2005年12月18日

兄弟小節

兄弟小節
ちょーでーぐゎーぶし
choodee gwaa bushim
兄弟の歌
語句・ちょーでー 兄弟。ここでは「いちゃりば ちょーでー ぬーひだてぃぬあが」(出逢えば兄弟だ なんの隔てがあるものか)という言葉から。


作詞 前川朝昭 作曲 屋良朝久


一、行逢たるや兄弟小 行逢たるや友小 寄合てぃ物語い でぃしち遊ば
いちゃたるや ちょーでーぐゎー 'いちゃたるや どぅしぐゎー ゆらてぃ むぬがたい でぃーしち'あしば
'ichataru ya choodeegwaa 'ichataru ya dushigwaa yurati munugatai dii sichi 'ashiba
出会ったものは兄弟 出会ったものは友だち 寄り集まり話を さあ して遊ぼう
語句・いちゃたるや 'ichataru ya 出会った(もの)は。< いちゃゆん 'ichayuN 出会う。 「出逢たる(人)は」と「人」が省略されている。・ちょーでー choodee 兄弟。 「k」が「c」に変化する口蓋化(cf.月つき→ちち)と、「au」→「oo」、「ai」→「ee」という変化で。・ゆらてぃ yurati  寄り合って。 < ゆらゆんyurajuN. 「一食分を分け合って食う また分け合って一緒に食事する。」【沖縄語辞典】。ただ「集まって」ではないところに沖縄の情心(なさきぐくる)、肝心(ちむぐくる)が表れている。・むぬがたい munugatai 話。語り katariの「r」が脱落した。物語は「Nkashimunugatai」という。・でぃーしち さあ、して。 「でぃー」 は さあ いざ、と人を誘ういい方。


行逢りば兄弟 ぬう隔てぬあが 語れ遊ば
いちゃりばちょーでー ぬー ふぃだてぃぬ あが かたれーあしば
'ichariba choodee nuu h(w)idati nu 'aga kataree 'ashiba
(※繰り返し以下略)
出会えば兄弟 何の隔てが あるか 仲間になり遊ぼう
語句・ぬーふぃだてぃぬ'あが  何の 隔てが あるか。 (ない)という反語。「ひだてぃ」と歌う場合もある。



二、覚出すさ昔 今になてみりば 懐かしん寄合て 語れ欲しゃぬ
うびじゃすさ んかし なまになてぃみりば なちかしん ゆらてぃ かたれーぶしゃぬ
'ubijasusa Nkashi namani natimiriba nachikashiN yurati kataree bushanu
思い出すよ昔を 今になってみれば悲しいことも寄合って仲間になりたい
語句・なちかしん  悲しいことも。<なちかさん 悲しい。  「懐かしい」という当て字で表記されていても古い沖縄語(ウチナーグチ)では「懐かしい」ではない場合がある。屋嘉節にも「懐かしや沖縄」とあるが、「悲しいのは 沖縄」である。この歌は比較的新しい曲なので「懐かしい」という意味もあるかもしれない。・かたれー  仲間になる。これも漢字が「語れー」と当て字にしてあるから「話すこと」と誤解しやすいが、もともと男女の契りを結ぶことや仲間になることをさし、「かた」は「味方」の「方」という説もある。「いかたれぐわー」といえば「情けのある男女の契り」。イメージだけで理解すると歌詞の奥深い意味が見えなくなる場合もある。とは言え歌の新しさから標準語の影響もあり、普通の「語る」という意味にすぎないかもしれない。



三、嵐世ぬ中ん 漕ぢ渡てぃ互に 又行逢る節んあてーる嬉しゃ
あらしゆーぬなーかん くーじわたてぃ たげーに また いちぇーるしちん あてーる うりしゃ
'arashi yuu nu naakaN kuujiwatati tagee ni mata 'icheeru shichiN 'ateeru 'urisha
嵐世(戦争世)の中も漕ぎ渡って(生き延びて)互いに 又出逢う時もあればこそ非常に嬉しい
語句・くーじ 漕いで。 <くーじゆん kuujuN。・いちぇーる 出逢う。<いちゃゆん 出会う。・あてーる あればこそ<あん ある。→あてぃ+や→あてー +る 強調の「どぅ」。

    

四、たまに友行逢ていちゃし別りゆが 夜ぬ明きてぃ太陽ぬ上がる迄ん
たまに どぅし いちゃてぃ いちゃし わしりゆが ゆーぬ あきてぃてぃーだぬ あがるまでぃん
tamani dushi 'ichati 'ichashi wakari yuga yuu nu 'akiti tiida nu 'agarumadiN
稀に友達と出会ってどうして別れることができようか 夜が明けて太陽があがるまでも
語句・いちゃし どうして。どうやって。・わかりゆが 別れることができるだろうか。



五、互に注ぢ交わす玉ぬ盃に 昔思無蔵が姿うちゅち
たげーにちじかわす たまぬ さかじちに んかし うみんぞが しがた うちゅち
tagee ni chiji kawasu tama nu sakazichi ni Nkashi 'umiNzo ga sigata 'uchuchi
互いに注ぎ交わす大事な盃に 昔の愛する彼女の姿を映して
語句・たげに たがいに。・ちじ 注ぐ。<ちじゅん つぐ。そそぐ。 ・たま 「玉」と当て字があるが、「めったにない」貴重な、くらいの意味であろう。「たま」には「大事な」「貴重な」の意味もある。・うみんぞ 愛する彼女。<うみ 愛する。「うみかな」(愛しい彼女)、「うみぐゎ」(愛しい子ども)など多く使う。+んぞ 彼女。男性から愛する女性の呼称。・うちゅち 映して。<うちゅしゅん。 写す。映す。


(コメント)
沖縄の人々の民謡シーンの中でとても好まれて歌われている兄弟小節。

三下げの軽快なリズムで沖縄音階も豊富。

歌詞の中には沖縄の人々の大事な情け小があちこちに込められている。


しかし、私達や大和人(ヤマトゥンチュ)もそれにつられてよく唄っているが、

意味を歌詞の当て字どおりに理解していると

沖縄の人々が描く、この唄の「情け」とはピントがずれていたりする。


語句の解説でも書いたが「ゆらてぃ」「かたれー」「なちかしん」などはその語句の持つ意味を吟味したい。


沖縄の心を示すものとして「いちゃりば兄弟」というよく使われる言葉があるが

沖縄の方は誰に対しても無警戒に受け入れる、と都合のいいような理解をしてはいけないと思う。

とくに本土の私達は。


琉球、沖縄と本土との長い歴史のなかで

薩摩支配、廃藩置県以後の差別支配や沖縄戦、そして戦後の経済格差や米軍基地の集中などによって

本土と沖縄の人々の間には深い溝が作られてきたように思う。


もちろん荒廃した現代人が忘れたような、誰に対してもやさしく心を開く姿勢というのは、

沖縄に行くと体験するし、癒されたような気持ちになるのは事実である。


今でもアジアの国々では、挨拶のように「ご飯を食べた?」「これを食べなさい」という「分け合う」精神は生きている。

沖縄でも年配のおばあさんなど戦時戦後の食糧難を生き延びてきた人々は、

「どうぞ食べなさい」という「分け合う」精神が顕著で、よく「かめーかめー(食べなさい)攻撃」と笑い話のネタになったりする。


「いちゃりば兄弟」という言葉に示されるような「暖かさ」「共有精神」は、この歌にもあるように

さまざまな苦労(戦争、貧困、差別など)を乗り越え助け合ってきたという教訓を

しっかり踏まえたものであることを、本土の私達も知る必要がある。


沖縄に負担を強いてきた本土の歴史は知ることもなく 「いちゃりば兄弟」などといいたくはないと私は思う。

多くの苦労と苦しみを押し付けてきた側の人間に、簡単に「いちゃりば兄弟」と心開くと思っては道を誤るのである。


その意味でこの歌は、本土の私たちにさらなる猛省や自覚、勉強と行動を、さりげなく示唆してくれる歌でもあると思う。


兄弟小節



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Posted by たる一 at 23:25│Comments(4)た行沖縄本島
この記事へのコメント
おじゃまします。
屋良朝久さんでググってたらヒットしましたので。

三番の歌詞は「又行逢る節んあてる嬉しゃ」と唄うこともありますね。

「謡の道」でも、前川先生と上原正吉さんとでは違いますし、唄者に合わせて替える事ってよくあることですね。
Posted by ごんぞ at 2008年03月07日 11:13
ごんぞさん
はじめまして、かな?

はい手持ちのCDでは「節」って歌っていますね。
前川さんの歌、いいですね。
Posted by たるー(せきひろし)たるー(せきひろし) at 2008年03月08日 20:36
どうして自分のサイトからリンクがかかてるのか?わかりません。
Posted by 上里忠邦 at 2018年03月04日 18:05
上里忠邦さん、
私の方からはリンクしたことはありませんが、もしよろしければ詳しい事情を教えていただけませんか?
Posted by たる一たる一 at 2018年04月12日 14:52
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