2006年05月26日
今帰仁ミャークニー 2
今帰仁ミャークニー 2
なきじんみゃーくにー
nakijiN myaakunii
(字 兼次 につたわる唄 )
兼次泉ぬ水や 岳からが湧ちゆら 兼次女童ぬ色き美らさ
かにしがぬみじや だきからがわちゅら かにしみやらびぬいるきちゅらさ
kanishi ga(a) nu miji ya daki kara ga wachura kanishi miyarabi nu iruki churasa
○兼次の井戸の水は 岳から湧いているのだろうか? 兼次の娘の色気の美しいことよ
我肝淋々と干瀬打ちゅる波や 変わて思蔵が名残立ちゅさ
わちむさびさびとぅふぃし'うちゅるなみや かわてぃ'うみんぞがなぐりたちゅさ
wachimu sabisabi tu hwishi 'uchuru nami ya kawati 'umiNzo ga naguri tachusa
○私の心(で)淋しく洲を打つ波は (心)変わった彼女の名残りがたつよ
寄ゆる年戻ち 若くないみそち 六十重にやい 百才御願
ゆゆるとぅしむどぅち わかくないみそち るくじゅかさにやい ひゃくさい'うにげ
yuyuru tushi muduchi wakaku nai misochi rukuju kasaniyai hyakusa 'unige
○寄る年を戻して若くなられて 六十を重ねていき100才をお願い
なきじんみゃーくにー
nakijiN myaakunii
(字 兼次 につたわる唄 )
兼次泉ぬ水や 岳からが湧ちゆら 兼次女童ぬ色き美らさ
かにしがぬみじや だきからがわちゅら かにしみやらびぬいるきちゅらさ
kanishi ga(a) nu miji ya daki kara ga wachura kanishi miyarabi nu iruki churasa
○兼次の井戸の水は 岳から湧いているのだろうか? 兼次の娘の色気の美しいことよ
我肝淋々と干瀬打ちゅる波や 変わて思蔵が名残立ちゅさ
わちむさびさびとぅふぃし'うちゅるなみや かわてぃ'うみんぞがなぐりたちゅさ
wachimu sabisabi tu hwishi 'uchuru nami ya kawati 'umiNzo ga naguri tachusa
○私の心(で)淋しく洲を打つ波は (心)変わった彼女の名残りがたつよ
寄ゆる年戻ち 若くないみそち 六十重にやい 百才御願
ゆゆるとぅしむどぅち わかくないみそち るくじゅかさにやい ひゃくさい'うにげ
yuyuru tushi muduchi wakaku nai misochi rukuju kasaniyai hyakusa 'unige
○寄る年を戻して若くなられて 六十を重ねていき100才をお願い
(諸志に伝わる唄 )
諸喜田泉に待ちゅみ 兼次泉に待ちゅみ なりば諸喜田泉や ましやあらに
しゅきたがにまちゅみかにしがにまちゅみなりばしゅきたがやましや'あらに
shukitaga ni machumi kanishiga ni machumi nariba shukitaga ya mashi ya 'arani
○諸喜田泉で待つか? 兼次泉で待つか? ならば諸喜田泉がましではないか?
里と我が仲や魚と水心 じひん片時ん離りぐりさ
さとぅとぅわがなかや 'いゆとぅみじぐくる じふぃんかたとぅちんはなりぐりさ
satu tu waga naka ya 'iyu tu mijigukuru jihwiN katatuchiN hanari gurisa
○貴方と私の仲は魚と水の心 何があっても片時も離れ難いよ
愛さする間や 夏の水心 ぬちゃと冬水の サン毛立ちゅら
かなさする'うえだやなちぬみじぐくる ぬちゃとぅふゆみじぬ さんもーたちゅら
kanasa suru 'weeda ya nachi nu mijigukuru nucha tu saNmoo tachura
○愛する間は夏の水心 (ぬちゃ 不詳)と冬の水の(サン毛 不詳)立つだろうか
里が手枕に語らたる夜や いちゃし忘りゆが 命の限り
さとぅがてぃまくらにかたらたるゆるや 'いちゃしわしりゆが ぬちぬかじり
satu ga timakura ni katarataru yuru ya 'ichashi washiriyuga nuchi nu kajiri
○彼氏の手枕で語った夜はどうして忘れることができるか 命の限り
女身の慣れの義理恥んしてて 焦がりゆる我肝里や知らん
いぃなぐみぬなれぬじりはじんしてぃてぃ くがりゆるわちむさとぅやしらん
yinagumi nu nare nu jirihajiN sititi kugariyuru wachimu satu ya shiraN
○女身の慣わしの義理や恥も捨てて焦がれている私の心 貴方は知らない
世間や山川の丸木心 危なさやあても渡て行ちゅん
しけややまかわぬまるきぐくる 'あぶなさや'あてぃんわたち'いちゅん
sike ya yamakawa nu maruki guguru 'abunasa ya 'athiN watati 'ichuN
○世界は山川(にかかる)丸木(の橋)のようなもの 危険があっても渡っていく
解説
(語句)
・かにし 兼次 国頭 今帰仁間切
・が 井戸
井戸=かー 連濁で「がー」になり、琉歌字数の関係で「が」となった。
・だき 岳 主として拝所のある山をいう
濁らないで「たき」が普通。
・が 疑問のある語句につく「が」。文末は「a」で終わる推量。
岳から「が」湧ちゅ「ら」→岳から本当に湧いているのだろうか?
・ふぃし 満潮の時は隠れ干潮のとき現れる岩や洲
・みそち なられて
「みせーん」 なさる の連用形
・いゆとぅみじぐくる
魚と水の関係のように、お互いに深い関係にあるもののたとえ
・じふぃん 是非とも→なにがあっても
じふぃ=是非・必ず・きっと + ん=も
(コメント)
前の「今帰仁ミャークニー」に続く。
これらの歌詞は「沖縄北部(やんばる)十二市町村 民謡の旅」(沖縄フェース出版)に収録されているもので、1982年4月17日、今帰仁村役場で行われた 「今帰仁ミャークニー大会」(しまうた文化研究会 今帰仁村老人クラブ連合会主催)から収録されたもの。
前にも書いたが、今帰仁は「ミャークニー」つまり「宮古根」のふるさとと言われている地域。
一部意味が私には今分からないものもあるが、どれをとっても深い人生の啓示、豊かな感性、そして恋心あふれ叙情性にあふれている。
沖縄の歌、ということを忘れて、自分の先輩たちの歌、という感じで小生は読みふけったが、みなさんはどうだろう。
テーマに繰り返し出てくるのは、寄る年、伝わらぬ心 友情、深い愛情。どれでも貫かれているのは、相手への深い思いやりの心。
一度友人に今帰仁ミャークニー大会のビデオを貸していただいて見たが、80過ぎた古老が三線を片手に恋の歌を高らかに歌う。恋する心に年齢は関係ないのか、と思わされる。
どうして、いつから、このような光景は自分達の住む町や国に見られなくなったのだろうか。
諸喜田泉に待ちゅみ 兼次泉に待ちゅみ なりば諸喜田泉や ましやあらに
しゅきたがにまちゅみかにしがにまちゅみなりばしゅきたがやましや'あらに
shukitaga ni machumi kanishiga ni machumi nariba shukitaga ya mashi ya 'arani
○諸喜田泉で待つか? 兼次泉で待つか? ならば諸喜田泉がましではないか?
里と我が仲や魚と水心 じひん片時ん離りぐりさ
さとぅとぅわがなかや 'いゆとぅみじぐくる じふぃんかたとぅちんはなりぐりさ
satu tu waga naka ya 'iyu tu mijigukuru jihwiN katatuchiN hanari gurisa
○貴方と私の仲は魚と水の心 何があっても片時も離れ難いよ
愛さする間や 夏の水心 ぬちゃと冬水の サン毛立ちゅら
かなさする'うえだやなちぬみじぐくる ぬちゃとぅふゆみじぬ さんもーたちゅら
kanasa suru 'weeda ya nachi nu mijigukuru nucha tu saNmoo tachura
○愛する間は夏の水心 (ぬちゃ 不詳)と冬の水の(サン毛 不詳)立つだろうか
里が手枕に語らたる夜や いちゃし忘りゆが 命の限り
さとぅがてぃまくらにかたらたるゆるや 'いちゃしわしりゆが ぬちぬかじり
satu ga timakura ni katarataru yuru ya 'ichashi washiriyuga nuchi nu kajiri
○彼氏の手枕で語った夜はどうして忘れることができるか 命の限り
女身の慣れの義理恥んしてて 焦がりゆる我肝里や知らん
いぃなぐみぬなれぬじりはじんしてぃてぃ くがりゆるわちむさとぅやしらん
yinagumi nu nare nu jirihajiN sititi kugariyuru wachimu satu ya shiraN
○女身の慣わしの義理や恥も捨てて焦がれている私の心 貴方は知らない
世間や山川の丸木心 危なさやあても渡て行ちゅん
しけややまかわぬまるきぐくる 'あぶなさや'あてぃんわたち'いちゅん
sike ya yamakawa nu maruki guguru 'abunasa ya 'athiN watati 'ichuN
○世界は山川(にかかる)丸木(の橋)のようなもの 危険があっても渡っていく
解説
(語句)
・かにし 兼次 国頭 今帰仁間切
・が 井戸
井戸=かー 連濁で「がー」になり、琉歌字数の関係で「が」となった。
・だき 岳 主として拝所のある山をいう
濁らないで「たき」が普通。
・が 疑問のある語句につく「が」。文末は「a」で終わる推量。
岳から「が」湧ちゅ「ら」→岳から本当に湧いているのだろうか?
・ふぃし 満潮の時は隠れ干潮のとき現れる岩や洲
・みそち なられて
「みせーん」 なさる の連用形
・いゆとぅみじぐくる
魚と水の関係のように、お互いに深い関係にあるもののたとえ
・じふぃん 是非とも→なにがあっても
じふぃ=是非・必ず・きっと + ん=も
(コメント)
前の「今帰仁ミャークニー」に続く。
これらの歌詞は「沖縄北部(やんばる)十二市町村 民謡の旅」(沖縄フェース出版)に収録されているもので、1982年4月17日、今帰仁村役場で行われた 「今帰仁ミャークニー大会」(しまうた文化研究会 今帰仁村老人クラブ連合会主催)から収録されたもの。
前にも書いたが、今帰仁は「ミャークニー」つまり「宮古根」のふるさとと言われている地域。
一部意味が私には今分からないものもあるが、どれをとっても深い人生の啓示、豊かな感性、そして恋心あふれ叙情性にあふれている。
沖縄の歌、ということを忘れて、自分の先輩たちの歌、という感じで小生は読みふけったが、みなさんはどうだろう。
テーマに繰り返し出てくるのは、寄る年、伝わらぬ心 友情、深い愛情。どれでも貫かれているのは、相手への深い思いやりの心。
一度友人に今帰仁ミャークニー大会のビデオを貸していただいて見たが、80過ぎた古老が三線を片手に恋の歌を高らかに歌う。恋する心に年齢は関係ないのか、と思わされる。
どうして、いつから、このような光景は自分達の住む町や国に見られなくなったのだろうか。
Posted by たる一 at 15:10│Comments(6)
│な行
この記事へのコメント
>諸喜田泉に待ちゅみ 兼次泉に待ちゅみ なりば諸喜田泉や ましやあらに
この歌詞は今泊では次のようになります。
ジャニ橋に待ちゅみ チュラモー小に待ちゅみ なりばチュラモー小や ましやあらに(今日のデートの待ち合わせどこにする?ジャニ橋にする?チュラモー小にする? できたらチュラモー小が良いなあ)
ジャニ橋はムラ境にある橋で遠いし暗くなると薄気味悪いところ
チュラモー(小さくて気持ちの良い森)小は近いし感じもいいところ
この歌詞は今泊では次のようになります。
ジャニ橋に待ちゅみ チュラモー小に待ちゅみ なりばチュラモー小や ましやあらに(今日のデートの待ち合わせどこにする?ジャニ橋にする?チュラモー小にする? できたらチュラモー小が良いなあ)
ジャニ橋はムラ境にある橋で遠いし暗くなると薄気味悪いところ
チュラモー(小さくて気持ちの良い森)小は近いし感じもいいところ
Posted by at 2006年05月26日 20:17
どなたかわかりませんが、ありがとうございます。
(今泊に詳しいふーちゃんさんかな?)
この歌のパターンは各地でよくあるのですよねえ。
デートの待ち合わせは恋には必需ですから。
しかし携帯電話が普及した今、待ち合わせ場所というのは廃れていくのかも。よけいな話でした。
(今泊に詳しいふーちゃんさんかな?)
この歌のパターンは各地でよくあるのですよねえ。
デートの待ち合わせは恋には必需ですから。
しかし携帯電話が普及した今、待ち合わせ場所というのは廃れていくのかも。よけいな話でした。
Posted by せきひろし(たるー) at 2006年05月27日 10:57
あっ、名前入れ忘れました。(゜◇゜)
ラブホ入るときって自分の生活圏だと知り合いに会ってお互いに気まずい思いをしそうだからちょっと遠いとこ行きますよね? かといってあんまり遠くだと大変だし。
諸志ムラの真ん中でデートすると付き合ってるのがムラ中にばれちゃうし、かといって兼次泉(ハニシガー)まで歩いていくとデートの時間が短くなっちゃうから諸喜田泉(スクージャガー)で待ち合わせしましょう。
というような歌の意味だと思います。
ラブホ入るときって自分の生活圏だと知り合いに会ってお互いに気まずい思いをしそうだからちょっと遠いとこ行きますよね? かといってあんまり遠くだと大変だし。
諸志ムラの真ん中でデートすると付き合ってるのがムラ中にばれちゃうし、かといって兼次泉(ハニシガー)まで歩いていくとデートの時間が短くなっちゃうから諸喜田泉(スクージャガー)で待ち合わせしましょう。
というような歌の意味だと思います。
Posted by ふーちゃん at 2006年05月27日 11:26
ありがとう。
ラブホとこの歌との関係まで言及していただいて、非常によく分かります!
おっしゃるとおりですね。
昔も今も男女のありかたは、さほど変化していない、ということでしょうね。
ラブホとこの歌との関係まで言及していただいて、非常によく分かります!
おっしゃるとおりですね。
昔も今も男女のありかたは、さほど変化していない、ということでしょうね。
Posted by せきひろし(たるー) at 2006年05月27日 19:29
愛さする間や 夏の水心 ぬちゃと冬水の サン毛立ちゅら
↑
訳を考えてみました。
ラブラブな時期は夏の水遊びのような心地良さ
募集しても冬水のサン毛に立つ人がいるだろうか?(いや、水遊びは夏が良い)
↑
訳を考えてみました。
ラブラブな時期は夏の水遊びのような心地良さ
募集しても冬水のサン毛に立つ人がいるだろうか?(いや、水遊びは夏が良い)
Posted by ふーちゃん at 2012年04月23日 02:04
ふーちゃんさん
「募集しても」のところが現実に引き戻されて、面白いと思いました。
「ぬちゃ」は「ぬちゅん」、つまり別れるの意味でしょうね。
つまり、ラブラブの頃はいいけれど
別れると冬の「サン毛」(寒くて立つ鳥肌?)が。。。
くらいでしょう。
「募集しても」のところが現実に引き戻されて、面白いと思いました。
「ぬちゃ」は「ぬちゅん」、つまり別れるの意味でしょうね。
つまり、ラブラブの頃はいいけれど
別れると冬の「サン毛」(寒くて立つ鳥肌?)が。。。
くらいでしょう。
Posted by たる一 at 2012年05月11日 10:02
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