2005年11月26日

南洋小唄

南洋小唄
なんよう こ'うた
nanyoo ko'uta

(作詞作曲 比嘉良順)

一、恋し故郷の親兄弟と別れ(よ) あこがれの南洋渡て来やしが(よ
くいしふるさとぅぬ 'うやちょーでーとぅわかり(よ) 'あくがりぬなんよう わたてぃちゃーしが(よ)(以下「よ」は省略)
kuishi hurusatu nu 'uyachoodee tu wakari yoo 'akugari nu naNyoo watati chaa siga yoo
恋しい故郷の親兄弟と別れて 憧れの南洋(に)渡って来たが
語句・ちゃーしが cyaa siga 「ちゃー」は来る「chuuN」の「来た」の意味。「しが」は「だけども」


二、寝て覚めて朝夕胸内の思いや 男が身の手本なさぬびけい
にてぃんさみてぃ'あさゆーんに'うちぬ'うむいや うぃきがみぬてぃふん なさんびけい
nitisamiti 'asayuu Nni'uchi nu 'umii ya wikiga mii nu tihuN nasaN bikei
寝ても起きても朝夕 胸中の思いは 男(として)の手本をしたいばかりだ
語句・なさんびけいなしたいばかり。 nasaN bikei <なしゅん なる。 未然形なさ + 強調 ん。 「ならんびけい」という歌詞もあり「なりたいばかりだ」。コメントのご指摘も参照。


三、変わるなよ互に 幾里隔めても 文の通わしど 無蔵が情き
かわるなよたげに 'いくりふぃじゃみてぃん ふみぬかゆわしどぅ んぞーがなさき
kawaruna yoo tageni 'ikuri hwijamitiN humi nu kayuwashi du Nzoo ga nasaki
変わるなよ 互いに 幾里離れていても 手紙のやり取りこそ 貴女の情け
語句・ふぃじゃみてぃん 隔てていても。<ふぃじゃみゆん 離れる。 + 強調ん。


四、明けて初春の花咲ちゅる頃に 錦重ねやい福て戻ら
'あきてぃはちはるぬ はなさちゅるくるに にしちかさにやい ふくてぃむどぅら
'akiti hachiharu nu hana sachuru kuru ni nishichi kawaniyai hukuti mudura
明けて初春の花咲く頃に 錦(を)重ねて誇って帰ろう
語句・にしち 錦。「にしき」とも読む。


五、あん言ちょて行ぢゃる人や何がしか 今やサイパンの土となたみ
'あん'いちょてぃ んぢゃるふぃとぅやなにがしか なまやさいぱんぬんちゃとぅなたみ
'aN'ichoti 'Njaru hwitu ya nanigashi ka nama ya saipaN nu Ncha tu natami
そう言って出ていった人はどなただったか 今はサイパンの土となったのか?
語句・んじゃる 出る。<んぢゆん 'NjiyuN 出る ・なにがし 誰か。 nanigashi なにがし 人の名前がわからないとき用いる。 

解説

(語句)
沖縄語とヤマト口も混ざっている。
わりと新しい歌だと思われる。

(コメント)
白雲節とともに私は好きな島唄の中にこの南洋小唄がある。
1939年芝居役者であた比嘉良順の作。

5番の歌詞を知ったのは97年の琉球フェスティバルの知名定男さんの歌で。

沖縄からの世界への移民は多いことで知られるが、本土からの移民政策のうちでもすこし出遅れて、1900年ごろからの移民らしい。南米やハワイ、フィリピン、そして南洋諸島はかなりの方がいかれた。日本政府も移民を推進し、食料事情の悪い地方からはとくに多くの移民があったという。私もブラジルに移民された一世の方とお話したことがあるが、華やかな成功話とは裏腹に荒れた土地での農業の苦労話、強奪や差別、そして戦争中は厳しく弾圧されたという。怒りをもって「棄民」だと言われたのが印象強い。

南洋諸島に移民した半数以上の人は沖縄県民だったという。移民して半世紀もしないうちの太平洋戦争。日本軍と米英軍との激しい交戦に多くの民間人が命を奪われて文字通り土になった。

この歌は、嘉手苅林昌さんのCDではじめて聴いたが、彼も南洋からの帰還兵であるという。三線を持っていった話は有名。林昌さんの歌には5番は聴かれなかったように思う。
確かに4番までと、5番が加わると意味ががらりと変わる。
華やかな移民と、悲惨な戦争の結末。
歌にして、いつまでも語り継がれていくだろう。
いや、語りついで行かなくてはいけないのだ。

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Posted by たる一 at 11:12│Comments(14)な行
この記事へのコメント
この唄を歌って有名にしたのが宜野湾支部の「比嘉盛保先生」

先日、ボランティアで演奏に来てくれて生唄の「南洋小唄」を
聞いた 今回は本人はマンドリンを弾いての演奏
しかし、盛保しんし~のしみじみと優しい声でうたう「南洋小唄」

あの様子が思い浮かび、涙がでそうな感じでした。

ワタシの母も南洋で弟が飛んできた砲弾の破片を受けて
抱かれたまま亡くなった悲しい過去があります。
Posted by MAGI at 2005年11月28日 08:51
MAGIさん、コメントありがとう。
そういう生の歌が聴けること、それこそ沖縄のよさですね。
悲しい体験も大事にしていきたいものです。

南洋小唄を聴くたびに、MAGIさんのお母さんの体験は、私のなかで歌と一緒に伝えられていくでしょう。
いつも、沖縄からのメッセージをありがとう。

比嘉先生の歌もいつか聞きたいものです。
Posted by たるー at 2005年11月28日 22:45
この曲、いいですね、私も たるーさんと同じく白雲節と共に好きな島唄のひとつで、今もカラオケや民謡スナックに行けば必ず歌う曲のひとつです。
歌うときは、いつも自分の故郷のことが頭に浮かびます。
それと、沖縄人以外の人でこの曲が良いと言っておられる(たるーさん)ひとがいることに感動しております。この曲は、工工四は単純ではありますが、郷愁感や哀愁感を出すのにサグを入れながら弾くのは、とても難しいです。
話は変わりますが、3番と4番の間に次の様な歌詞が挿入されることがあります。
「無蔵からぬ手紙 あきりわんかばしゃよ 匂いあるうちに 返事うくらよ」
それでは、またコメント送らせて頂きます。 ゆたしく。
Posted by ウチナー at 2005年12月19日 16:18
ウチナーさん
はじめまして(ですよね?)
ウチナー ムークさんと名前がよく似ているので間違えそうでした。すみません。
三番、四番の間にはツラネがはいり
「我が情こめて持たすこの扇子匂ひさまぬ内に戻てたぼり
」というのが私の師匠の本にあります。
よく似てますね。

ということは作者の唄にプラスアルファでみなさんが自分の思いや想像で歌を加えているのではないでしょうか。
推測です。

またなにかありましたらご示唆ください。
Posted by たるー at 2005年12月19日 23:43
二番の歌詞ですが、作者の比嘉良順は「ならん びけいよ」と歌っています。(昔、こんな歌があった ンナルフォンレコード 25NCD-1003T)
「男身の手本」を「ならん」(そうしなければならない)と「びけい」(ばかり)ではないでしょうか。
「男(として)の手本(には)ならないばかりだ」では意味が全くかわってしまいます。
Posted by 南風原 at 2006年02月16日 15:09
南風原さん、コメントありがとうございます。
ご指摘の点ですが、原作が「ならん」ということですので、それを参考に考えます。

まず、「ならん」の意味が「そうしなければならない」といわれる点、もうすこしご説明いただけたらありがたいです。
動詞の短い活用だけで「・ねばならない」という意味になる例を私の狭い知識の範囲からは見出せないのです。

加えて「ならん」という語を何の活用形とするかが問題になります。
「なゆん(自)nayuN」の否定形は「ならん」
「なしゅん(他)nashuN」のそれは「なさん」となります。
そうすると、どちらの語の活用だとしても否定形に該当します。
それで、私も悩んだのです。
「ウチナーグチ(沖縄語)練習帖」(高良勉著NHK出版)という本の中でも南洋小唄がとりあげられていて、南風原さんと同じような訳をされています。
今手許にないので記憶ですが「手本になる決意」というふうに訳されていたように思います。

手本にならないばかり、と訳したのは、語句の直訳です。意訳にまでは簡単に踏み込まないのが私の約束です。

しかし、それでも、こんな意訳も可能ではないでしょうか。

憧れの南洋に来て毎日ふるさとのことを考えていると男の手本(って何でしょうか、規律正しく立派に働くことでしょうか)がなかなか実行できずに、お酒を飲んだり、たまには泣いたり、そんな情けないときもある。それほど辛いのだ、と。
南風原さん、いかがでしょうか。




別の項目に書きましたが、「ウチナーグチ(沖縄語)練習帖」(高良勉著NHK出版)という本のなかでも
Posted by せきひろし at 2006年02月16日 18:38
「ならん」は大和口ではないでしょうか。

 大辞林 第二版
〔動詞「なる」の未然形「なら」に打ち消しの助動詞「ぬ」の転である「ん」の付いたもの。「ならぬ」よりややくだけた言い方〕いろいろな語に付いて補助動詞的に用いられる。「ならない」に同じ。
「早く行かねば―?ん」「そうしなければ―?んこともある」

「なさん」は沖縄口で、大辞林風に書くと、
〔 動詞「なす」の未然形「なさ」に「ん」が付いたもの〕となります。

私は言語学者ではないので、本当のところはよくわかりません。
ただ比嘉良順の歌には「暗さ」を感じません。四番の歌詞にあるように「錦重にやい 誇て戻ら」と希望の歌に聞こえます。

寝ても覚めても、男の手本となれるようにと(希望で)胸がいっぱいだ。やがて故郷に錦を飾るぞ。

私の意訳はこうなります。

ある人がいいました。
「沖縄の人たちは、いつも虐げられ、苦しめられ、差別され、そして泣いてばかりいました」

私はそうは思いません。沖縄の人たちは虐げられ、苦しめられ、差別されても、明るく歌を忘れずに生きてきたのはないでしょうか。
Posted by 南風原 at 2006年02月16日 23:55
南風原さん
丁寧に調べていただいてありがとうございます。

そうすると、この部分だけヤマト口になりますが、その理由はどうしてなのでしょうか。それが私にはわかりません。

それから、私は決して沖縄の人々が「泣いてばかり」とも、歌をわすれずに明るく生きてきたことを否定する気もありません。
ただ私達は、歌の意味を、その全体のイメージや、こちらの意図、印象で、部分の不明な部分を意訳してしまいがちです。それを避けたいのです。

それで、「なさぬ」というところだけがヤマト口になる点がよく理解できません。

「手本にならないばかりだ」となってもけっして南洋に行かれた人々を蔑んだりすることにもならないとも思います。
しかし、わたしもこの部分は迷いもあるところです。
もう一度検証してみますね。
南風原さん、ありがとうございます。
Posted by せきひろし at 2006年02月17日 06:27
語感として、ですけど。
『男身ぬ手本』に『ならんとするのみだ』という感じだと思います。
否定形で『びけーん』(ほか、限定語)がつくのを、琉球語はどうも
いやがるんじゃないかという気がします。

限られた那覇、名護言葉、宮古言葉を聞いてでの印象ですが。
説得力に欠けますね。
Posted by gabaizu at 2006年02月18日 21:36
gabaizuさんありがとうございます。
確かに辞書にあげられた例文は、ほとんど否定形がありません。
沖縄語辞典の例文
saataa bikeeN namijuN 砂糖ばかりなめる
'ukuwaashi bikeei kadiお菓子ばかり食べて
kdi bikeei uinee wata jaNzuN doo食べてばかりいるとお腹をこわすぞ

琉球語辞典の例文
karazaki bikeen sjee cimu fugan sa から酒ばかりでは物足りないね
caqsa bikeen aibii ga いくつくらいありますか
等など

さて、それでは仮に「びけーん」が否定形を嫌がるとしますと、なさん、は否定形ではなくなり、ウチナーグチで「・・ん」という形、しかも動詞は「なさ」という「a」という母音で終わるために、それは唯一未然形という形になります。
未然形+ん は否定形と沖縄の方は受け取る約束になっています。
すると、そこだけヤマト口になるので南風原さんのいわれることと同じになるわけです。

なぜそこだけヤマト口になるかが問題です。

私はこの歌の解説で「沖縄語とヤマト口も混ざっている。」
と書きました。それは、「あくがり」「はちはる」とこの2語は辞書に載っていないのでそう判断したわけです。

そうなので一部ヤマト口があっても不思議ではありません。
ただし、それはそういう表現が直接ウチナーグチにないからであって、ほかに誤解のしようがないからだと思われます。

ところが、「なさんびけい」「ならんびけい」という部分をヤマト口にすると意味がまったく逆になります。
行くと「行かん」が逆に意味になるように。聞いている沖縄の人が混乱すると思われます。

ヤマト口では、「いざ行かん」というのは「さあ、行こう」いう意味になりますが、それは前後の関係で読み取れるものです。「行かん」だけではヤマト口でも「行かない」なのか「行こう」という意思表示かはわかりません。

一方、ウチナーグチでは未然形(a で終わる動詞の活用形)に「ん」が付くと否定形にしかなりません。
そこだけ、ヤマト語をいれてしまうと、ウチナンチュの聞き手には誤解を生むもとになります。

私にはなぜ作者がそうされたのか理由がわからないのです。
もちろん「ならん」が「ヤマト口」ならの話です。
Posted by せきひろし at 2006年02月18日 23:05
なさん、あるいは ならん

なしゅん、なゆん という動詞の 未然形+ん(強調の「も」)といううけとりもできます。

つまり、なさん=なそう + も 

すると なさんびけい は
なしたいんだと(思う)ばかり

ならんびけい も同じで
なりたいんだと(思う)ばから

より前向きな気持ちが表現されている感じがしますね。

すこしややこしい話ですが

伊波普猷の「琉球戯曲辞典」には
「びけい」は載っていないかわりに
「ばからひ 或は ばかり」という項目で
「かまはない。かまふものか・・・」とあります。

「ばかり」は琉球語辞典によると
「〔未然形+wa-n+~の形で〕(・・する)だけならよいとしても」とあります。
ところが一方 同辞書では
「bikaaN bikee(i) 文語bikei 《助詞》①ば(っ)かり;②ぐらい」と。

このあたりの理解は今後に。
Posted by たるー(せきひろし)たるー(せきひろし) at 2008年07月26日 09:15
「ならんびけい」に関して、南風原さんの意見が正しいようにおもいます。
せっかく、「いざ行かん」の語例があるのですから、「ん」が古語の「む」とおなじ働きをしていることに気づかれてください。
大和の古典文法と沖縄方言が重なるところがあるます。
Posted by 中雅 at 2009年05月23日 21:42
中雅さん

コメントありがとうございます。

すぐ上のコメントで、「なさん」は「なしたい」と取れることを書いたまま
放置しておりました。

「いざ行かん」との文法的な関係は私にはわかりませんが

「なさ」(なしたい)+ん(強調の も)とうけとるほうが自然であるように
感じてきています。

染みなし節「泣かんびけい」は「泣きたいばかり」と訳すように。
Posted by たるー(せきひろし)たるー(せきひろし) at 2009年05月24日 09:00
南洋小唄 加筆訂正しました。
コメントいただいた皆様に感謝します。
Posted by たるー(せきひろし)たるー(せきひろし) at 2009年05月24日 09:11
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