴き取り。今までの今帰仁ミャークニーとは手もウタも少し違うもの。歌詞、訳には平良哲男氏からアドバイスを頂いた)



1、他所目まどぅはかてぃ 三箇村通てぃ(ヨ)月ぬ抜ちゃがてぃる 戻てぃいちゅさ
[(ヨ)は囃し言葉なので以下省略。]
ゆすみまどぅ はかてぃ さんかむらかゆてぃ ちちぬぬちゃがてぃる むどぅてぃいちゅさ
yusumi madu hakati saNkamura kayuti chichi nu nuchagati ru muduti 'ichu sa
人目を忍んで三つの村に通って、月が雲を抜けて上がったころには戻っていくよ
語句・ゆすみ 「よそ目。人目。他人に見られること。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・まどぅはかてぃ すきを見はからって。つまり「ゆすみまどぅはかてぃ」で「他人の目のすきを見はからって」。・さんかむら 玉城村・岸本村・寒水村のアサギで、三つの村の存在を示すものである。三つの村は、明治36年に合併され玉城村となり、同41年に字玉城と改称され、現在に至る。・ぬちゃがてぃる 雲を抜けて上がって。<ぬちゃがゆん。「抜けて上がる。抜けて上に出る」【沖辞】。+る<どぅ。こそ。



2、月や抜ちゃがてぃん なま鶏や鳴かん 夜明け星見らん時ゆでむぬ
ちちやぬちゃがてぃん なだとぅいや なかん ゆあきぶし みらんとぅちゆでむぬ
chichi ya nuchagatiN naada tui ya nakaN yuuakibushi miraN tuchi yu demunu
月が上がってもまだ今はニワトリは鳴かない 夜明け星が見えない時間であるから
語句・でむぬ 「…であるから。…なので」【沖辞】。・ゆあきぶし 明けの明星。金星。



3、恋ぬ邪魔すゆる 悪魔ふくら木や 何時枯りてくぃゆが 年や寄たさ
くいぬじゃま すゆる あくまふくらぎや いちかりてぃくぃゆが とぅしや ゆたさ
kui nu jyama suyuru 'akuma hukuragii ya ’ichi kariti kwiyu ga tushi ya yutasa
恋の邪魔をする悪魔のようなきりんそう(親のこと)は いつ枯れてくれるだろうか 年もとったよ
語句・ふくらぎ <ふくるぎ。「きりんそう。多年生草本。」【沖辞】。「魚を捕るために水中に投入する毒物。hukurugi(きりんそう)の茎・葉を切って乳状に液が出たところをそのまま水中に投入する」【沖辞】。ここでは子どもの恋の邪魔をする憎い親への例え。


4、約束やしちょてぃ あてぃぬねん里前 月や山ぬ端にさがるまでぃん
やくしくやしちょーてぃ あてぃぬねんさとぅめ ちちややまぬふぁにさがるまでぃん
yakushiku ya shichooti 'ati nu neeN satume chichi ya yama nu hwaa ni sagarumadiN
約束はしているのに 当てにならない貴方 月が山の端に沈むまでも来ない



5、無蔵がさたすたる 中城ぶじょや 黒髭小立てぃてぃ うとぅな なたさ
んぞが さた すたる なかぐしく ぶじょーや くるふぃじぐゎーたてぃてぃ うとぅななたさ
Nzo ga sata sutaru nakagushiku bujoo ya kuru hwiji gwaa tatiti ’utuna natasa
貴女が噂をした中城奉行は黒ひげを立てて大人になったよ
語句・さたうわさ。・ぶじょー 奉行。平良哲男さんは「巡査」と訳されておられた。・うとぅな 大人。



6、むしるかちゃ引ちゃい 里まちゅる裏座 里や花ぬ島 恋の遊び
むしる かちゃ ふぃちゃい さとぅまちゅる うらじゃ さとぅやはなぬしま くいぬあしび
mushiru kacha hwichai satu machiru ’uraja satu ya hana nu shima kui nu ’ashibi
筵をひいて蚊帳を吊って貴方を待つ裏座 貴方は遊郭へ行って恋の遊びでもしてるのか?
語句・むしる 筵。むしろ。い草、アダン葉などを編んで作る。布団の代わりに使用。・かちゃ 蚊帳。蚊帳は吊るすが「ふぃちゅん」(引く)と言った。・うらじゃ 裏座。寝間。・はなぬしま 遊郭やモーアシビの盛んなシマのことをそう呼んだ。



7、寄る年ぬまたとぅ若くならりゆみ ただ遊びみそり 夢ぬ浮世
ゆる としぬまたとぅわかくならりゆみ ただあしびみしょーり いみぬうちゆ
yuru tushi nu matatu wakakunarari yumi tada ’ashibi misyoori ’imi nu ’uchiyuu
寄る歳は 再び若くなれまい?ただお遊びください 夢のようなこの世を
語句・ならりゆみ なれるか?という疑問文だが、「いや、なれない」という反語表現を含む。



8、誠一筋に生ちち来ゃる我身の 神ぬお助けに あるが嬉しゃ
まくとぅ ひとぅしぢに いちち ちゃる わみぬ かみぬ うたしきに あるが うりしゃ
makutu hwitushiji ni ’ichichi chaaru wami nu kaminu ’utashiki ni ’aru ga ’urisha
誠実に生きてきた自分に 神のお助けがあることが嬉しい
語句・うたしき 「お助け」の文語表現。



(解説)

これまで取り上げてきた「今帰仁ミャークニー」の続きである。



このウタとの出会いは偶然だった。
2017年12月に平良哲男さん宅にお邪魔したときに平良正男さんが録音された多くのカセットテープの中から9本ばかりをお借りした。そのカセットのケースには「平敷の与那嶺盛カマさん」と書いてあったので、私はその方の歌三線だと思い込んでいた。

これまでの正男さんの手や節とは違っていたからだ。しかし平良哲男さんが正男さんに確認すると正男さんの歌だということが確認できた。

これまでの今帰仁ミャークニーとの違い

・「中出じゃし(なかんじゃし)」と呼ばれる歌い出し。
・高く上がっている時間が一拍多い、つまり長い。
・前半と後半の間(まー)が短い。
・しかし全体の拍数は全く同じ。手も似ている。

などが挙げられる。

参考のために二つの工工四を比べて掲載しておく。


《これまでの今帰仁ミャークニー》


《今回のもの》

拡大したものはコチラ


モーアシビに結びついた歌詞

歌詞を見てみよう。その多くがモーアシビを連想させる歌詞になっている。

昔のモーアシビの情景はどうだったのだろう。あるものが歌えば、誰かが歌で返す、いわゆる歌垣(ウタガキ)が行われた。その歌で愛を語らう者がいたり、互いを褒めたり、揶揄したり、また神を讃えたりして、いわば芸能を磨き、男女の想いも強くしていったという。また力自慢の者たちは相撲をしたり、賭け事をしたり、若者たちの自由な娯楽の場であった。

自分のシマ(村)だけでなく他シマに出かけていくこともあったようだ。

平良正男さんによると、シマからシマへ移動する時には必ずミャークニーを歌ったという。それは夜中の道の寂しさに負けないためもあるし、元気をつけたり、退屈をしのぐためでもあったという。何時間もあるくので歌詞は無数に覚えなければなかったそうだ。即興もあっただろう。シマのモーアシビに参加すればウタによる勝負もあっただろう。 そうしてウタが鍛えられてきたのだ。

そんなモーアシビは1940年代には姿を消した。日本の軍国主義の台頭と共に吹き荒れた「風俗改良運動」の中で徹底的に警察、青年団、村組織をあげて一掃されてしまった。

こうしたモーアシビの受難は、さかのぼれば薩摩藩が琉球を軍事的に制圧した17世紀以降強まっていた。琉球王府は薩摩藩にも上納する租税を強化するとともにモーアシビや女性たちの神遊び(シヌグ)などを制限し、自由恋愛ではなく家父長制の下で親が認めた結婚が主流となるようにした。モーアシビは仕事にも影響がある、家父長制にとってもよろしくない、というわけだ。

もう失われたモーアシビの情景。しかしウタは残っている。ミャークニーに限らずモーアシビから生まれ、育てられたウタは多い。その情景は消えてしまったのにウタが継承されるかどうかは非常に厳しい状況にある。歌い手も高齢化しテクニックの継承や新たな歌詞なども生まれてくることは難しいのだ。

「ウタのゆりかご」のようなモーアシビの情景を浮かび上がらせる今帰仁ミャークニーもまた歌い継いでいけるかどうかの瀬戸際にあると言っても過言ではない。平良正男さんの御子息の平良哲男さんは歌い継いでいかれようとされている。

私も微力ながらそれを応援するとともに広島でも歌っていきたいと思っている。




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Posted by たる一 at 07:27Comments(0)な行沖縄本島

2017年06月27日

上り口説

「上り口説」についての残された絵画、遺跡などをみながら当時の「江戸上り」の様子に迫り、「上り口説」の背景を深めてみたいと思う。

発音、意味の詳細に関しては「上り口説」(たるーの島唄まじめな研究)をご参照下さい。


一、旅の出立ち観音堂 先手観音伏せ拝で黄金酌取て立ち別る
(発音)たびぬ んじたち くゎんぬんどー しんてぃくゎんぬん ふしうぅがでぃ くがにしゃくとぅてぃたちわかる
(歌意)
旅の出発は観音堂 先手観音を伏して拝み 別れの黄金の盃を交わして立ち別れる


▲首里観音堂

首里観音堂のホームページに琉球王朝と観音堂の関係が書かれている。少し長いが引用する。

『寺院の創立縁起は、琉球王朝時代、佐敷王子(のち尚豊王)が人質として薩摩に連れて行かれた際、父・尚久王は息子が無事帰国できたら首里の地に「観音堂」(観音様をお祀るお堂)を建てることを誓願されました。
その後、無事帰郷したので、1618年、首里の萬歳嶺という丘(高台)に観音堂を建て、その南に、慈眼院を建立しました。
1645年より毎年、琉球王国国王が国の安全を祈願・参拝するようになりました。
また、当時、琉球王国は貿易(航海)が国の中心であり、首里の萬歳嶺という丘からは視界が開け、那覇の町・港・海・空を一望でき、渡航の安全・国の安全を祈願するのに最良な地でした。 
その地に、すべての人を守り、すべての人を救い、願いを叶える千手観音菩薩像をお祀りし、国王はすべての祈願をしておりました。』
(首里観音堂のホームページより)

1609年の薩摩藩の侵略、琉球国支配によって「人質」にされた佐敷王子の無事を祝ってつくられた観音堂は、その後琉球使節の航海の無事を祈る場所となった。それが江戸上りの旅の始まりを象徴している。

琉球使節の人員は百名前後から百数十名だった。その全員だったのか、代表する正使だけが礼拝したのかわからないが、千手観音像の前で別れの盃を交わした様子から始まる。


▲千手観音像
沖縄戦でこの千手観音像も観音堂も焼けたということなので戦後に再建されたものだ。

19世紀に描かれたとされる「琉球交易港図屏風」(作者不明。滋賀大学経済学部附属史料館蔵)には、首里城から観音堂、大道(松原)が単純化されているとはいえはっきり描かれている。


▲観音堂(部分図)


▲首里城。(部分図)


▲観音堂から大道松原。(部分図)


私たちのウタへのイメージを非常に膨らませてくれる絵図だ。


ニ、袖に降る露押し払ひ 大道松原歩みゆく 行けば八幡 崇元寺
(発音)
すでぃにふる ちゆ うしはらい うふどーまちばらあゆみゆく ゆきばはちまんすーぎーじ
(歌意)
袖に降る露を押し払い大道松原歩み行く 行けば八幡崇元寺

大道という地名は現在も首里から那覇、安里に向かう道のあたりの地名として残っているが、「松原」の松は廃藩置県の際に切られてしまった。


▲観音堂の少し下に位置する「都ホテル」。このあたりに松原と道があったようだ。そこから下ったあたりに昔の「大道松原」を描いた絵を掲示した碑がある。


碑の説明文は少し長いが引用しておこう。

『大道松原(ウフドーマツバラ)は、琉球王国時代、現在の首里観音堂付近から大道(だいどう)地域にかけて続いていた見事な松並木の呼称。旅立ちの謡(うた)として知られる「上り口説(ヌブイクドゥチ)」にも登場する景勝の地であった。
 大道地域には「大道毛( ウフドーモー)」と呼ばれる小高い丘があり、1501年に尚真(しょうしん)王は、尚家宗廟(そうびょう)の円覚寺(えんかくじ)を修理するための材木として、この丘に松の苗一万株を植えさせた。俗に「サシカエシ松尾之碑文(マーチューヌヒムン)」といわれる碑を建立した。
 当時「万歳嶺(ばんざいれい)」(現観音堂)、「官松嶺(かんしょうれい)」(現都ホテル付近)から、この「大道毛」を含む大道地域にかけて、松並木が続いていたのである。
 1879年(明治12)の沖縄県設置後、これらの松並木は切り倒され、1945年(昭和20)の沖縄戦で大道毛にあった碑も消滅した。戦後、道路の拡張整備や宅地化により、周辺は大きく様変わりした。』


琉球使節が江戸に出発したのはだいたい旧暦6月くらいだった。松の枝からの「露」が袖に降ってきたことと「涙」とをかけているのかもしれない。


▲安里八幡。筆者撮影


▲崇元寺。

一番の観音堂もこの崇元寺も臨済宗の寺だ。臨済宗は薩摩侵略の前から琉球に入っていたが布教活動も弱く一般には浸透していなかった。「除災」の祈祷に重点をおいていたようだ。


さて「上り口説」の三番へ。

三、美栄地高橋うち渡て 袖ゆ連ねて諸人の 行くも帰るも中之橋
(発音)
みーじたかはし うちわたてぃ すでぃゆち(つぃ)らにてぃ むるふぃとぅぬ ゆくむ かいるむ なかぬはし
(歌意)
美栄地高橋を渡って袖を連ねて諸人が行くのも帰るのも中之橋

美栄地高橋とはどこなのか。


▲ゆいレールの「美栄橋駅」前に碑文があり「美栄地高橋」(みーじたかはし)や長虹堤の説明がある。


碑文にある絵は明治初期のもので、すこしデフォルメしてある。もう少し細長いものだが美栄橋も描かれている。

上り口説の歌詞には「長虹堤」は出てこないが、この時代、長虹堤を渡らずしては崇元寺から美栄地までは行く事はあり得なかった。


▲「新修美栄橋碑」
碑文の内容。
『新修美栄橋碑
 いにしえの那覇は「浮島」と呼ばれる島であったため、首里との交通は不便でした。
 そこで尚金福王は、1452(景泰3)年 、冊封使を迎えるにあたり、国相懐機(こくそうかいき)に命じて、崇元寺前からイベガマ (現松山1丁目付近)に至る約1kmの「長虹提(ちょうこうてい)」という、海中道路を築かせました。「長虹提」には、3つの橋が架けられていたといわれ、美栄橋はその内の一つでした。
 那覇が発展して行くに従い、美栄橋は手狭になり、さらに上流からの土砂が橋の付近にたまって浅くなってしまいました。そのため、川を浚え、橋を架け替えることになり、1735(雍正13)年10月8日に着工、翌年2月6日に竣工しました。その経緯を記してあるのが、新修美栄橋碑です。正議大夫揚大荘(せいぎたいふようたいそう)が文をつくり、都通事揚文彬(とつうじようぶんひん)がこれを書き上げました。碑文には、工事に要した費用などが記され、当時の経済状況もうかがい知ることができます。
 その後、美栄橋は1892(明治25)年に改修されましたが、沖縄戦で破壊されてしまいました。しかし、碑だけは原型を止め、付近の民家に保管されていたものを現在地に移して保存しています。


15世紀頃の那覇は「浮島」とよばれる小さな島で、首里や崇元寺とは離れていたために尚金福王によって長虹堤が築かれた。美栄橋はその橋の一つだった。

わかりやすく図に表すと

(青い囲いは現在の海岸線。緑色が昔の陸地だったところ。黄色(右)が長虹堤、左は中之橋。)

崇元寺の前から、現在では久茂地川から一つ南側の道路を沖映通りに抜け、さらに西に向けて、現在の美栄橋駅の横を通り抜けるルートが長虹堤だった。


▲写真としてはこれが一番古いもので大正期の長虹堤。現在の「十貫瀬通り」あたり。周囲より高い堤となっていて、周りは畑や家が建ち昔の面影は少ないが道の幅はおそらく昔のままだろう。

もう一つは、中国から冊封の為に琉球を訪れた周煌(しゅうこう)が1756年に描いた絵。(『琉球國志略』)


▲これを見ると、長虹堤が海の上に浮かぶように描かれている。

つまり、昔の崇元寺から長虹堤の最終地点(イベガマ。現在の松山)あたりまでの約一キロの長さを持つ、海の中に堤を積み上げて人工的に作った海中道路だった。

その痕跡はほとんど地中に埋まってしまったとのことだが一部は残っている。

▲この段差が長虹堤の痕跡である。

さらにスタンフォード大学が公開している、日本陸軍によって1888年(明治21年)頃に作ったとみられる地図が存在する。そこには長虹堤の痕跡とみられる道が描かれている。



長虹堤とは
まとめておこう。

・当時、那覇は「浮島」と呼ばれる幾つかの島だった。
・中国からの冊封使を那覇で迎えるも、首里までは船橋(船をつないだ橋)で渡さなくてはならなかった。
・1450年に琉球王となった尚金福は翌年1451年に長虹堤の建設を命じた。
・当時は海が深く工事は難航を極めたが宰相懐機の「祈祷」が功を奏し、潮が引いて工事は進んだという伝説も残る。
・崇元寺前から現在の松山1丁目あたりまでの全長約一キロメートル。高さは約1.5メートル。
・安里橋と美栄橋(「待兼橋」と呼ばれていた)を含む7ヶ所に石橋があった。

「上り口説」三番にもどる。

「高橋」と呼ばれる理由には諸説ある。


▲那覇市歴史博物館に収められている美栄橋の古い写真。

何れにせよ、崇元寺から美栄地高橋までは長虹堤を渡らなければ行くことができず、さらに美栄地 高橋を渡った使節は、袖を連ねながら、行くのも帰るのも「中の橋」を渡ることになる。

その三番に出てくる「中ぬ橋」だが、那覇市内には「中之橋」という地名が泊(とまり)にもあり、そこを指すと理解されてる方も少なからず居られるようだ。それは間違いで、長虹堤を使節が通ったとすると、わざわざ遠回りをする泊は通らないと考えるのが自然だろう。



さて、崇元寺からイベガマ(チンマンサー)と呼ばれた場所まで伸びた長虹堤を渡り、浮島にたどり着いた一行は「袖を連ねて」大勢が揃って歩いたのだろう。とにかく浮島の南側をたどるように西に向かい、上の図にあるような橋にたどり着く。「諸人」というのは全員という意味で、旅立つ一行とその家族「親兄弟」も一緒に歩いたということだろう。

橋をもう一度見てほしい。

先端は「三重城」と書いてありこれが六番にでてくる「三重城」。そして、その次は「仲三重城」、これが何なのか、よくわからない。そして「仲の橋(臨海橋)」とあり、さらに「臨海寺」「大橋」「小橋」と続き、橋は陸地に繋がる。
「上り口説」の「中の橋」とこの「仲の橋(臨海橋)」が同じものだという説が多い。

ちなみにその根元にあるのは「迎恩亭」、ここは中国から訪れた冊封使を一時的に歓迎する場所だった。

「琉球貿易港図屏風」(浦添市美術館蔵)を見てみよう。ここにも崇元寺、崇元寺橋、美栄橋(美栄地高橋)が描かれている。二番で取り上げた「琉球交易港図屏風」とよく似ているが、模写されたものではないか、と言われている。


(文字は筆者が書き込んだ)


四番。

四、沖の側まで親子兄弟 連れて別ゆる旅衣 袖と袖とに露涙
(発音)
うちぬすばまでぃうやくちょーでー ちりてぃわかゆるたびぐるむ すでぃとぅすでぃとぅにちゆなみだ
(歌意)
沖(臨海寺)の側まで親子兄弟を連れて分かれる旅衣の袖と袖とに露のような涙

ここで歌われている「沖」というのは「臨海寺」であるというのが通説だ。臨海寺は「沖の寺」とも呼ばれていた事がその根拠。つまり「臨海寺」の近くまで、親兄弟などの家族が見送りに来ていて、別れを惜しんだ、という歌詞の理解になる。

沖=臨海寺の痕跡が那覇港埠頭にある。


▲沖の寺と呼ばれた臨海寺の跡(現在臨海寺は寺は柿ノ花、権現は安里八幡にある。)。
この拝所は那覇港のコンテナ置き場にあり、入るためには許可が必要な場合がある。気をつけたい。

那覇埠頭ターミナルのビルの裏には下のような説明板がある。



▲臨海寺の写真。説明板から。


しかし船にはどこで乗り込んだのか、実はよくわかっていない。
「沖のそばまで親兄弟」というくらいなので、そのあたりまでは家族も来たのだろう。
しかし六番の三重城からも家族が見送りをしている事から、沖(臨海寺)より先までも家族は行ったと考えても不自然ではない。

首里城から観音堂、崇元寺から中の橋までの道のりを図にまとめてみた。Googleマップスに重ねて、1700年代の海岸線も書き込んでみた。


「琉球貿易図屏風」にもまた描かれている。文字は筆者書き込み。



「上り口説」の五番。

五、船のとも綱疾く解くと 舟子勇みて真帆引けば 風や真艫に午未
(発音)
ふにぬとぅむぢなとぅくどぅくとぅ ふなくいさみてぃまふふぃきば かじやまとぅむに んまふぃちじ
(意味)
船のとも綱を急いで解き船員が勇めて真帆を引けば 風は船の後ろから南南西の風だ

いよいよ琉球使節の出航となる。これから約2000キロの旅、ほぼ一年を費やす。琉球使節が薩摩を経由して江戸に上る際の前半は船を多く利用している。琉球から薩摩、薩摩から九州の西側はほとんど船で港から港へ渡り、瀬戸内海に入って、大坂の港までは海路の旅。そこからは陸路を歩いて江戸までというルートだった。

Wikipediaにその行程がまとめられているので引用する。

六月ごろ季節風に乗り琉球を出発、薩摩山川港に至る。琉球館にてしばらく滞在し、九月ごろ薩摩を出発、長崎を経て下関より船で瀬戸内海を抜けて大阪に上陸。京都を経て東海道を東へ下り江戸に着くのは十一月ごろである。1~2ヶ月ほど滞在し、年が明けてから江戸を出発、大阪までは陸路、その後海路にて薩摩を経由し琉球へ戻る。ほぼ一年掛かりの旅であった。
(「江戸上り」Wikipediaより)

琉球王朝が所有したり使った船は、中国との交易に使ったのは進貢船(唐船)、マーラン(馬艦)船などと呼ばれ、元は中国のジャンク船を模したもの、あるいは直接中国が琉球に譲ったものだった。

薩摩藩との行き来にも中国との交易に使った進貢船から大砲を外したものが使われたりして、それは楷船と呼ばれた。ちなみにその前は美しい船という意味の「あや船」と呼ばれていたが薩摩藩がその呼び名を禁じて「楷船」となったいきさつがある。

琉球使節はこの楷船やマーラン船(貨物船)を船団として百数十人を薩摩まで運んだわけである。


▲マーラン船。(東京国立博物館所蔵)


▲楷船。(同上)

カラーにすると

(筆者作画)

船には航海の安全を祈る旗や飾りがされていたがそれは航海の行き先によって変わっていくが基本構造は変わらない。マーラン船もあや船も二本〜三本マストの帆を持ち、その帆は台形のような形をしていてシャッターのように上下に折りたためる構造だった。

さて、五番の歌詞の訳、繰り返しになるがこうなる。

(歌意)船のとも綱を急いで解き船員が勇めて真帆を引けば 風は船の後ろから南南西の風だ

「かじやまとぅむに んまふぃちじ」と歌う時の「まとぅむ」は

「舟のともの方向。また、その方向から吹く風」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】とあり
「とも」とは「船尾」の事。つまり「後ろから吹く風」のこと。

んまふぃちじ」はこの図を見てほしい。


▲時刻も方位も昔は皆十二支で表した。「午未」は「南南西」の方角である。
琉球にとって薩摩は北北東なので風に押されて前に進む帆船にとっては都合の良い、いやそうでなければ薩摩にたどり着けない風、というわけだ。

さあ、六番へ。

六、又も廻り逢ふ御縁とて 招く扇や三重城 残波岬も後に見て
(発音)
またんみぐりおーぐいぃんとぅてぃ まにくおーじやみーぐしく ざんぱみさちんあとぅにみてぃ
(歌意)又いつかは廻り逢う御縁だと言って招く扇は三重城 残波岬も後に見て

三重城から別れを惜しみ、再会を願って扇を招くように降っている家族の姿だろうか。


▲海から眺めた三重城。(筆者撮影)

そして船は風に乗り、あっという間に残波岬を通り過ぎる。

「上り口説」の残りの七番、八番を見ていく。

七、伊平屋渡立つ波押し添へて 
道の島々見渡せば 七島渡中も灘安く

(発音)
いひゃどぅたつなみうしすいてぃ みちぬしまじまみわたしば しちとーとぅなかんなだやしく
(意味)
伊平屋島の沖に立つ波は船を押し添えて 奄美の島々を見渡せば トカラ列島の航行中も灘は平穏だ



(▲「沖縄県史ビジュアル版8」を参考に筆者作成)

鹿児島から船で奄美や沖縄まで行かれたことのある方なら、天気が崩れると外洋での波の高さが半端ないことはご存知だろう。伊平屋島の沖の波が高くて航海も難しいところを「押し添いてぃ」としている。
「沖縄古語大辞典」(角川書店)を紐解いてみると「うしすいゆん」は「押して添える」とある。つまり高い波すらも船を押す力になっていると。穏やかでない海の波すらも航海を手助けしている、ということになる。「七島渡中も」はトカラ列島の沖合いを意味するが、ここも「穏やか」だと歌う。

実際にはトカラ列島周辺の海は「黒潮が渦巻く」航海の難所でもあった。この時期は台風も多くやって来ることがある。しかしそれでも安全な航海を願う気持ちが歌詞にもその願いを込めているわけだ。言霊(ことだま)を信じ、そこから生まれた「かりゆし」という航海の無事を祈る呪文と並んで沖縄の精神文化をよく表している。

八番では

八、燃ゆる煙や硫黄が島 佐多の岬に走い並で(エーイ) あれに見ゆるは御開聞 富士に見まがふ桜島
(発音)
むゆるちむりや ゆをーがしま さだぬみさちん はいならでぃエーイ ありにみゆるわ うかいむん ふじにみまごーさくらじま
(意味)
燃える煙は硫黄が島だ 佐多の岬を併走してそこに見えるのは御開聞岳 富士に見間違えるほどの桜島

細かい事を言えば「富士に見まごう」のは桜島というより開聞岳のほうではないか。「薩摩富士」との異名もあるほどだからだ。しかし、薩摩の象徴「桜島」を「富士山」に似ていると讃えるのは、琉球王朝の薩摩藩への配慮なのではないか。

「上り口説」は屋嘉比朝寄(1716-1775)の作品だと言われている。その明確な証拠を私は未だに見た事はないが、屋嘉比朝寄は若い頃薩摩藩に派遣され日本の謡曲や仕舞を学び、琉球に戻ってからは琉球古典を学び、工工四を中国音楽の楽譜に習って発明する。

当時日本全国で流行していた口説(くどき)を使って琉球から薩摩への旅を描く、まさに屋嘉比朝寄以外の作者は考えられないともいえる。


「上り口説」は江戸上りの歌とされている。薩摩までの道程で終わるのは、「薩摩藩向け」という理由だけでなく、首里から中の橋までの行程を詳しく描くことで「命をかけた使節」という印象もきちんと残したかったという意図があるように思う。

(追記)

最後に私が気になる琉球使節の絵を紹介しておきたい。


薩摩から船出する琉球使節

このチラシは福山市立鞆の浦歴史民俗資料館のもの。
上り口説を始め多くの琉歌に関する資料を集めた「やさしい琉歌集」(小濱光次郎著)にもこれが載っている。
「沖縄県史ビジュアル版8」に掲載されているものだが、鹿児島市立美術館所蔵で現在は非公開になっている。

よく見てほしい。


どの船も帆柱が一本、これは和船の特徴であり、琉球が中国や大和に使っていたと言われる唐船やマーラン船、楷船とは全く違う。

「薩摩から船出する琉球使節」、事実だとすれば、琉球使節は琉球から乗ってきた船を薩摩に置いて和船に乗り換えたということになる。


同じ資料にある使節の道のりなのだが、薩摩に入り、鹿児島の琉球館に行った後、川内(せんだい。原発がある所)や、久美崎という所からからまた船旅となっている。
おそらく鹿児島に琉球の船を置いてそこから薩摩の船に乗り換えたということになる。

上り口説は桜島が見えたところで終わっているが、そこからが長い旅の始まりであった。
琉球を支配している薩摩藩の丸十字をつけた白黒の船に乗った使節の思いはどうだったろうか。

広島県の福山市にある鞆の浦にも使節は「潮待ち」のために滞在した。そこで向生という若い楽師が病気で亡くなった。手厚く小松寺というところに祀られ、今日まで立派な墓碑がある。

悲喜交々のドラマが始まる薩摩から江戸に向かう旅はわずかな資料から想像を膨らませる以外にはない。

八番までしかない「上り口説」を歌うたびにその後の空白の旅路でのドラマへの想像に掻き立てられる思いである。



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Posted by たる一 at 16:52Comments(3)な行沖縄本島ビジュアル解説

2016年08月25日

今帰仁ミャークニー (5/5)

今帰仁ミャークニー
なちじん みゃーくにー
nachijiN myaakunii
今帰仁のミャークニー(宮古の音)
語句・なちじん 現在の沖縄県国頭郡今帰仁村を指す。琉球王朝時代の17世紀の頃、今帰仁間切はほぼ本部半島全域だったが18世紀の初めに本部間切と今帰仁間切に分離された。

歌詞参考;「今帰仁ミャークニー歌詞選集」(作成・記録 平成二十五年五月 平良哲男氏)より。



干瀬に居る鳥や 満ち潮恨みゆい 我身や暁ぬ鶏る恨む
ふぃしうるとぅいや みちす(しゅ)うらみゆい わみやあかちちぬとぅいるうらむ
hwishi ni wuru tui ya michis(j)u 'uramiyui wami ya 'akachichi nu tui ru 'uramu
沖の岩場に居る鳥は 満潮を恨んで 私は(恋人と別れる時を知らせる)夜明けに鳴く鶏を恨む
語句・ふぃし 「満潮の時は隠れ、干潮になると現れる岩や洲」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】。以下【沖辞】とする。語句・みちす 満潮。「みちしゅ」とも言う。・うらみゆい 恨んでいて。動詞の後に「い」がつく場合は「継続的」(〜していて)の意味。・ 強調の助詞「どぅ」と同じ。



遊びかさにたる 志情きぬ夜や 忘るなよ互に 幾世までん
あしびかさにたる しなさきぬゆるや わしるなよ たげに いくゆまでぃん
'ashibi kasanitaru sinasaki nu yuru ya washiruna yoo tagee ni 'ikuyuu madiN
遊びを重ねた 心通わせた夜は 忘れるなよ お互いに 幾世までも
語句・あしび この時代(琉球王朝末期から明治にかけて)の男女の交遊は「もーあしび」(毛遊び)と呼ばれる野外での草むらで酒や肴を飲み食べしつつ歌ったり踊ったりする「遊び」だった。



真夜中どやしが 夢に起こされて 醒めて恋しさや 無ぞが姿
まゆなかどぅやしが いみにうくさりてぃ さみてぃくいしさや んぞがしがた
mayunaka du yashiga 'imi ni 'ukusariti samiti kuishisa ya Nzo ga shigata
真夜中であるが 夢で目が覚めて 覚めても恋しいのは 彼女の姿



むとや片袖に ぬちゃる二人やしが 今やちりじりに なたる苦しゃ
むとぅやかたすでぃに ぬちゃるたいやしが なまやちりじりに なたるくりしゃ
mutu ya katasudi ni nucharu tai yashiga nama ya chirijirini nataru kurisya
以前は片袖に同じ腕を通すほど仲の良い二人だったが 今はちりじりになって そのことが苦しいことよ
語句・ぬちゃる 穴に通す。<ぬちゅん。



八十なてうてん 唄ぬ忘らりみ 愛し思里(無ぞ)に 唄てぃ聞かさ
はちじゅうなてぃうてぃん うたぬわしらりみ かなしうみんぞに うたてぃちかさ
hachijuu nati utiN 'uta nu wasirarimi kanashi 'umiNzo ni 'utati chikasa
八十歳になっても ウタをわすれられまい? 愛しい彼女に歌って聞かせたい。



今帰仁ぬ今泊 フシバルぬ美らさ 今からん後ぅん 代々にぬくさ
なちじんぬいぇーどぅめー ふしばるぬちゅらさ なまからんあとぅん ゆゆにぬくさ
nachijiN nu yeedumee hushibaru nu churasa namakaraN 'atuN yuyu ni nukusa
今帰仁の今泊にあるコバテイシは美しい!今から後世に代々残していきたいものだ
語句・ふしばる クファディーサー。コバテイシ。シクンシ科に属する熱帯性の高木。


平良哲男さんの「今帰仁ミャークニー歌詞選集」からの歌詞を検討してきたが、今回で最後となる。

しかし実際には今帰仁ミャークニーで歌われる歌詞は無数にあるといっても過言ではない。
それは人々が暮らす情景や、人の情けを思ったままに歌詞にするという民謡の自然な姿を今帰仁ミャークニーが残しているが所以である。

この歌詞の中には戦後の民謡歌手がナークニーとして歌い継いでいると思われる歌詞も幾つか見える。それだけ強い影響を与えているのだろう。

【フシバルの木】



2016年7月22日に平良哲男さんのご案内で今泊のフシバルを訪れた。

天然記念物、今帰仁、今泊(いぇーどぅめー)のフシバル。樹高18メートル、胸高周囲4.5メートルで推定樹齢は300〜400年と言われる。

「墓の庭に植える。人の泣き声を聞いて成長するといわれている」【沖辞】。

今泊を「いぇーどぅめー」と読むのは、昔は今帰仁と親泊(いぇーどぅめー)が合併して今泊と書くようになったため。



沖縄県と今帰仁村による解説がある。

《字民とフパルシ

戦前は現存するフパルシの根元に接して、もう一本のフパルシがあった。その痕跡は今でも少し残っているが、大きな幹が西側に長く延びていたので、途中に「つっかい」を入れて保護していた。
シマの人たちは、これを「ウー(雄)フパルシ」といい、現存するものを「ミー(雌)フパルシ」と愛称していた。
フパルシとその周辺は、シマ中の子供たちの格好の遊び場であった。彼等は「ミーフパルシ」の大きな幹に挑んで、よじ登りごっこをしたり、横に延びた「ウーフパルシ」の上を伝わり歩いてスリルを味わっていた。
夏から秋にかけて、フパルシにはたくさんの実がなった。その実は甘酸っぱい味がするし、中の種子は落花生のような香りがあるようで、子供たちは競ってその実を求めた。
暴風の時には、沢山の実が落ちるので、近隣の子供たちは、早起きして拾いに行ったものだ。
この老大木は、わが字のど真ん中に根を張り、枝を伸ばし、幾世代ものシマの子供たちのよい遊び相手を勤めてきたばかりでなく、字の重要行事の舞台背景をなして、その存在を誇ってきたのである。》
  

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2016年07月07日

今帰仁ミャークニー (4/5)

今帰仁ミャークニー
なちじん みゃーくにー
nachijiN myaakunii
今帰仁のミャークニー(宮古の音)
語句・なちじん 現在の沖縄県国頭郡今帰仁村を指す。琉球王朝時代の17世紀の頃、今帰仁間切はほぼ本部半島全域だったが18世紀の初めに本部間切と今帰仁間切に分離された。

歌詞参考;「今帰仁ミャークニー歌詞選集」(作成・記録 平成二十五年五月 平良哲男氏)より。


古宇利ぬ前ぬ黒潮 渡ららん黒潮 七つ橋かけてぃ 渡ちたぼり
くいぬめーぬくるす わたららんくるしゅ ななちばしかきてぃ わたちたぼり
kui nu mee nu kurusu watararaN kurusyu nanachibashi kakiti watachi taboori
古宇利島の前の黒潮(大海の黒い潮)は船で渡ることができない黒潮だ だからたくさんの橋(船橋のことだろう)をかけて渡らせてください
語句・くい古宇利島の古称。「ふい」ともいう。・くるしゅ 「くるす」とも言う。「黒潮。大海の潮の黒く見えるもの」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・ななち 具体的に数字の「七」を表すというよりは「たくさんの」という意味合いも含まれる。例えば「ななまかい」(何回もお代わりすること)。「ななまがい」(たくさん曲がりくねっていること)など。・ 「船の橋」のことであろう。船を横に並べて上に板を乗せて人が渡る。現在は古宇利大橋が架けられている。



いちゅび小ーにふりて 謝名前坂通て 通て珍しや シカぬ鰻
いちゅびぐゎーにふりてぃ じゃなめーんびゃーかゆてぃ かゆてぃみじらしや しかーぬんなじ
'ichubi gwaa ni huriti janameeN byaa kayuti kayuri mijirashi ya shikaa nu 'Nnaji
いちご(のような人)に惚れて謝名の前の坂を通って その時に見たシカー(湧き水)に住むうなぎの珍しいことよ
語句・いちゅびぐゎー 普通は「いちご」だが歌では擬人化されることが多い。・ふりてぃ 惚れて。<ふりゆん。ふりいん。ちなみに「気がふれる」も同じ発音。・びゃー 坂。ウチナーグチでは「ふぃら」。今帰仁言葉では「ぴゃー」。連濁で「びゃー」。・しかー 今帰仁の謝名にある湧き水。特に神聖とされ正月に最初に汲む「若水」(わかみじ)や、産湯に使われてきた。・んなじ 鰻のこと。



ソーリ川ぬ水や 岩かみて湧い 玉城女童ぬ 身持ち美らさ
そーりがーぬみじや いわかみてぃわちゅい たもーしみやらびぬ みむちじゅらさ
soorigaa nu miji ya 'iwa kamiti wachui tamooshi miyarabi nu mimuchi jurasa
ソーリガー(湧き水)の水は岩の下から湧いている。玉城の娘の品行の清らかさのように
語句・がー <かー。井戸。湧き水。ソーリガーは玉城にある。玉城は「岸本・玉城・寒水の三つの村(ムラ)が合併してできた字(アザ)である」。そのうちの寒水だった村にある。「今帰仁方言データベース」によると『字玉城にある泉の名。清水井の意。ソーヂは清水。「寒水」の字を当てた。』とある。ソージガーがソーリガーと変化したのだろう。



今帰仁ぬ城 登て眺みりば 城石垣や(ぬ) 昔かたて
なちじんぬぐしく ぬぶてぃながみりば ぐしくいちがちや んかしかたてぃ
nachijiN nu gushiku nubuti nagamiriba gushiku 'ishigachi ya Nkashi katati
今帰仁のお城に登って眺めると城の石垣は昔を語っているようだ
語句・ぐしく 城。



親川上登て ハンタ石道ん 登て行く先や 城てむぬ
うぇーがーういぬぶてぃ はんたいしみちん ぬぶてぃいくみちや ぐしくでむぬ
weegaa 'ui nubuti haNta'ishimichiN nubuthi 'iku sachi ya gushiku demunu
エーガーの上を登って崖の道も登っていく先は今帰仁城であるから
語句・うぇーがー 今帰仁城への登り口にある湧き水。「うぇーがー」は首里的発音。「エーガー」と言われる。・はんた 崖。・でむぬ 〜であるから。



平良哲男さんが集められた「今帰仁ミャークニー歌詞選集」から、今回で4回目。
5首ずつ訳して来たから、今回で20首が済んだことになる。

平良哲男さんの歌詞選集には26首あったから、あと残すところ6首である。

今帰仁ミャークニーの歌詞は非常に多い。

仲宗根幸市氏が「ナークニーの源流」と称されるほど歌われてきた歴史も長い。

また、道歌というものは例えば毛遊び(もーあしび)でシマ(ムラ)からシマへと歩く途中にずっと歌われてきたのだという。一、二時間歩くとしても相当な歌詞の数を知っていなくてはならないし、また即興で新しいウタも生まれただろう。

暗い夜道を一人で歩くこともあったかもしれない。ウタが勇気付けたり、また、自分の存在を知らせる「灯り」のような役も果たしたかもしれない。
そして今の気持ちを高めていったかもしれない。

今帰仁ミャークニーの歌詞の数々を見るたびに、生きたウタ、暮らしと密着したウタというものを感じずにはいられない。

そして、いまこれを歌う人が少なくなってきている現状の中で、残していくこともまた大事だと感じる。

ウタと結びついた情景も多くが失われてしまっている。
私もまだ見たことがない情景も多い。

これからの旅で自分の足でそれらを感じ取りたいと思う。



(▲平良哲男さんが撮影されたシカーの改修復元の碑)


  

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2016年07月05日

今帰仁ミャークニーゆかりの写真 2/3

今帰仁の平良哲男さんから頂いた今帰仁ミャークニーの歌詞にゆかりの写真(2/3)を紹介しています。
撮影は平良哲男さん。
御本人の承諾の上掲載。

(歌詞)
いちゅび小(ぐゎー)にふりてぃ謝名前(じゃなめー)ん坂(びゃー)通てぃ 通てぃ珍(みじら)しや シカぬ鰻(んなじ)

(読み方)
いちゅびぐゎーにふりてぃ じゃなめーんびゃーかゆてぃ かゆてぃみじらしや しかーぬんなじ

(意味)イチゴのように愛しい人に惚れて謝名前の坂を毎日通いつめて見た、シカーという湧き水に住む鰻の珍しいことよ!





シカーというのは謝名にある神聖な湧き水のことで、正月の最初に汲む「若水」(わかみじ)や産湯の水をここで汲んだという。
  

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2016年07月04日

今帰仁ミャークニー ゆかりの写真 1/3

平良哲男さんから頂いた今帰仁ミャークニーゆかりの写真を三回でご紹介します。

撮影は平良哲男さん。
御本人の承諾の上掲載します。

今帰仁ミャークニーの歌詞

今帰仁村ぬ今泊(エードメー)フパルシぬ美らさ
今(なま)からん後(あとぅ)ん 代々に残ち(ゆゆにぬくち) 


「フパルシ」とは「クワディーサ」の今帰仁言葉。

今帰仁村ぬ今泊(エードメー)のフパルシ。





碑文の文字。

「字民とフパルシ」

「戦前は現存するフパルシの根元に接して、もう一本のフパルシがあった。その痕跡は今でも少し残っているが、大きな幹が西側に長く延びていたので、途中に「つっかい」を入れて保護していた。
シマの人たちは、これを「ウー(雄)フパルシ」といい、現存するものを「ミー(雌)フパルシ」と愛称していた。
フパルシとその周辺は、シマ中の子供たちの格好の遊び場であった。彼等は「ミーフパルシ」の大きな幹に挑んで、よじ登りごっこをしたり、横に延びた「ウーフパルシ」の上を伝わり歩いてスリルを味わっていた。
夏から秋にかけて、フパルシにはたくさんの実がなった。その実は甘酸っぱい味がするし、中の種子は落花生のような香りがあるようで、子供たちは競ってその実を求めた。
暴風の時には、沢山の実が落ちるので、近隣の子供たちは、早起きして拾いに行ったものだ。
この老大木は、わが字のど真ん中に根を張り、枝を伸ばし、幾世代ものシマの子供たちのよい遊び相手を勤めてきたばかりでなく、字の重要行事の舞台背景をなして、その存在を誇ってきたのである。」

『くふぁでぃさ <くふぁでーし。使君子科の熱帯樹。別名は「古葉手樹」(コバテイシ)。沖縄だけでなく小笠原、アジア、アフリカの海岸に分布。「植物名。『沖縄産有要植物(金城三郎)』には『しまほう』『こばでいし』とある。葉は円形で、径15センチくらいに達する。墓の庭に植える。人の泣き声を聞いて成長するといわれている。材は良質で建築用・器具用。葉は紅葉する。」(沖)。「くふぁでぃさ」は「くふぁでぃーし」の文語。発音と表記の違いに注意。』(「たるーの島唄まじめな研究」より)


  

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2016年04月30日

今帰仁ミャークニー (3/5)

今帰仁ミャークニー
なちじん みゃーくにー
nachijiN myaakunii
今帰仁のミャークニー(宮古の音)
語句・なちじん 現在の沖縄県国頭郡今帰仁村を指す。琉球王朝時代の17世紀の頃、今帰仁間切はほぼ本部半島全域だったが18世紀の初めに本部間切と今帰仁間切に分離された。

参考;「今帰仁ミャークニー歌詞選集」(作成・記録 平成二十五年五月 平良哲男氏)より。



野山若々と 今帰仁ぬ村や 毛作い豊かて 世果報さらみ
ぬやまわかわかとぅ なちじんぬむらや むじゅくいゆかてぃ ゆがふさらみ
nuyama wakawakatu nachijiN nu mura ya mujukui yukati yugahu sarami
野山の緑が若々しい今帰仁の村は 農作物は良く実り 豊年であろうぞ
語句・むじゅくい 「農作。農業に従事すること。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・ゆかてぃ <ゆかゆん。「おい茂る。繁茂する。また(作物が)よくできる。よく実る」【沖辞】。「ゆがふー」と言う。・ゆがふ 「『世果報』豊年」【沖辞】。・さらみ 「『であろう』の意を強調して表す」【沖辞】



村寄しり寄しり 湧川邑寄しり 邑ぬ寄しらりみ 娘寄しり
むらゆしりゆしり わくがーむらゆしり むらぬゆしらりみ あんぐゎーゆしり
mura yushiri yushiri wakugaa mura yushiri mura nu yushirarimi 'aNgwaa yushiri
村を(自分の村に引き)寄せろ 寄せろ 湧川村を寄せろ でも村を寄せられまい 娘を引き寄せろ
語句・ゆしり <ゆしゆん。「寄せる」の命令形。



湧川美童や天ぬ星心拝まりやすしが 自由ならん
わくがーみやらびや てぃんぬふしぐくる うがまりやすしが じゆーならん
wakugaa miyarabi ya tiN nu hushigukuru ugamari ya sushiga jiyuu naraN
湧川の娘は天の星のようだ 拝む(会う)ことはできても自由にはならない
語句・ぐくる <くくる。名詞の後に使われる「くくる」は「‥のようだ」と訳すことがウタに中では多い。「接尾語。〜のようなもの。〜の心地。」【沖縄古語大辞典】。



運天ぬ番所 通いぶさあしが 白真大道ぬ ギマぬくささ
うんてぃんぬばんじゅ かゆいぶさあしが じらまうふみちぬ ぎーまぬくささ
'uNtiN nu baNju kayui busa 'ashiga jirama 'uhumichi nu giima nu kusasa
運天の役場に通いたいものだが 白真大道にあるギーマの臭いことよ!
語句・ばんじゅ 「maziri『間切』の役場」【沖辞】。・ぎーま 琉球と台湾に分布するツツジ科の常緑の低木。スズランのような花をつけ、黒い実はブルーベリーのように食すことができる。「臭い」ということについては種が腐敗したものなのかどうかは不明。ギーマの解説



古宇利ぬ新崎ぬ 波立ちゅる時や 里が旅立ちぬ 行らしぐりさ
くいぬあらさちぬ なみたちゅるとぅちや さとぅがたびだちぬ やらしぐりさ
kui nu 'arasachi nu nami tachuru tuchi ya satu ga tabidachi nu yarashigurisa
古宇利島の新崎(地名)が波立つ時は貴方を旅立たせ難いことよ!
語句・くい 今帰仁間切だった古宇利島の古称。「島のことをフイジマやクイジマと呼ばれる。クイの表記がこほりで、こほりに郡の字が充てられたとみられる。クイジマと呼ばれながら表記は郡→こほり→古宇利と変遷をたどる。」(http://rekibun.jp/huijima1.html。今帰仁村歴史文化センター館長 仲原弘哲氏)・あらさち 仲原氏によると現在はもう無くなった地名だが、現在の灯台あたりの地名。「荒崎」とも書く。・ぐりさ <くりさん。くりしゃん。苦しい。「形容詞『くりしゃん』(苦しい)が、動詞の連用形に下接して『〜することが難しい』意の補助形容詞になったものである」【沖縄古語大辞典】。



今帰仁ミャークニーの歌詞を平良哲男さんがまとめられた「歌詞選集」から。その3。

「むらゆしりゆしり〜」の歌詞は有名な唄者もナークニーで使われている。
嘉手苅林昌さんや登川誠仁さんなども今帰仁ミャークニーの唄者平良正男さんのところに来れられてウタを聴いていかれたという。この今帰仁ミャークニーの歌詞は今でもナークニーに転用されているものも多い。

「ギマぬくささ」についてはいろいろな方に伺ったが「臭い」という実感はあまりなかったようである。私もギーマを実際に見たことがないので今後の課題。

大まかな場所の参考に。


  

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2016年04月08日

今帰仁ミャークニー (2/5)

今帰仁ミャークニー
なちじん みゃーくにー
nachijiN myaakunii
今帰仁のミャークニー(宮古の音)
語句・なちじん 現在の沖縄県国頭郡今帰仁村を指す。琉球王朝時代の17世紀の頃、今帰仁間切はほぼ本部半島全域だったが18世紀の初めに本部間切と今帰仁間切に分離された。

参考;「今帰仁ミャークニー歌詞選集」(作成・記録 平成二十五年五月 平良哲男氏)より。


だんじゅとゆまりる 仲宗根の島や黄金森くさてぃ 田ぶく前なち
だんじゅとぅゆまりる なはじゅにぬしまや くがにむいくさてぃ たーぶっくめーなち
daNju tuyumariru nahajuni nu shima ya kugani mui kusati taabukku meenachi
いかにも世間に有名な仲宗根という村は美しい森を背に 田んぼを前にしている
語句・だんじゅ「なるほど。いかにも。げにこそ。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・とぅゆまりる「世間に鳴り響く。評判になる」【沖辞】。<とぅゆまりゆん。とぅゆまりいん。・なはじゅに仲宗根(今帰仁の地名。現在は字。) 「なかずに」と首里では呼ぶが、今帰仁地方では「k」が「h」に変わる。・くがにむいくさてぃたーぶくめーなち 村を褒める美辞。「くがに」は金を表すが「むい」(丘。山。「森」に対応する。)を褒める美辞。「たーぶっく」は「田んぼ」を意味し「たーぶっくゎ」ともいう。



仲宗根の東 水車建てて 潮ぬぬちゃがりば とりてぃ立ちゅさ
なはじゅにぬあがり みじぐるまたてぃてぃ うすぬぬちゃがりば とぅりてぃたちゅさ
nahajuni nu 'agari mijiguruma tatiti 'usu nu nuchagariba turiti tachusa
仲宗根の東に水車を作り、潮が満ちてくると 回るのを止めて立っている
語句・ぬちゃがりば 上がってくる。<ぬちゃがゆん。ぬちゃがいん。「抜けてあがる。抜けて上に出る」【沖辞】。・とぅりてぃ <とぅりゆん。とぅりいん。「凪ぐ。風がやむ」【沖辞】。ここでは水車が回るのを止める、だろう。



越地川ぬ水や 砂かみて湧ちゅさ 越地美童ぬくんだ美らさ
ふぃじがーぬみじや しなかみてぃわちゅさ ふいじみやらびぬ くんだちゅらさ
hwijigaa nu miji ya shina kamiti wachusa hwijimiyarabi nu kuNda churasa
越地の井戸の水は砂の下から湧くよ。越地村の娘のふくらはぎの美しさよ!
語句・ふぃじがー 今帰仁の字。「がー」は「かー」(井戸。泉。)・くんだ ふくらはぎ。



島やまが童 今帰仁ぬ天底 美らく生まりたる花ぬわらび
しまやまーがわらび なちじんぬあみすく ちゅらくんまりたるはなぬわらび
shima ya maa ga warabi nachijiN nu 'amisuku churaku 'Nmaritaru hana nu warabi
出身の村はどこだ?子どもよ。今帰仁の天底。美しく生まれた花のような子ども
語句・しま 「しま」には「㊀村落。部落」「㊁故郷。出身の部落。」【沖辞】などがある。ここでは㊁であろう。・あみすく 今帰仁の字。



運天ぬ嫁や ないぶさやあしが あだん葉ぬたむん 取いぬくちさ
うんてぃんぬゆみや ないぶさやあしが あだんばーぬたむん とぅいぬくちさ
'uNtiN nu yumi ya naibusa ya 'ashiga 'adaNbaa nu tamuN tui nu kuchisa
運天の家の嫁にはなりたいが アダン葉の薪は取るのが苦しいことよ!(だから遠慮したい)
語句・うんてぃん今帰仁の東部の字。・ないぶさ なりたい。・あだんばー 海岸に生えているタコノキ科の常緑樹。葉にはトゲがあり、採集が難しい。薪に利用する他、筵や笠、帽子などの原料となる。・たむん 「たきもの。たきぎ。まき。」【沖辞】。・くちさ 難しい。<くちさん。辛い。



今帰仁ミャークニーの歌詞を平良哲男さんのまとめられた「歌詞選集」から。
今帰仁の間切にあった村は、今帰仁村の字となり、合併したりして消えた村もある。
その村の情景を謡うとともに自然と人への讃歌でもある。
と同時に歌う人の個人的な思い出や心情をのせる叙情性もある。



たまたま昨日(2016/4/7)今帰仁村教育委員会の方から、今帰仁ミャークニー大会のパンフレットや資料を送っていただいた。
全てPDFなので、このブログで紹介することも可能である。



研究論文などもあるので非常に貴重な資料でもある。
随時紹介していきたい。



▲。字仲宗根(なはじゅに)の公民館に設置されている歌碑。
だんじゅとゆまりる 仲宗根の島や黄金森くさてぃ 田ぶく前なち



▲仲宗根公民館。


▲公民館の裏手に小高い丘がある。そこ「黄金森」からの眺め。「むい」に「森」という当て字がされているが、「盛り」つまり小高い丘という方が当てはまる。


仲宗根の東 水車建てて 潮ぬぬちゃがりば とりてぃ立ちゅさ 水車があったとされるあたり。大井川と呼ばれる川。今帰仁の中心あたりに南北に流れている。

  

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2016年04月05日

ニ揚げの今帰仁ミャークニー

今帰仁ミャークニーが実際どんなものなのか、多くの方に知って頂くために、平良哲男さんから頂いた「今帰仁ミャークニー大会」の音源をYouTubeにアップしました。許可も頂いています。

今帰仁ミャークニー、特にニ揚げの平良正男さんの唄三線です。

別紙に「昭和60年代」とあるので1985年以降のものでしょう。



ニ揚げに独特な「合」の音。

始めの5文字の後の短い間奏は、普通のナークニーに比べてもっと短いこと。

最初の高くなる所の揚げ方が急であること。

説明されているように、今帰仁ミャークニーの唄い出しには「下(さ)ぎんじゃし」「中山 んじゃし」「揚ぎんじゃし」などという唄い方があり、ここでは「下ぎんじゃし」で歌われている。

などなどいろいろな特徴がわかると思います。  

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2016年04月02日

今帰仁ミャークニー (1/5)


今帰仁ミャークニー
なちじん みゃーくにー
nachijiN myaakunii
今帰仁のミャークニー(宮古の音)
語句・なちじん 現在の沖縄県国頭郡今帰仁村を指す。琉球王朝時代の17世紀の頃、今帰仁間切はほぼ本部半島全域だったが18世紀の初めに本部間切と今帰仁間切に分離された。

参考;「今帰仁ミャークニー歌詞選集」(作成・記録 平成二十五年五月 平良哲男氏)より。



今帰仁の城 しむないぬ九年母 志慶間乙樽が ぬきゃいはきゃい
なちじんぬぐしく しむないぬくにぶ しじまうとぅだるが ぬちゃいはちゃい
nachijiN nu gushiku shimunai nu kunibu shijima'utudaru ga nuchai hachai
今帰仁のお城で 時期遅れのみかんを志慶間乙樽が糸で貫いたり首にかけたりしている
語句・しむない うらなり。季節が遅れて生る果物や野菜。秋を過ぎて霜が降りる頃にできるもの。味は落ちる。・くにぶ 「オレンジ類の総称。みかんなど。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・しじまうとぅだる 13世紀に今帰仁間切は志慶間村にいたという「乙樽」(うとぅだる)という絶世の美女。北山王の側室だった。「しきまうとぅだる」と読むこともある。・ぬちゃいはちゃい (糸で)貫いたり首にかけたり。<ぬちゅん。貫く+はきゆん。「ぬきゃいはきゃい」が「ぬちゃいはちゃい」と読むのは「き」が「ち」に時代と共に変化したため(破擦音化)。



今帰仁の一条 並松の美らさ 花染みの芭蕉布と美童美らさ
なちじんぬちゅなーぎ なんまちぬちゅらさ はなじゅみぬばさーとぅみらびちゅらさ
nachijiN nu chunaagi naNmachi nu churasa hanajumi nu basaa tu mirabi churasa
今帰仁の一定に並ぶ松の並木の美しいことよ!
語句・ちゅなーぎ 「ひと長さ。一定の長さ。ある距離の全体」【沖辞】。・なんまち「松並木」【沖辞】。・はなじゅみ 普通は「花染み手拭」などと使い「花の模様を染めた手ぬぐい」【沖辞】の意味であるが、芭蕉布を染める染料としての花や、花の模様というのはあまり聞かない。いわゆる花のように華やかに染めた、という意味か染料としての車輪梅(の樹液を使う)で染めた、くらいの意味か。「あかじゅみ」という歌詞もある。・みらび 「みやらび」の短縮形であろう。「めらび」と振りがなをつけた歌詞もあるがこれも読み方は「みらび」。



山と山連なじ見晴らしんゆたさ 昔北山の名残立ちゅさ
やまとぅやまちなじ みはらしんゆたさ んかしふくざんぬなぐりたちゅさ
yama tu yama chinaji miharashiN yutasa Nkashi hukuzaN nu naguri tachu sa
山と山が連なり見晴らしも良いよ 昔北山の名残が浮かぶねえ。
語句・ちなじ つなぐ。<ちなじゅん。・ゆたさ 良い。<ゆたさん。良い。形容詞の体言止めは「感嘆」を表す。・ふくざん 北山。琉球王朝が統一される前の古琉球時代、三山時代と言われた頃に沖縄本島北部に栄えた国名。



諸喜田川に待ちゅみ 兼次川に待ちゅみ なりば諸喜田川や ましやあらに
すくじゃがーにまちゅみ はにしがーにまちゅみ なりばすくじゃがーや ましやあらに
sukujagaa ni machumi hanishigaa ni machumi nariba sukujagaa ya mashi ya arani
諸喜田の井戸で待つか?兼次の井戸で待つか?ならば諸喜田の井戸がましではないかね?
語句・すくじゃがー 「川」とあるが、「諸喜田川」という川はない。「かー」は井戸。泉。・ 〜ではないか?〜であろう?と相手に確かめる意味の終助詞。



謝名ん人ぬ言うしが 岸本の目小ーや 歌し情や渡たて 恋や無志情
じゃなんちゅぬゆしが きしむとぅぬみーぐゎーや うたしじょーやわたてぃ くいやぶしじょー
janaNchu nu yushiga kishimutu nu miigwaa ya uta shijoo ya watati kui ya bushijoo
謝名の人が言うが 岸本の目が細いあの子は歌は志情がこめられているが恋には志情がない
語句・じゃな 今帰仁の地名。昔は毛遊び(モーアシビ)が盛んな場所だったという。・きしむとぅ 現在は「玉城」(たもーし)という字になっているが、岸本・玉城・寒水の三つの村(ムラ)を合併したもの。その一つ。・みーぐゎー 「小さく細い目。また、そういう目をした者。そういう人概して小利巧だといわれる」【沖辞】。・しじょう 「志情」という当て字があるが「しゅじょー」(歓喜。享楽。娯楽。楽しみ)【沖辞】ではないか。後にみるが今帰仁ミャークニーの唄者平良正男さんからは「うたやしじょーやしが くいやぶしじょー」を教えて頂いた。「歌は上手だが恋は上手ではない」と訳された。



今帰仁ミャークニーとの出会い
今帰仁ミャークニーに取り組む。少し経緯を書かせて欲しい。

2015年、本部ミャークニーの道を本部町教育委員会の方、元教育長の根路銘さん、そして今帰仁文化センターの仲原館長にお世話になりながら車で周り、歌詞と風景、そして道との関係を実体験させいただいた。また今帰仁ミャークニーの道も車で巡らせていただいた。その時に本部ミャークニー、今帰仁ミャークニーの唄者はいらっしゃいませんか、と伺ったが「もう高齢だから」ということだった。




私事だが振り返ると10数年前に那覇の古書店で買った「沖縄北部(やんばる)十二市町村 民謡の旅」(沖縄フェース出版)という本に詳しく今帰仁ミャークニーの紹介があり、多くの歌詞を収録してある。それを読んで深い感動を覚えたのだった。この本には執筆者達のお名前は書いていないのだが、私がバイブルのようにしている「島うた紀行」の作者、仲宗根幸市氏もその一人ではないかと思われる。その本によれば

「『今帰仁ミャークニー』は、沖縄のミャークニー、ナークニーの源流と伝えられている。もちろん、今帰仁ミャークニーは、伝承によれば、宮古島のトーガ二(アーグ)系統の影響を強く受けて、それを今帰仁風に潤色し、今帰仁の風土、人々の人情を細やかに取り入れて作られたという。」(民謡の旅 P94)




この今帰仁ミャークニー大会は「地域の掘り起こしの『◯◯大会』先がけとなった」と書いてあり、わたしもこの大会があれば行ってみたい、今帰仁ミャークニーを聴いてみたいと思っていた。

そして2016年3月に沖縄に行く機会があり、その際に「今帰仁ミャークニーの唄者は居ないか」と色々な方に伺った。今帰仁教育委員会の方から今帰仁文化協会の方を紹介して頂き、さらにその方から平良正男さんという方を紹介していただいた。




3月14日に直接平良正男さんのお宅にお邪魔した。平良正男さんは今年数えで九十五歳だといわれた。
もう高齢で三線は弾けない、声もでないということでカセットテープとCDを聞かせていただいた。

その時の感動は今だに忘れられない。まさに聞きたかった「今帰仁ミャークニー大会」の録音だった。
その録音を聴いて最大の驚きは「二揚げ」のミャークニーだったこと。これについては後でまた詳しく書きたい。平良正男さんのこともまだまだお話を伺ってまとめたいと思っている。

今帰仁ミャークニーの歌詞

さて、この歌詞は後日平良正男さんのご長男である平良哲男さんから送っていただいた資料の中に哲男さんがまとめられた「今帰仁ミャークニー歌詞選集」(作成・記録 平成二十五年五月 平良哲男)からのもの。

今帰仁ミャークニーに関する琉歌が26首あるので、5首ずつに分けてこのブログで紹介して行きたいと思う。

まずは上述の5首。最後の句だが、平良正男さんから伺った歌詞は

謝名ん人ぬ言しが 岸本ぬ目小ーや 歌しじょうやあしが 恋や無しじょう
じゃなんちゅぬゆしが きしむとぅぬみーぐゎーや うたしじょーやあしが くいやむしじょー

平良正男さんは、今帰仁ミャークニーはお祖母様から習い、その歌い方三線の手を受け継いでいると言われた。お祖母様のお姉様がこの「岸本の目小」で、12、3歳ぐらいからウタがとても上手いので青年団にあちこちに連れて行かれて歌ったのだそうだ。平良正男さんの歌声も聞き入るほどの素晴らしい歌声だから、その方々の歌声がどうだったかは想像できる。

「しじょう」については正男さんから「しゅじょー」とも言う、と言われた。それなら上述したが「歓喜」、喜びという意味である。ウタを歌うことが何よりも好きで喜びで、したがって上手だったことも想像に難くない。

次回も5首を紹介し、それに加えて正男さんの三線の手、節回しについても紹介したい。



▲今帰仁城にある歌碑。歌詞は「今帰仁の城 しむないぬ九年母 志慶間乙樽が ぬきゃいはきゃい


▲今帰仁城の麓の志慶間川の近くにひっそりとある志慶間乙樽の墓(と言われる)。
  

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2015年12月03日

流れ船 2

流れ船
ながりぶに (または)ながりぶーにー
nagari buni または nagaribuunii
語句・ながりぶに旧暦三月三日に行われた神事のひとつ。三月遊びとも言う。いまでは座間味島にだけ残っている。【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)にはこの「三月遊び」を「年中行事の名。三月遊びの意。旧暦3月3日、平民の娘たちが鼓を打ち、歌を歌って興ずること。上代の歌垣に似ている。那覇では、娘たちが遊山船(nagaribuunii)を仕立てて、船の中で鼓を打ち、歌を歌って遊び暮らす風があり、その時、村と村が対抗して、歌で喧嘩する場面も見られた。」ところで、「旧暦の三月三日」といえば沖縄では「浜下り」(はまうり)といい、アカマター伝説とともに、女性が浜に下りて身を清めるという風習がある。この「流れ船」の「三月遊び」が残っている座間味島では午前中に墓参りをし、午後は浜下りをして、夕方から海上パレードをするとのことらしい。


CD「失われた海への挽歌 」より 唄三線;嘉手苅林昌


一、泊高橋に(ヨ サーサー)銀ジーファー落とぅち(ヨー ユイヤサーサー ハラユイサーユイ) 
とぅまいたかはしに(よーさーさー) なんじゃじーふぁー'うとぅち(よーゆいやさーさーはらゆいさーゆい)
tumaitakahasi ni (yoo saa saa)naNja jiihwaa 'utuchi(yoo yuiya saa saa hara yuisaayui)
〔囃子、繰り返し以下省略〕
泊高橋に銀かんざし(を)落として
語句・なんじゃ銀・じーふぁーかんざし 「身分により金(くがに)銀(なんじゃ)真鍮(ちじゃく)などの区別があった。」【琉球語辞典(半田一郎)】。・うとぅち 落として。<うとぅしゅん、うとぅすん。落とす。



二、いちが夜ぬ明きてぃ とぅめてぃさすら
いちがゆーぬあきてぃ とぅめーてぃさすら
'ichi ga yuu nu 'akiti tumeeti sasura
いつ夜が明けて探して(かんざしを)差すのやら
語句・いちが いつ。「が」は「疑わしさを表す文に用いて、文の疑わしい部分に付く」【沖辞】。・とぅめーてぃ 探して。<とぅめーゆん、とぅめーいん。拾う。探し求める。



三、落とちゃしや銀 とめたしやうらに
うとぅちゃしやーなんじゃ とぅめーたしや うらに
'utuchashi ya naNja tumeetashiya urani
落としたのは銀 見つけたものは居ないか
語句・「(接尾)(・・する、・・した、・・な)の、もの、こと。活用する語の『短縮形』(apocopated form)に付き、その語に名詞のような働きを与える」【沖辞】。・うらに おるまい。居るまい。「ある」「居る」という意味の「うん」の否定形「uraN」に「i」が付いた疑問形。



四 志慶真乙樽ぬ みじーふぁあらに
しきまうとぅだるぬ みじーふぁあらに
shikima 'utudaru nu mijiihwa 'arani
志慶真乙樽の御かんざしではないか?
語句・しきまうとぅだる古琉球と呼ばれた13世紀の三山時代、北山をおさめた城が今帰仁にあり、そこに側室として迎えられた村の美女が志慶真乙樽。



五、遊びぶしゃあてぃん まどぅにあしばりら
あしぶしゃやあてぃん まどぅにあしばりら
'ashibusha ya 'atiN madu ni 'ashibarira
遊びたいと思っても普段からは遊ばれまい
語句・まどぅ 「平素。平生。不断。ふつうの時」【沖辞】。他には「あき間。すき間。」「すいている時間。仕事のあいま。」「人の見ないすき」が【沖辞】にはある。・あしばりら 直訳すると「遊べるか」だが、「いや、遊べない」と反語的な意味がある。



六、今日や名に立ちゅる 三月ぬ三日
きゆやなーにたちゅる さんぐゎちぬみっちゃ
kiyu ya naa ni tachuru sangwachi nu miccha
今日は有名な三月の三日
語句・なーにたちゅる 有名な。



七、かりゆしぬ船に かりゆしわぬしてぃ
かりゆしぬふにに かりゆしわぬしてぃ
kariyushi nu huni ni kariyushi wa nushiti
めでたい船にめでたいことを乗せて
語句・かりゆし 「めでたいこと。縁起のよいこと。」【沖辞】



八、旅ぬ行き戻い 糸ぬ上から
たびぬいちむどぅい いとぅぬうぃいから
tabi nu 'ichi mudui 'itu nu 'wii kara
旅の行き戻りは絹糸のように穏やかな海上を走るようだ
語句・いとぅ 「絹」【沖辞】「いーちゅ」とも言う。



九、御祝え事続く 御世の嬉しさや
うゆうぇぐとぅちじく みゆぬうりしさや
'uyuwee gutu chijiku miyu nu 'urishisa ya
おめでたい事が続く この世の嬉しさに



十、夜の明けて太陽ぬ 上がるまでぃん
ゆーぬあきてぃてぃーだぬあがるまでぃん
yuu nu 'akiti tiida nu 'agarumadiN
夜が明けて太陽が上がるまでも


十一、夜の明けて太陽や 上がらわんゆたさ
ゆーぬあきてぃ てぃーだや あがらわんゆたさ
yuu nu 'akiti tiida ya 'agarawaN yutasa
夜が明けて太陽は上がってもいいさ
語句・ゆたさ いいことだ!<ゆたさん。ゆたしゃん。良い。宜しい。形容詞の「さ」で終わる形は「感嘆」の意味を持つ。たとえば「あぬ むいぬ たかさ」(あの山の高いことよ!)。



十二、今日や名に立ちゅる 三月ぬ遊び
kiyu ya naa ni tachuru sangwachi nu 'ashibi
きゆやなーにたちゅる さんぐゎちぬあしび
今日は有名な三月の遊び



十三、夜の明けて太陽ぬあがらわんゆたさ
ゆーぬあきてぃてぃーだぬ あがらわんゆたさ
yuu nu 'akiti tiida nu 'agarawaN yutasa
夜が明けて太陽が上がってもいいさ




2006年に取り上げた「流れ船」、今回は嘉手苅林昌さんの唄三線。

CD「失われた海への挽歌」に収録されている。


林昌先生らしく、カチャーシーの歌詞を織り込んで「流れ船」の現場にいるかのような錯覚に陥る。


一番最初に書いたが辞書によると今では座間味島だけに残っている神事とある。
確かに座間味島の観光協会に問い合わせると旧暦の三月三日に行われるのだという。

座間味島に詳しい知り合いや観光協会の方からのお話をまとめると三つの行事が旧暦の三月三日に行われるようだ。

①ウシーミー(清明祭)。午前中は先祖供養のためにご馳走を作ってお墓まいりをする。
②ハマウリ(浜下り)。午後は潮干狩りもしつつ、伝統的な女性の健康祈願のための浜下り。拝所(ウガンジュ)を回り、その後の「流れ船」に向けて準備する。
③16時〜大漁旗を掲げた船が島中から座間味港に集結。航海安全と大漁を祈願しパレードをする。そのあと船を数隻ずつ連結して島の間を回りつつ港に向かう。

船上では歌三線が奏でられ女性たちがカチャーシーを踊る、という。

この民謡「流れ船」がそこで歌われるものなのかはわからない。
が、この座間味島に残っている「流れ船」の神事に関係するということは確かだろう。

その③の船を連結してのパレードの様子の写真をいただいた。





(写真提供『ぶるーまりん 田口さん』)



  

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2015年05月17日

なさけの島

なさけの島
(発音等省略)

作詞 田場典明 作曲 我如古盛栄


CD「唄遊び」(我如古より子/吉川忠英)より


一、津堅イサヘイヨ 取納奉行ぬ島や かわてぃ美童ぬ イサヘイヨ なさき所
つぃきんいさへいよーしゅぬぶじょーぬしまや かわてぃ みやらびぬ (いさへいよー )なさきどぅくる
tsikiN 'isa heiyoo shunubujoo nu shima ya kawati miyarabinu ('isa heiyoo)nasaki dukuru
()は囃子言葉、以下繰り返し省略。
津堅島は伊佐ヘイヨーや取納奉行節の島である 特に娘たちの情け深いところ
語句・つぃきん 沖縄本島の津堅島を指す。ウチナーグチの発音は「ちきん」より「つぃきん」に近い。現在は「つけん」と読ませる。・いさへいよー「伊佐へいよー」という歌から来ているもので、我如古弥栄が作った歌劇「泊阿嘉」(とぅまいあーかー)の劇中歌として歌われる。掛け声でとくに意味はない。・しゅぬぶじょー
「 取納奉行節」で「津堅島」が舞台となっていることから。・かわてぃ 「とりわけ。格別。特に。ことに」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。



二、島浦ぬ美らさ 白浜ゆ前なち はるか眺みりば イサヘイヨ 知念久高
しまうらぬちゅらさ しらはまゆめーなち はるかながみりば ちにんくだか
shima'ura nu churasa shirahama yu mee nachi haruka nagamiriba chiniN kudaka
島の浦の美しさよ!白浜を前にしてはるか眺めると知念、久高島が見える
語句・しまうら 「浦」とは「陸地が湾曲して湖海が陸地の中に入り込んでいる地形」(Wikipedia)を言い、「浜」と区別する。津堅島は東西に長い湾曲した浜を持ち、そのことを言っているようだ。・ 文語で用いられる「を」。・めーなち 前にして。



三、押す風ん静か 浜うちゅる波や 無蔵が手招ちぬ イサヘイヨ なさき心
うすかじんしじか はまうちゅるなみや んぞがてぃまにちぬ なさきぐくる
'usukajiN shijika hama 'uchuru nami ya Nzo ga tiimanichi nu nasakigukuru
そよ風も静か 浜を打つ波は貴女が手招きに込めた愛情のようだ
語句・うすかじ「そよ風。和風」【沖辞】。「和風」(穏やかな風)とは気象庁用語で、風速5.5〜7.9m/sの風を指す。・なさきぐくる 直訳では「情け心」となるが、琉歌では前後との関係で「〜くくる」は「〜のようだ」という意味になる。(例えば「枯木心」を「枯木の心」と訳しても意味がわからなくなる)



四、かりゆしぬ船に 思事や乗してぃ 二人しくじ渡ら イサヘイヨ 恋ぬ小舟
かりゆしぬふにに うむくとぅやぬしてぃ たいしくーじわたら くいぬくぶに
kariyushi nu huni ni 'umukutu ya nushiti taishi kuujiwatara kui nu kubuni
縁起の良い船に愛する想いを乗せて二人で漕ぎ渡ろう 恋の小舟で
かりゆし 「めでたいこと。縁起のよいこと」【沖辞】。・くーじ 漕いで。<くーじゅん。漕ぐ。



五、無蔵が志情や 津堅渡ぬ渡中 深さゆかまさてぃ イサヘイヨ 情き深さ
んぞがしなさきや ちきんどぅーぬとぅなか ふかさゆまさてぃ なさきふかさ
Nzo ga shinasaki ya tsikiNduu nu tunaka hukasa yuka masati nasaki hukasa
貴女の愛情は津堅島への渡る沖の海の深さよりも勝っていて、なんと情けが深いことよ!
語句・どぅー 沖。<とぅー。沖。連濁で「どぅー」に。・とぅなか「沖の海。沖合い。沖の海上」【沖辞】。・ゆか より。よりも。



六、ホートゥ河ぬ水や世守りぬ由緒 人美らさ情 イサヘイヨ 代々の栄
ほーとぅがーぬみじや ゆーまむいぬゆいしゅ ひとぅじゅらさなさき ゆゆぬさかい
hootugaa nu mizi ya yuumamui nu yuishu hitoxujurasa nasaki yuyu nu sakai
ホートゥガーの水は人々の暮らしを守るという由緒ある場所 人が清らかで情け深いことが代々の栄え
語句・ほーとぅがー 津堅島の南西にある井戸の名称。「鳩」(ほーとぅ)が見つけた井戸(カー)という伝承がある。



七、島美らさ一惚り 人美らさ二惚り 無蔵が志情にイサヘイヨちんとぅ三惚り
しまじゅらさ ちゅふり ひとぅじゅらさたふり んぞがしなさきにちんとぅみふり
simajurasa chuhuri hitujurasa tahuri Nzo ga shinasaki ni chiNtu mihuri
島の美しさに一つ惚れ 人の清らかさに二つ惚れ 貴女の愛情に惚れてちょうど三つめ


この唄はCD「唄遊び」(我如古より子/吉川忠英)に収録されている。



作曲の我如古盛栄氏は我如古より子さんのお父様である。


いわゆる「島褒め」、故郷を讃える唄。


「なさけの島」として歌われているのは沖縄県うるま市の津堅島である。

筆者は2015年4月13日に津堅島にお邪魔させて頂いた。



3時間ほどの滞在だったし雨にもたたられたが
レンタサイクルを借りて島一周をした。

津堅島から見える知念、久高島は


現在では「キャロットアイランド」ー人参の島と言われるように島のほとんどは人参の畑や農地で、この時期は観光地としては訪れる人も少ない様子だったが、この「なさけの島」という唄に表されるように、美しい海と島の景色を眺めるだけでも素晴らしい島だと思った。


唄三線をされている方には是非一度立ち寄っていただきたい島の一つである。

そして津堅島に行った後に筆者はこの唄「なさけの島」と出会ったのだが、

是非この曲も聴いてもらえたら嬉しいと思う。


  

Posted by たる一 at 05:21Comments(0)な行沖縄本島

2014年11月27日

ナークニー (嘉手苅林昌)

宮古根

歌三線 嘉手苅林昌

(CD「おきなわの心」より)

《囃子言葉は全て省略》


今日ぬ夜ながたや遊でぃ暮らすしが 明日ぬ暁ぬ芋やちゃすが
ちゅーぬゆながたや あしでぃくらすしが あちゃーぬあかちちぬ んむやちゃーすが
chuu nu yunagata ya 'ashidi kurasushiga 'achaa nu 'akachichi nu 'Nmu ya chaa suga
今日は一晩中遊んで暮らすが 明日の明け方の芋はどうするか?
語句・ゆながた 「終夜。一晩中。夜通し」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す。)。



ねーとぅけーとぅやてれ ぬんでぃ我が泣ちゅが 無蔵がたきまさい やてるなちゅる
ねーとぅけーとぅやてれ ぬーんでぃわがなちゅが んぞがたきまさい やてるなちゅる
neetukeetu yateree nuuNdi waga nachu ga Nzo ga taki masai yateru nachuru
似合いであるのに なんで私が泣くのか お前が背の丈(格)が上だから それで泣いてる
語句・ねーとぅけーとぅ 「似合い。似たり寄ったり。同じ程度。甲乙なし。多くは、程度が低い場合にいう。」【沖辞】。・やてるなちゅる だからこそ泣いている。<やてぃ(…だから)+どぅ(強調。こそ。)+なちゅる(<なちゅん。泣く。の連体形。「どぅ」があると続く動詞は連体形になる「係結びの法則」。)



誰たゆてぃ咲ちゃが 奥山ぬ牡丹 人ん通わさん所なかい
たるたゆてぃさちゃが うくやまぬぶたん ふぃとぅかゆわさんとぅくるなかい
taru tayuti sachaga ukuyama nu butaN hwitu kayuwasaN tukuru nakai
誰を想って咲いているのか 奥山の牡丹 人も通わない所で
語句・なかい …に。の中に。


くぬでぃ生ちざまぬ ないるむんやりば 夫や取てぃどぅきてぃ 我妻すしが
くぬでぃ いちざまぬ ないるむんやりば うとぅやとぅてぃどぅきてぃ わとぅじすしが
kunudi 'ichizama nu nairumuN yariba utu ya tutidukiti wa tuji susiga
企てて呪うことができるものであれば (好んで生き方がなるものであれば)夫と別れさせて私の妻にするのだが
語句・くぬでぃ企てて。計画して。<くぬぬん。 「①考案する。立案する。計画する。」「②企てる。策謀する。」【沖辞】。あまりいい言葉ではなさそうだ。・いちざま のろうこと。「①生霊。生きている人の怨霊。恨みのある人にとりついてわざわいをなす。②のろい。のろうこと。」【沖辞】。つまり「企ててや呪いができるものであれば」。または、文字通り読んで「好んで生き様がなるもにであれば」とも取れる。



想てぃ呉てぃ果報し 他所知らち呉るな たんでぃ胸内にとぅみてぃたぼり
うむてぃくぃてぃ かふーし ゆすしらちくぃるな んにうちにとぅみてぃたぼり
'umuti kwiti kahuushi yusu shirachi kwiruna taNdi Nni'uchi ni tumiti tabori
愛してくれてありがとう 他人に知らせないでくれよ お願いだから胸の内に止めておいてください
語句・かふーし 「ありがとう。目下への感謝の語。」【沖辞】。・たんでぃ 「どうか。どうぞ。たって。懇願・哀願する時に用いる」【沖辞】。・んに 胸。・とぅみてぃ 止める。宿らせる。<とぅみゆん。



雨ぬ降てぃ晴りてぃ 通ゆたしが前ぬ井戸 今や人ちりてぃ 身ぬ毛立ちゅさ
あみぬふてぃはりてぃ かゆたしがめーぬかー なまやふぃとぅちりてぃ みぬきだちゅさ
'ami nu huti hariti kayutashiga mee nu kaa nama ya hwitu chirithi minuki dachyusa
雨が降っても晴れても 通ったけど 前の井戸 今は人がいなくなって 身の毛立つほど寂しい
語句・かー 井戸。「川」は「かーら」。



馬やむげーはきてぃ 牛や鼻ふがち 哀りてーひゃ山羊小 ま首くんち
んまや むげー はきてぃ うしや はなふがち あわりてーひゃー ふぃーじゃーぐゎー まくびくんち
'Nma ya mugee hakiti 'ushi ya hana hugachi 'awaritee hyaa hwiijaa gwaa makubi kuNchi
馬はオモガイを着け、牛は鼻に穴をあけ、哀れなのはなあ 山羊で 首そのものを縛られて
語句・むげー「おもがい。馬具の一つ。馬の頭からくつわにかける組みひも。また駄馬には木製のものを用いる」【沖辞】。・ふがち 穴をあけ。<ふがしゅん。「(穴が)あく。ほげる(九州方言)。」【沖辞】。・ひーじゃーぐゎー 山羊。・ 真の。「まくび」直接、首に、くらいの意。・くんち 強く縛られて。



山原ティーマトゥー
やんばる てぃーまとぅ
yaNbaru tiima tu
山原の「汀間と」
語句・やんばる てぃーまとぅ「汀間と」は有名な舞踊曲だが、民謡としてこの曲を使い、即興に歌詞をのせる遊び歌を「山原ティーマトゥー」と呼ぶ。



毛遊び小すしや延ばち二月までぃ霜月になればあんまふぃれ小
もーあちびぐゎー すしや ぬばちたちちまでぃしむちちになりば あんまふぃれーぐゎー
moo'ashibigwa sushi ya nubachi tachichi madi (yoo) shimuchichi ni nariba 'aNma hwireegwaa
毛遊びをすることは延ばしても二ヶ月まで 11月になれば お母さんとの付き合い(みたいな感じに)
語句・しむちち 霜月。旧暦の11月。・ふぃれ 交際 つきあい <ふぃれー。「あんまふぃれーぐゎー」とは、恋人との付き合いではなく「お母さんとの付き合い」みたいになるという意味か。



石川比嘉恩納 伊野波と嘉手苅と楚南 山城知花松本越来美里屋良嘉手納野国野里
いしちゃ ふぃじゃ うんな ぬふぁ とぅ かでぃかる とぅ すなん やまぐしく ちばな まちむとぅ
ぐぃーく んじゃ とぅ やら かでぃな ぬぐん ぬじゃとぅ
'ishicha hwija 'uNna nuhwa tu kadikaru tu sunaN yamagushiku chibana machimutu gwiiku 'Nja tu yara kadina nuguN 'nujatu
石川比嘉 恩納伊野波と嘉手苅と楚南山城 知花松本 越来美里 屋良嘉手納 野国野里
語句・すべて地名。沖縄では地名を二つ連ねて呼ぶ習慣がある。ここでは15の地名があり、二つの組に分けると「嘉手苅」だけが独立する。歌い手が「嘉手苅林昌」だからという洒落か?そう言えば、この歌詞、他の歌手が歌ったものを私は知らない。



北谷からやしが 遊ばすみ桑江ぬ前 遊ばさんありば 戻てぃ行ちゅさ
ちゃたんからやしが あしばすみ くぇーぬめー あしばさんありば むどぅてぃいちゅさ
chataN kara yashiga 'ashiba sumi kwee nu mee 'ashiba saN'ariba muduti 'ichusa
北谷からの者であるが 遊ぶかい 桑江の前で 遊ばないというのなら戻っていくよ
語句・あしばすみ 遊ぶかい?・くぇー 桑江。北谷の隣村。 



汝がマクなりば トートーメー小ちゃーすが あとぅや一門ぬ とぅいどぅさびる
やーがまくなりば とーとーめーぐゎーちゃーすが あとぅや いちむんぬ とぅいどぅさびる
'jaa ga maku nariba tootoomee gwaa chaasuga 'atu ya 'ichimuN nu tui du sabiru
お前が腕白な奴になれば御位牌はどうするのか? 後は御一族の皆様が取ってくれるはず
語句・まく 「腕白。勇猛な者乱暴者。また、大したやつ。相当な者。有能な者。」【沖辞】。・とーとーめーぐゎー 「先祖の位牌」【沖辞】。通常は「嫡子」、長男がこの「とーとーめー」を引き継ぐ。



(CD「おきなわの心」)


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Posted by たる一 at 14:19Comments(0)な行沖縄本島

2014年09月17日

中立ぬミガガマ

中立のみが小
なかだてぃぬみががま
nakadati nu migagama
中立部落のミガ小(女性の名)の歌
語句・なかだてぃ 宮古島の「城辺町砂川の南側にあった部落」(「島うた紀行」第二集 宮古・八重山諸島編 仲宗根幸市 より)・みががま ミガちゃん。あるいはミガ小。「がま」は沖縄本島の「小」(ぐゎー)に対応。(参照)「漲水のクイチャー」


一、中立ぬみががまよ(ササ)原立ぬどぅぬすみゃよ (デンヨー デンヨー シトゥルクデン ササ シターリヨーヌ ユイヤナ)
なかだてぃぬ みががまよ(ささ)ぱるだてぃぬ どぅぬすみゃよ (でんよー でんよーしとぅるくでん ささ したーりよーぬ ゆいやな)
nakadati nu migagama yoo (sasa)parudati nu du nu sumya yoo (deNyoo deNyoo shiturukudeN sasa shitaari yoo nu yui yana)
囃子言葉は以下省略
中立のミガガマよ 原立の私の恋人よ
語句・どぅぬすみゃ 私の恋人。<どぅ<どぅー。私。+ぬ。の。+ すみゃ<染みゃー。心を染めたもの。恋人。


二、中立道ぬやなかちか あっつぁやふみまい通まちよ
なかだてぃんつぬやなかちか あっつぁやふみまいかゆまちよ
nakadati mtsu nu yana kachika attsa ya humimai kayumachi yoo
中立の道が悪ければ 下駄を履いて通いなさい
語句・んつ 道。・あっつぁ 下駄。


三、原立道ぬやなかちか 木ぬ葉や折りまい通まちよ
ぱるだてぃんつぬやなかちか きぬぱやぶりまいかゆまちよ
parudati mtsu nu yanakachika ki nu pa ya burimai kayumachi yoo
原立の道が悪ければ木の葉を折って置いて通いなさい  


四、よなうす川んな布洗い 中立川んな糸洗い
よなうすがーんなぬぬあらい なかだてぃがーんなかせあらい
yonausu gaa Nna nunu arai nakadati gaa Nna kase arai
「世直す」井戸では布洗い 中立井戸では絹糸を洗い
語句・がー 井戸。「川」と当て字があるが「かー」は井戸であり、「川」は「かーら」。連濁により「がー」に。


宮古島の城辺町砂川の南側にあった部落、中立(なかだてぃ)に住んでいたミガ小さんと原立の役人(兼浜親)との恋を冷やかして歌われたものといわれている。


【歌詞について】

「島うた紀行」には、四番以下の歌詞も掲載されている。

四、世直りゃ井戸にん芋洗い 中立井戸んなかせ洗い

五、亀浜うやが手さずをば みががまいたむすみ

六、みががまがいたんむをば 亀浜うやが手さずどす

七、前立芋やうま芋よ 米芋やいばどうまかずよ


という歌詞が紹介されていて、「亀浜親」となっている。


【囃子について】

「島うた紀行」では

デンヨー デンヨー シトゥルクテン シターリヨーヌユイヤナ

とあり、上掲の囃子とは少し違っている。


また宮古民謡について書かれた本によっては

デンヨーデンヨーシタリタテン(サッサ) シターリヨーヌユーイヤナ

と書かれたものもある。


【曲について】

本島の民謡「てんよー節」や、古典の「てんやう節」、それを元にして芝居などで歌われる「徳利小」の本歌だと思われる。


ちなみに古典の「てんやう節」は

庭の糸柳風にさそはれて 露の玉みがく十五夜御月 

てんよ てんよ しとぅるとぅてん ささ はりよぬ ゆゐやな


となっており、メロディーだけでなく囃子もそっくりである。




宮古島 城辺

  

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2013年10月06日

なーしび節

なーしび節
なーしびぶし
Naashibi bushi
ナスビの唄
語句・なーしび 茄子、ナスビ。


一、実りよ実り茄子 姑ぬ家ぬ茄子 実らなそてぃ茄子 嫁名立ちゅみ
なりよーなりなーしび しとぅぬやーぬなしび ならなそーてぃなーしび ゆみなたちゅみ
Nari yoo nari naashibi shitu nu yaa nu naashibi naranasooti yumi nu naa tachumi
実れよ実れ茄子 姑(しゅうと)の家の茄子 ならなかったら嫁の名が立つまい
語句・なりよー 実れよ。<なゆん。ないん。実がなる。命令形。+よー 「よ。命令形の柔らげ、呼びかけ、など」【琉球語辞典(半田一郎)】(以下【琉辞】)。なりよ→融合して「なれー」というときもある。・しとぅ 姑。しゅうと。結婚相手の、義理の母親。・ならなそーてぃ ならないでいて。→ならないと。・ゆみ嫁。・たちゅみ立つか?反語で、「立つか?立たないだろう。」


二、うみ働り働り うみ働てぃぬすが 明日や出じゃさりる 嫁ぬくれぬ
うみはまりはまり うみはまてぃぬーすが あちゃやんじゃさりるゆみぬくれーぬ
'umi hamari hamari 'umihamati nuu su ga 'acha ya 'Nzyasariru yumi nu Kuree nu
励んで働け、働け(というけど)励んで働いてどうするか?明日は放り出される嫁の身分が
語句・うみはまり 励め。<うみはまゆん。うみはまいん。命令形。「うみ」思い。没頭する。・んじゃさりる 出される。<んじゃすん。出す。受身形。・くれーぬ 位が。くらいが。「ぬ」 が。


三、明日や出じゃさりる 嫁ぬ身ややてぃん 居る間ぬ努み はまてぃさびら
あちゃやんじゃさりるゆみややてぃん うるいぇだぬちとぅみ はまてぃさびら
'acha ya 'Njasariru yumi nu mii ya yatiN uru yeda nu chitumi hamatisabira
明日は追い出される(ような)嫁の身だけれど 家に居る間の勤めはお励みいたします
語句・うる 居る。<うん。居る。


四、嫁からどぅアンマー 姑んなてぃいめる うんじゅひちあてぃてぃ 愛さみしょり
ゆみからどぅあんまー しとぅんなてぃいめーる うんじゅひちあてぃてぃ かなさみしょーり
yumi kara du 'aNmaa shitu nati 'imeeru 'uNzu hichi 'atiti kanasamishoori
お嫁からお義母様も姑になっていらっしゃいます あなた様もご自分の事だと思い(私に)優しくしてください
語句・あんまー お母さん。・いめーる いらっしゃる。<いめーん 「居る、行き、来の尊敬語」【琉辞】連体形なのは、その前の「どぅ」との係り結びの関係。「どぅ」は強調の意だが、訳すときは「こそ」を省略してもかまわないときもある。また「しか」「だけ」という意味も多い。


五、鳥歌てば明きる 夏ぬ夜どぅやしが ぬがし姑びれや 明かしぐりしゃ
とぅいうてーばあきる なちぬゆーどぅやしが 脱がししとぅびれーや あかしぐりしゃ
tui 'uteeba 'akiru nachi nu yuu du yashiga nuu ga shi shitubiree ya 'akashi gurisha
鳥が鳴けば夜が明ける夏の夜であるが どうして姑との付き合いは明けにくい(いつまでも夜のようだ)
語句・とぅい 鳥、鶏。・うてーば うたえば。鳴けば。<うたゆん。うたいん。うてぃ+や→うてー。+ば(仮定)。・ぬがし どうして。<ぬー(何)+が(疑問)+し(強調)。「英語のhow,whyのいずれにも」【琉辞】。・しとぅびれー 姑との付き合い方。「どぅしびれー」は友達付き合い。・ぐりしゃ …しずらい。接尾語。形容詞の「くりしゃん」(苦しい)から。



嫁、姑の確執はいつの世でもあるのだろうが、男尊女卑の強い時代は「嫁」に大きな負担がのしかかっていたことだろう。

その嫁の側からの悲痛な声を唄にしたもので、実は全国にこの「ナスビ節」は流行歌として広まっていた。

「島うた紀行」(仲宗根 幸市編著)によると

「『大怒佐』(発行年度不明)一之巻吉野山に『なれなれ茄子、背戸のやの茄子、ならねば嫁のんん やあこれの 嫁の名の立つにんん やあこれの、嫁の名の立つにんん やあこれの』があり、熊本民謡に『なれなれ茄子』がある。ほかに「なれなれ なすび背戸のやの茄子、ならねど嫁の名の立つにヤァコリャコチラヘセ』(『巷謡篇』上『なすび』)-と関連する唄は多い。これらの歌は、一種の流行歌として日本全国に流布されたようである。沖縄の『なーしび節』も、その系統の沖縄化した歌と考えられる」


嘉手苅林昌さんの初レコードがこの「なーしび節」と「恋かたれ」だった。
CD「ジルー」に収録されている。


ところが、この林昌さんのほうは嫁姑の話ではなく、男女の恋歌となっている。

こちらの歌詞を次回はとりあげてみたい。


私事ですが、この四番の歌詞を嘉手苅林昌さんの下千鳥で聴いた。

その時はさっぱり意味がつかめなかったが「なーしび節」の一節だったとはしらなかった。




  

Posted by たる一 at 08:55Comments(0)な行沖縄本島

2013年05月26日

宮古根

宮古根
なーくにー
Naakunii
語句・なーくにー この曲名の由来など解説は「宮古根」を参照。


歌三線 我如古より子


草刈いになじき 後原にいもりヨ はか口ぬカンダ アヒ小たまし
(囃子)思いるアヒ小とぅ約束小 他所目隠りてぃ 語れー小

くさかいになじき くしばるにいもりよ はかぐちぬ かんだ あふぃぐゎたまし
うむゆるあふぃぐゎとぅやくすくぐゎ ゆすにかくりてぃ かたれぐゎー
Kusakai ni najiki kushibaru ni imri yoo hakaguchi nu kaNda 'ahwigwa tamashi
'umuyuru 'ahwigwa tu yusumi kakuriti kataree gwa
草刈りのふりをして後ろの畑にいらっしゃい 刈り取った最初の芋のツルは貴方のものよ
(囃子)愛してる貴方とした約束は、他人の目に隠れての逢瀬
語句・なじき ふりをする。口実。・くしばる後ろの原っぱ。後ろの畑。・はかぐち「仕事の始まり。端緒。農村などでは鍬をいれ始める所をいう」【沖縄語辞典】(内間直仁・野原三義)。・かんだ 甘藷(サツマイモ)のツル。沖縄では現在でも野菜として利用する。・あふぃぐゎ お兄さんくらいの意味だが、ここでは愛しい彼氏。 あふぃー;「〔平民語〕兄、兄さん」・たまし ①「精神、しっかりした心」。②「(各自の)持ち〔取り〕分」ここでは② 。



十字路にアヒ小待ちかにらやしがヨ 親ぬ目ぬしじさ 自由んならん
(囃子)仕事ん手ねーちちゃびらん 落てぃんちからん くぬ想い

かじまやに あふぃぐゎ まちかにらやしがヨ うやぬみぬ しじさ じゆんならん
しぐとぅんてぃねちちゃびらん うてぃんちからん くぬうむい
Kajimayaa ni 'ahwigwa machikanira yashiga yoo 'uya nu mii nu shijisa jiyuN naraN
ShigutuaN tii nee chichabiraN 'uthiN chikaraN kunu 'umui
十字路で貴方は待ちかねているだろうけれど、親がしょっちゅう見るので自由に行くことができないわ
(囃子)仕事も手につかないの 落ち着きません このあなたへの想いで

語句・かじまやー 「風車」、十字路。・しじさ 多さ。<しじさん。多い。「しじさ」は形容詞の感嘆の意味があるので、とても多いことよ!くらいの意味。・ちちゃびらん つきません。<ちちゅん。着く。+やびらん。でない。の丁寧語。



片時ん急じ 行逢いぶさあしがヨ カンダ葉ぬ汁や 口んやちゅさ
(囃子)今日ねー思やとぅけー行逢てぃ タンカーマンカー さら夜ながた

かたとぅちんいすじ いちゃいぶさあしがヨ かんだばぬしるやくちんやちゅさ
ちゅーねーうむやーとぅけーいちゃてぃ たんかーまんかーさらゆながた
katatuchiN 'isuji 'ichaibusa 'ashiga yoo kaNdaba nu shiru ya kuchiN yachusa
chuu nee 'umuyaa tu kee 'ichathi taNkaamaNkaa sarayunagata
いつも焦ってあなたに逢いたいけれども このサツマイモのツルのお汁熱くて火傷しそう
(囃子)今日はあなたと思い切って逢って差し向かいで真夜中までも

語句・ぶさあしが したいけれども。<ぶしゃん。したい。+あしが。だけども。・けー ちょっと。思い切って。・たんかーまんかー 「さし向かいになる様、隣同士」【琉球語辞典】(半田一郎)。・さら 真。さら+ゆながた(夜中)で、真夜中。




我如古より子さんのアルバム「恋の花」に収録されている宮古根から。

恋をする娘が、彼に逢いたくていても立ってもいられない様子と、親との関係を歌っている。

ただ宮古根なのだが、背景に流れる音はエレキギター、シンセ。ドラム。
ジャズフュージョン調。

けれども、このアルバムの曲のアレンジは大変勉強になった。

沖縄民謡の音階と三線の音色、そして歌を活かしたアレンジは見事。

我如古より子さんの歌声も素晴らしい。

お勧めのアルバムの一つ。


  

Posted by たる一 at 07:08Comments(0)な行沖縄本島

2012年11月12日

南謝門節

南謝門節
なんじゃじょーぶし
naNjajoo bushi
南謝門の唄
語句・なんじゃじょー 久米島の東部の謝名堂にある拝所。旧暦の6月に稲大祭が行われる場所。大きなクファディサの木がある。


一、南謝門ぬくふぁや 枝持ちぬ美らさヨ ユイヤサーサー 謝名堂女童身持ち美らさヨンナ ユイヤサーサー
なんじゃじょーぬくふぁや ゐだむちぬちゅらさ(よんな ゆいやさーさー)じゃなどーみやらびぬみむちじゅらさ(よんな ゆいやさーさー)
naNjajoo nu kuhwa ya yidamuchi nu churasa (yoNna yuiya saa saa)janadoo miyarabi nu mimuchi jurasa (yoNna yuiya saa saa)※以下囃子は省略。
南謝門のクファディサは枝振りが美しいことよ!謝名堂の娘は心身共に美しいことよ! 
語句・じょー 門。・くふぁ クファディーサー。クハディサ。使君子科の熱帯樹。別名は「古葉手樹」(コバテイシ)。沖縄だけでなく小笠原、アジア、アフリカの海岸に分布。冬は枯れて落葉する。沖縄では墓場に植えられることが多く「泣き声」を聞いて大きくなるという言い伝えがある。・ゐだむち 枝振り。「ゐ」の発音は「yi」。や行の発音で、現在の50音にはない。・ちゅらさ 美しいことよ!<ちゅらさん。「きよらさん」から。・みむち 「身持ち」、心身や行動もふくめて、その人の有り方。


二、だんじゅ比嘉村や うとぅに豊まりる 一立て女童ぬ なだる美らさ
だんじゅふぃじゃむらや うとぅにとぅゆまりる ちゅだてぃみやらびぬ なだるちゅらさ
daNju hwijamura ya 'utu ni tuyumariru chudati miyarabi nu nadaru churasa
だんぜん比嘉村はその名を知られているが すべての娘の非常に美しいことよ!


三、謝名堂馬越川 照り明かすう月 さばち思なびが 身なり美らさ
じゃなどーんまぐしかー てぃりあかすうちち さばちうみなびがみなりちゅらさ
janadoo 'Nmagushikaa tiri'akasu 'uchichi sabachi 'uminabi ga minari churasa
謝名堂の馬越川に照って明るくする御月様 櫛をかけた愛しいナベの身なりが美しいことよ!
語句・さばち 櫛(くし)で髪をとかして。<さばちゅん 櫛をかける。さばく。連用形。・・して。


四、並びてる童 十七ぬ童 うりから越いてぬ 並び算ぬふか
ならびてるわらび とぅななぬちわらび うりからくいてぃぬ ならびさんぬふか
narabiteeru warabi tunanachi nu warabi 'uri kara kuiti nu narabisaN nu huka
並んでいる娘 十七歳の娘 それを越えて(以下不詳)



引き続き久米島民謡を取り上げる。
南謝門は、久米島の東部の字謝名堂にある。

旧暦の6月に「稲大祭に南謝門で安全祈願を済ませた事を祝う、祭祀舞踊ウシデーク(臼太鼓)の唄として」(観光ガイドマップ)歌われてきたもの。

現在は、廃藩置県以降にウシデークの代わりに角力(すもう)が行われている。







南謝門のクワディーサー。  

Posted by たる一 at 22:46Comments(0)な行