2018年05月30日
今帰仁ミャークニー
今帰仁ミャークニー
なちじんみゃーくにー
nachijiN myaakunii
◯今帰仁のミャークニー(宮古の音)
語句・なちじん 現在の沖縄県国頭郡今帰仁村を指す。琉球王朝時代の17世紀の頃、今帰仁間切はほぼ本部半島全域だったが18世紀の初めに本部間切と今帰仁間切に分離された。・みゃーくにー宮古の青年が歌うアヤグを聴いた今帰仁の青年が今帰仁で作り変えたという伝承があるウタ。故に「宮古根」「宮古音」「宮古ニー」などとも書かれる。沖縄本島で愛される様々なナークニーの原型とも言われる。
歌三線 平良正男氏
(2017年末にお借りしたテープから筆者聴き取り。今までの今帰仁ミャークニーとは手もウタも少し違うもの。歌詞、訳には平良哲男氏からアドバイスを頂いた)
1、他所目まどぅはかてぃ 三箇村通てぃ(ヨ)月ぬ抜ちゃがてぃる 戻てぃいちゅさ
[(ヨ)は囃し言葉なので以下省略。]
ゆすみまどぅ はかてぃ さんかむらかゆてぃ ちちぬぬちゃがてぃる むどぅてぃいちゅさ
yusumi madu hakati saNkamura kayuti chichi nu nuchagati ru muduti 'ichu sa
◯人目を忍んで三つの村に通って、月が雲を抜けて上がったころには戻っていくよ
語句・ゆすみ 「よそ目。人目。他人に見られること。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・まどぅはかてぃ すきを見はからって。つまり「ゆすみまどぅはかてぃ」で「他人の目のすきを見はからって」。・さんかむら 玉城村・岸本村・寒水村のアサギで、三つの村の存在を示すものである。三つの村は、明治36年に合併され玉城村となり、同41年に字玉城と改称され、現在に至る。・ぬちゃがてぃる 雲を抜けて上がって。<ぬちゃがゆん。「抜けて上がる。抜けて上に出る」【沖辞】。+る<どぅ。こそ。
2、月や抜ちゃがてぃん なま鶏や鳴かん 夜明け星見らん時ゆでむぬ
ちちやぬちゃがてぃん なだとぅいや なかん ゆあきぶし みらんとぅちゆでむぬ
chichi ya nuchagatiN naada tui ya nakaN yuuakibushi miraN tuchi yu demunu
◯月が上がってもまだ今はニワトリは鳴かない 夜明け星が見えない時間であるから
語句・でむぬ 「…であるから。…なので」【沖辞】。・ゆあきぶし 明けの明星。金星。
3、恋ぬ邪魔すゆる 悪魔ふくら木や 何時枯りてくぃゆが 年や寄たさ
くいぬじゃま すゆる あくまふくらぎや いちかりてぃくぃゆが とぅしや ゆたさ
kui nu jyama suyuru 'akuma hukuragii ya ’ichi kariti kwiyu ga tushi ya yutasa
◯恋の邪魔をする悪魔のようなきりんそう(親のこと)は いつ枯れてくれるだろうか 年もとったよ
語句・ふくらぎ <ふくるぎ。「きりんそう。多年生草本。」【沖辞】。「魚を捕るために水中に投入する毒物。hukurugi(きりんそう)の茎・葉を切って乳状に液が出たところをそのまま水中に投入する」【沖辞】。ここでは子どもの恋の邪魔をする憎い親への例え。
4、約束やしちょてぃ あてぃぬねん里前 月や山ぬ端にさがるまでぃん
やくしくやしちょーてぃ あてぃぬねんさとぅめ ちちややまぬふぁにさがるまでぃん
yakushiku ya shichooti 'ati nu neeN satume chichi ya yama nu hwaa ni sagarumadiN
◯ 約束はしているのに 当てにならない貴方 月が山の端に沈むまでも来ない
5、無蔵がさたすたる 中城ぶじょや 黒髭小立てぃてぃ うとぅな なたさ
んぞが さた すたる なかぐしく ぶじょーや くるふぃじぐゎーたてぃてぃ うとぅななたさ
Nzo ga sata sutaru nakagushiku bujoo ya kuru hwiji gwaa tatiti ’utuna natasa
◯ 貴女が噂をした中城奉行は黒ひげを立てて大人になったよ
語句・さたうわさ。・ぶじょー 奉行。平良哲男さんは「巡査」と訳されておられた。・うとぅな 大人。
6、むしるかちゃ引ちゃい 里まちゅる裏座 里や花ぬ島 恋の遊び
むしる かちゃ ふぃちゃい さとぅまちゅる うらじゃ さとぅやはなぬしま くいぬあしび
mushiru kacha hwichai satu machiru ’uraja satu ya hana nu shima kui nu ’ashibi
◯ 筵をひいて蚊帳を吊って貴方を待つ裏座 貴方は遊郭へ行って恋の遊びでもしてるのか?
語句・むしる 筵。むしろ。い草、アダン葉などを編んで作る。布団の代わりに使用。・かちゃ 蚊帳。蚊帳は吊るすが「ふぃちゅん」(引く)と言った。・うらじゃ 裏座。寝間。・はなぬしま 遊郭やモーアシビの盛んなシマのことをそう呼んだ。
7、寄る年ぬまたとぅ若くならりゆみ ただ遊びみそり 夢ぬ浮世
ゆる としぬまたとぅわかくならりゆみ ただあしびみしょーり いみぬうちゆ
yuru tushi nu matatu wakakunarari yumi tada ’ashibi misyoori ’imi nu ’uchiyuu
◯ 寄る歳は 再び若くなれまい?ただお遊びください 夢のようなこの世を
語句・ならりゆみ なれるか?という疑問文だが、「いや、なれない」という反語表現を含む。
8、誠一筋に生ちち来ゃる我身の 神ぬお助けに あるが嬉しゃ
まくとぅ ひとぅしぢに いちち ちゃる わみぬ かみぬ うたしきに あるが うりしゃ
makutu hwitushiji ni ’ichichi chaaru wami nu kaminu ’utashiki ni ’aru ga ’urisha
◯ 誠実に生きてきた自分に 神のお助けがあることが嬉しい
語句・うたしき 「お助け」の文語表現。
(解説)
これまで取り上げてきた「今帰仁ミャークニー」の続きである。
このウタとの出会いは偶然だった。
2017年12月に平良哲男さん宅にお邪魔したときに平良正男さんが録音された多くのカセットテープの中から9本ばかりをお借りした。そのカセットのケースには「平敷の与那嶺盛カマさん」と書いてあったので、私はその方の歌三線だと思い込んでいた。
これまでの正男さんの手や節とは違っていたからだ。しかし平良哲男さんが正男さんに確認すると正男さんの歌だということが確認できた。
これまでの今帰仁ミャークニーとの違い
・「中出じゃし(なかんじゃし)」と呼ばれる歌い出し。
・高く上がっている時間が一拍多い、つまり長い。
・前半と後半の間(まー)が短い。
・しかし全体の拍数は全く同じ。手も似ている。
などが挙げられる。
参考のために二つの工工四を比べて掲載しておく。
《これまでの今帰仁ミャークニー》
《今回のもの》
拡大したものはコチラ
モーアシビに結びついた歌詞
歌詞を見てみよう。その多くがモーアシビを連想させる歌詞になっている。
昔のモーアシビの情景はどうだったのだろう。あるものが歌えば、誰かが歌で返す、いわゆる歌垣(ウタガキ)が行われた。その歌で愛を語らう者がいたり、互いを褒めたり、揶揄したり、また神を讃えたりして、いわば芸能を磨き、男女の想いも強くしていったという。また力自慢の者たちは相撲をしたり、賭け事をしたり、若者たちの自由な娯楽の場であった。
自分のシマ(村)だけでなく他シマに出かけていくこともあったようだ。
平良正男さんによると、シマからシマへ移動する時には必ずミャークニーを歌ったという。それは夜中の道の寂しさに負けないためもあるし、元気をつけたり、退屈をしのぐためでもあったという。何時間もあるくので歌詞は無数に覚えなければなかったそうだ。即興もあっただろう。シマのモーアシビに参加すればウタによる勝負もあっただろう。 そうしてウタが鍛えられてきたのだ。
そんなモーアシビは1940年代には姿を消した。日本の軍国主義の台頭と共に吹き荒れた「風俗改良運動」の中で徹底的に警察、青年団、村組織をあげて一掃されてしまった。
こうしたモーアシビの受難は、さかのぼれば薩摩藩が琉球を軍事的に制圧した17世紀以降強まっていた。琉球王府は薩摩藩にも上納する租税を強化するとともにモーアシビや女性たちの神遊び(シヌグ)などを制限し、自由恋愛ではなく家父長制の下で親が認めた結婚が主流となるようにした。モーアシビは仕事にも影響がある、家父長制にとってもよろしくない、というわけだ。
もう失われたモーアシビの情景。しかしウタは残っている。ミャークニーに限らずモーアシビから生まれ、育てられたウタは多い。その情景は消えてしまったのにウタが継承されるかどうかは非常に厳しい状況にある。歌い手も高齢化しテクニックの継承や新たな歌詞なども生まれてくることは難しいのだ。
「ウタのゆりかご」のようなモーアシビの情景を浮かび上がらせる今帰仁ミャークニーもまた歌い継いでいけるかどうかの瀬戸際にあると言っても過言ではない。平良正男さんの御子息の平良哲男さんは歌い継いでいかれようとされている。
私も微力ながらそれを応援するとともに広島でも歌っていきたいと思っている。
【このブログが本になりました!】
書籍【たるーの島唄まじめな研究】のご購入はこちら
なちじんみゃーくにー
nachijiN myaakunii
◯今帰仁のミャークニー(宮古の音)
語句・なちじん 現在の沖縄県国頭郡今帰仁村を指す。琉球王朝時代の17世紀の頃、今帰仁間切はほぼ本部半島全域だったが18世紀の初めに本部間切と今帰仁間切に分離された。・みゃーくにー宮古の青年が歌うアヤグを聴いた今帰仁の青年が今帰仁で作り変えたという伝承があるウタ。故に「宮古根」「宮古音」「宮古ニー」などとも書かれる。沖縄本島で愛される様々なナークニーの原型とも言われる。
歌三線 平良正男氏
(2017年末にお借りしたテープから筆者聴き取り。今までの今帰仁ミャークニーとは手もウタも少し違うもの。歌詞、訳には平良哲男氏からアドバイスを頂いた)
1、他所目まどぅはかてぃ 三箇村通てぃ(ヨ)月ぬ抜ちゃがてぃる 戻てぃいちゅさ
[(ヨ)は囃し言葉なので以下省略。]
ゆすみまどぅ はかてぃ さんかむらかゆてぃ ちちぬぬちゃがてぃる むどぅてぃいちゅさ
yusumi madu hakati saNkamura kayuti chichi nu nuchagati ru muduti 'ichu sa
◯人目を忍んで三つの村に通って、月が雲を抜けて上がったころには戻っていくよ
語句・ゆすみ 「よそ目。人目。他人に見られること。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。・まどぅはかてぃ すきを見はからって。つまり「ゆすみまどぅはかてぃ」で「他人の目のすきを見はからって」。・さんかむら 玉城村・岸本村・寒水村のアサギで、三つの村の存在を示すものである。三つの村は、明治36年に合併され玉城村となり、同41年に字玉城と改称され、現在に至る。・ぬちゃがてぃる 雲を抜けて上がって。<ぬちゃがゆん。「抜けて上がる。抜けて上に出る」【沖辞】。+る<どぅ。こそ。
2、月や抜ちゃがてぃん なま鶏や鳴かん 夜明け星見らん時ゆでむぬ
ちちやぬちゃがてぃん なだとぅいや なかん ゆあきぶし みらんとぅちゆでむぬ
chichi ya nuchagatiN naada tui ya nakaN yuuakibushi miraN tuchi yu demunu
◯月が上がってもまだ今はニワトリは鳴かない 夜明け星が見えない時間であるから
語句・でむぬ 「…であるから。…なので」【沖辞】。・ゆあきぶし 明けの明星。金星。
3、恋ぬ邪魔すゆる 悪魔ふくら木や 何時枯りてくぃゆが 年や寄たさ
くいぬじゃま すゆる あくまふくらぎや いちかりてぃくぃゆが とぅしや ゆたさ
kui nu jyama suyuru 'akuma hukuragii ya ’ichi kariti kwiyu ga tushi ya yutasa
◯恋の邪魔をする悪魔のようなきりんそう(親のこと)は いつ枯れてくれるだろうか 年もとったよ
語句・ふくらぎ <ふくるぎ。「きりんそう。多年生草本。」【沖辞】。「魚を捕るために水中に投入する毒物。hukurugi(きりんそう)の茎・葉を切って乳状に液が出たところをそのまま水中に投入する」【沖辞】。ここでは子どもの恋の邪魔をする憎い親への例え。
4、約束やしちょてぃ あてぃぬねん里前 月や山ぬ端にさがるまでぃん
やくしくやしちょーてぃ あてぃぬねんさとぅめ ちちややまぬふぁにさがるまでぃん
yakushiku ya shichooti 'ati nu neeN satume chichi ya yama nu hwaa ni sagarumadiN
◯ 約束はしているのに 当てにならない貴方 月が山の端に沈むまでも来ない
5、無蔵がさたすたる 中城ぶじょや 黒髭小立てぃてぃ うとぅな なたさ
んぞが さた すたる なかぐしく ぶじょーや くるふぃじぐゎーたてぃてぃ うとぅななたさ
Nzo ga sata sutaru nakagushiku bujoo ya kuru hwiji gwaa tatiti ’utuna natasa
◯ 貴女が噂をした中城奉行は黒ひげを立てて大人になったよ
語句・さたうわさ。・ぶじょー 奉行。平良哲男さんは「巡査」と訳されておられた。・うとぅな 大人。
6、むしるかちゃ引ちゃい 里まちゅる裏座 里や花ぬ島 恋の遊び
むしる かちゃ ふぃちゃい さとぅまちゅる うらじゃ さとぅやはなぬしま くいぬあしび
mushiru kacha hwichai satu machiru ’uraja satu ya hana nu shima kui nu ’ashibi
◯ 筵をひいて蚊帳を吊って貴方を待つ裏座 貴方は遊郭へ行って恋の遊びでもしてるのか?
語句・むしる 筵。むしろ。い草、アダン葉などを編んで作る。布団の代わりに使用。・かちゃ 蚊帳。蚊帳は吊るすが「ふぃちゅん」(引く)と言った。・うらじゃ 裏座。寝間。・はなぬしま 遊郭やモーアシビの盛んなシマのことをそう呼んだ。
7、寄る年ぬまたとぅ若くならりゆみ ただ遊びみそり 夢ぬ浮世
ゆる としぬまたとぅわかくならりゆみ ただあしびみしょーり いみぬうちゆ
yuru tushi nu matatu wakakunarari yumi tada ’ashibi misyoori ’imi nu ’uchiyuu
◯ 寄る歳は 再び若くなれまい?ただお遊びください 夢のようなこの世を
語句・ならりゆみ なれるか?という疑問文だが、「いや、なれない」という反語表現を含む。
8、誠一筋に生ちち来ゃる我身の 神ぬお助けに あるが嬉しゃ
まくとぅ ひとぅしぢに いちち ちゃる わみぬ かみぬ うたしきに あるが うりしゃ
makutu hwitushiji ni ’ichichi chaaru wami nu kaminu ’utashiki ni ’aru ga ’urisha
◯ 誠実に生きてきた自分に 神のお助けがあることが嬉しい
語句・うたしき 「お助け」の文語表現。
(解説)
これまで取り上げてきた「今帰仁ミャークニー」の続きである。
このウタとの出会いは偶然だった。
2017年12月に平良哲男さん宅にお邪魔したときに平良正男さんが録音された多くのカセットテープの中から9本ばかりをお借りした。そのカセットのケースには「平敷の与那嶺盛カマさん」と書いてあったので、私はその方の歌三線だと思い込んでいた。
これまでの正男さんの手や節とは違っていたからだ。しかし平良哲男さんが正男さんに確認すると正男さんの歌だということが確認できた。
これまでの今帰仁ミャークニーとの違い
・「中出じゃし(なかんじゃし)」と呼ばれる歌い出し。
・高く上がっている時間が一拍多い、つまり長い。
・前半と後半の間(まー)が短い。
・しかし全体の拍数は全く同じ。手も似ている。
などが挙げられる。
参考のために二つの工工四を比べて掲載しておく。
《これまでの今帰仁ミャークニー》
《今回のもの》
拡大したものはコチラ
モーアシビに結びついた歌詞
歌詞を見てみよう。その多くがモーアシビを連想させる歌詞になっている。
昔のモーアシビの情景はどうだったのだろう。あるものが歌えば、誰かが歌で返す、いわゆる歌垣(ウタガキ)が行われた。その歌で愛を語らう者がいたり、互いを褒めたり、揶揄したり、また神を讃えたりして、いわば芸能を磨き、男女の想いも強くしていったという。また力自慢の者たちは相撲をしたり、賭け事をしたり、若者たちの自由な娯楽の場であった。
自分のシマ(村)だけでなく他シマに出かけていくこともあったようだ。
平良正男さんによると、シマからシマへ移動する時には必ずミャークニーを歌ったという。それは夜中の道の寂しさに負けないためもあるし、元気をつけたり、退屈をしのぐためでもあったという。何時間もあるくので歌詞は無数に覚えなければなかったそうだ。即興もあっただろう。シマのモーアシビに参加すればウタによる勝負もあっただろう。 そうしてウタが鍛えられてきたのだ。
そんなモーアシビは1940年代には姿を消した。日本の軍国主義の台頭と共に吹き荒れた「風俗改良運動」の中で徹底的に警察、青年団、村組織をあげて一掃されてしまった。
こうしたモーアシビの受難は、さかのぼれば薩摩藩が琉球を軍事的に制圧した17世紀以降強まっていた。琉球王府は薩摩藩にも上納する租税を強化するとともにモーアシビや女性たちの神遊び(シヌグ)などを制限し、自由恋愛ではなく家父長制の下で親が認めた結婚が主流となるようにした。モーアシビは仕事にも影響がある、家父長制にとってもよろしくない、というわけだ。
もう失われたモーアシビの情景。しかしウタは残っている。ミャークニーに限らずモーアシビから生まれ、育てられたウタは多い。その情景は消えてしまったのにウタが継承されるかどうかは非常に厳しい状況にある。歌い手も高齢化しテクニックの継承や新たな歌詞なども生まれてくることは難しいのだ。
「ウタのゆりかご」のようなモーアシビの情景を浮かび上がらせる今帰仁ミャークニーもまた歌い継いでいけるかどうかの瀬戸際にあると言っても過言ではない。平良正男さんの御子息の平良哲男さんは歌い継いでいかれようとされている。
私も微力ながらそれを応援するとともに広島でも歌っていきたいと思っている。
【このブログが本になりました!】
書籍【たるーの島唄まじめな研究】のご購入はこちら
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。