2008年07月05日

軍人節

軍人節
ぐんじんぶし
guNjiN bushi

作詞・作曲 普久原朝喜

(連らね)
ちらに
chirani

天ぬん知りみそち 月ん知りみそち 里が行く先や照らしたぼり
てぃぬんしりみそち ちちんしりみそち さとぅが'いくさちや てぃらしたぼり
tinuN shirimisochi chichiN tirimisochi satu ga 'iku sachi ya tirashitaori
天もお知りになってください 月もお知りになってください 貴方の行く先をば照らしてください
語句 ・ちらに 琉歌(るーか)を歌の最初、または途中などで三線の節とは別の一定の節で歌うこと。二曲をつなげて歌う「ちらし」とは違うので注意。・てぃぬん 天も。 てぃん(天)+ん(も)→てぃぬん。「n」に終わる語句に「n」が付くときは、「n」を「nu」として「n」をつける。(例)わん(私)も→わぬん。・ をば。「や」は主格だけでなく目的格につく「をば」となる場合もある。


(夫)無蔵と縁結で月読みば僅か 別れらねなゆみ 国の為でむぬ 思切りよ思無蔵よ
んぞとぅいんむしでぃ ちちゆみばわじか わかりらねなゆみ くにぬたみでむぬ 'うみちりよ 'うみんぞよ
Nzo tu iN mushidi chichi yumiba wajika wakarirane nayumi kuni nu tami demunu 'umichiri yoo 'umi Nzo yo
貴女と縁を結んで(の)日々を数えると僅か(しかない) 別れなければなるまい 国の為であるから あきらめよ 愛する貴女よ
語句・いん 縁。発音は「iN」=「yiN」声門破裂音のない「い」。「'いん」「'iN」と発音すると「犬」になる。・ちちゆみば 直訳で「月を数えると」、つまり「月日数を数えると」。・わかりらね なゆみ わかりらね<わかりゆん→否定形 わかりらん 別れられない。+ね<ねー には。(neとyaの融合) +なゆみ なるか?ならない。 つまり直訳すると「別れられない には なるか?」→「別れられないと思っても そうはならないだろう?」→「わかれなければなるまい」。諦観の思いがこめられている。・うみちりよ あきらめよ。<うみちりゆん 諦める。


(妻)里や軍人ぬ 何んち泣ちみせが 笑て戻いみせる御願さびら 国の為しちいもり
さとぅやぐんじんぬ ぬんちなちみせが わらてぃむどぅいみせる 'うにげさびら くにぬたみ しちいもり
satu ya guNjiN nu nuNchi nachimisega warati muduimiseru 'unigesabira kuni nu tami shichiimori
貴方は軍人が[としては]何と云ってお泣きになるのですか 笑ってお戻りくださるとお願いします 国の為(に)して来てください
語句・ この「ぬ」は難しい。直訳すれば上述のように「貴方は軍人が」となり、通常の会話からは違和感があるが、「貴方は軍人としては」くらいの意味。琉球語辞典によると、沖縄口には日本語の古来の「が、の」の使用法が継承されている。親近感のある人、ものには「が」で受け、疎遠なものには「の」で受けるという。「話者から見て'ari[彼]は近い関係なのでgaで受けるが、'ama[あのかた]は遠い関係なのでnuで受ける」「これは8世紀以来和語で属格助詞“ガ・ノ”に見られた特徴(中略)が主格助詞への転用後も琉球語で継承されたもの」(琉球語辞典)。「軍人」という語句自体に「疎遠」を感じた表現というべきか。・むどぅいみせる お戻りくだると。<みせーん 「する」の敬語。の連体形。みせーる。


(夫)軍人の務め我ね嬉さあしが 銭金の故に哀りみせる母親や如何がすら
ぐんじんぬちとぅみ わね'うりさ'あしが じんかにぬゆいに'あわりみせる はは'うやや'いちゃがすら
guNjiN nu chitumi wane 'urisa 'ashiga jiNkani nu yui ni 'awarimiseru haha'uya ya 'ichagasura
軍人の務め 私は嬉しいのだがお金の故に苦労される母親はどうしようか
語句・あわりみせる 苦労される。 <あわり 哀れ。苦労。つらいこと(琉)。+みせる<みせーん ・・される。


(妻)例え困難に繋がれて居てんご心配みそな 母の事や思切みそり思里前
たとぅいくんなんにちながりてぃうてぃん ぐしんぱいみそな はは'うやぬくとぅや 'うみちりみそり 'うみさとぅめ
tatui kuNnaN ni chinagariti utiN gushiNpai misona haha'uya nu kutu ya 'umichirimisori 'umisatume
例え困難に繋がっていても ご心配なされないで母のことは あきらめてください 貴方 
語句・ちながりてぃ <ちなじゆん 紐などを繋ぐ。(琉) ・みそな <みせーん の否定・命令形。


(夫)涙ゆい他に云言葉やねさみ さらば明日ぬ日に別れと思ば 此の二人や如何がすらなみだゆいふかに 'いくとぅばや ねさみ さらば'あちゃぬふぃにわかりとみば くぬたいや'いちゃがすら
namida yui huka ni 'ikutuba ya nesami saraba 'acha nu hwi ni wakari tumiba kunu tai ya 'ichagasura
涙より他に言葉はないのだ そうならば明日に日に別れと思えば この二人はどうしたらよいのか
語句・ねさみ ないのだ。<ねん ない。+さみ ・・だ。 ・さらば <さ そう。+あらば あれば。→そうであるなら。そうであるから。 ・とぅみば と思えば。

軍人節。
あの普久原朝喜が戦中に作ったもの。
軍人節のあと「出征出船の唄」(別名 熊本節)がチラシ。

召集令状が届いて戦地に赴く夫婦の対話を歌っている。
最初の「ちらに」が印象的だ。

この唄を「戦争協力の唄」ととるか、いや反戦の唄ととるか、意見がわかれる。
唄が現実の世界を写し取る鏡だとすれば、出征する夫婦の気持ちをストレートに表した名曲であることは間違いない。
「国ぬ為でむぬ 思切りよ」(国の為だ あきらめよ)
という歌詞は、戦争に協力せざるを得なかった日本国民(沖縄県民)の苦悩をも一定反映している。
それゆえ、特高による検閲の対象になってという話もある。

太平洋戦争で日本は沖縄にも過酷な戦争協力を強いた。
明治以降の天皇制教育、方言撲滅運動などで、
沖縄も日本帝国の一部として積極的な協力体制をつくったのである。

その背景をもとにして、このような「沖縄口」での唄は特高、権力側にとって、たとえ出征を「あきらめる」唄であれども不穏な印象を受けたに違いない。

そうは云っても、私は決して「反戦」の唄とは思わない。

「あきらめ」の唄なのである。

しかし、それでこの唄の価値が下がるとは思わない。
当時の民衆の思いをストレートに表現しているからである。

しかし時代は変わった。今、世界をとりまく戦争の火種。
これを「あきらめ」では解決できない。

この唄が沖縄を含め、あの太平洋戦争を振り返るきっかけとなればよいと思う。
日本は沖縄をアジアに対する「加害者」にしたことも。

次回は「出征出船の唄」(別名 熊本節)をとりあげる。

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Posted by たる一 at 12:56│Comments(3)か行
この記事へのコメント
この唄を最近知り、繰り返し聞いています。

こんな重い民謡もあったのかと思い、聴いています。

この唄をこの唄を「戦争協力の唄」ととる人がいるという事に違和感を覚えます。 これを戦争に協力する唄には到底思えません。

軍人節の心情とは沖縄人の「仕方なさ」と言う他ありません。  あきらめているわけでも無いと思います。 両手を挙げて、ただあきらめているのではないと思います。 

生きるための方法はそれしかなかった。

やりたくも無い戦争に巻き込まれ、協力するほかにない切なさを表現している唄であり、本当に言いたい事は歌詞としては表現されていない事が本当に訴えたかった事ではないでしょうか?

ストレートに唄に書けなかった反日感情を胸に、戦争に協力する他に生き延びるチャンスがなかった。

妻や、母親への思いを断ち切って、「御心配なく行ってらっしゃいと」言っているのは、最大限の優しさであり、そこが詩的には素晴らしい所だと思います。

このサイトは、とても勉強させて頂いてますが、ちょっとこれは?と思ってコメントさせて頂きました。  
Posted by 匿名 at 2009年04月03日 12:33
両祖父共に日本軍人として戦った経験談を私に語った後に後生に旅立った者としての意見です。
また今の師匠も志願した経験談からですが、三人とも「戦争中は世の中狂っていた」これは本音のようです。
既に後生の両祖父とも曰く「日本軍人で有った誇りは忘れていなかった」、また「日本も世界も選択を誤っていた」、「今から生きる若者が過去に囚われ過ぎていては駄目だ」「戦後の苦労は戦前、戦中に養われた」「軟弱な精神で物事を行ってはいけない」
以上が両祖父共に発言していた「太平洋戦争と戦後観」です。
ちなみに父方祖父は故郷近く沖縄本島の戦線に、母方祖父は南洋はサイパン辺りの戦線に居たそうです。
二人とも返還運動では過激に闘ったそうですが、戦後は大人しい「オジィ」のイメージしかありませんでしたが、今の戦後世代に無い「鋭い眼光」と「強い精神力」は持っていた気がします。
今の師匠もにこやかながら「眼光は鋭い」ですし、「精神的にも剛健」ですよ。
うちの父方祖父の実家も師匠の実家の土地も過半数が嘉手納飛行場建設の為に強制収用されましたが、二人とも「琉球政府に権利売却」する事で戦後を生き抜いた方々です。
今の戦後派の方々の方が余程軟弱な方が多数派かと思っています。
方言を使える県民人口が1割まで減りましたから、私などは年齢としてはまだまだ若輩ですが、10以上先輩方に驚かれるくらいの方言力が有るみたいです。
ひたすらウチナーグチしか話さない祖父母のいる家庭で育ったせいでしょう。
戦争はすべきではありません。
しかし、過去にこだわり過ぎて「奇妙なタブー」が「民謡を唄う上で今後出る可能性」を危惧しています。実際一部そのような「戦後世代による歌詞改竄」や「都合よくする為の歌詞の足し増しによる改竄」など目立つようになっています(戦前派ね遊び唄を除きます)。
何故「マクラム道路の唄」や「川平線風景」(どちらも大鉄道唱歌の替え歌)や戦前流行っていた「美しき天然」や「書生節」や「ラッパ節」や「鹿児島小原節」や「磯節」や「金色夜叉」や「草津節」や「奄美小唄」などの流行歌の変化型三線歌謡曲を真似るのを嫌がるのか理解に苦しみます。
「教えない隠蔽」も有りますからね。
パラオ帰りの元日本軍人であった方々などはパラオで流行した日本語歌謡曲で、現在「小笠原民謡」とされる「パラオの5丁目」の沖縄風など唄われていましたが?
反戦=戦前戦中の流行歌の隠蔽
と言う図式は理解不能です。
Posted by くがなー at 2012年01月07日 17:16
本日 6月23日 70年経ちました
式典での高校生の挨拶の中に出て来た軍人節が気になってたどり着きました。
Posted by さんしん初心者 at 2015年06月23日 22:20
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