2013年08月31日

恋し鏡地

恋し鏡地
くいし かがんじ
kuishi kagaNji
恋しい鏡地(地名)
語句・かがんぢ 沖縄県国頭郡国頭村鏡地。「はがんぢ」とも。https://goo.gl/maps/MJvnGcfeoeJ2


作詞・作曲/儀保 正輝   


一 奥間森ぬ伊集ぬ木や 花ん咲ちょさ 露かみてぃ ありから幾年なとーがや 見りば思いやまさてぃ 戻てぃ来うよう鏡地に
うくまむいぬ いじゅぬきや はなんさちょさ ちゆかみてぃ ありからいくとぅし なとーがや みりばうむいやまさてぃ むどぅてぃくよ かがんぢに
ukuma mui nu 'iju nu ki ya hanaN sachoosa chiyu kamiti 'arikara 'ikuneN natooga yaa miriba 'umui ya masati muduti kuuyoo kagaNji ni
奥間森のイジュの木は 花も咲いているよ 露をのせて あれから何年になっているかねえ 見ると(あなたへの)想いが強くなり 戻ってきてね鏡地に
語句・うくまむい 鏡地の隣の奥間地区の森。・いじゅ 「伊集」とも書くが、ツバキ科ヒメツバキ属。5月から花が咲く。 沖縄ではよく見られる。「辺野喜節」(びぬちぶし)にも歌われ、「伊集の木の花やあんきょらさ咲きゆり わぬも伊集やとて真白(ましら)咲かな」とあるように白い花が咲く。・かみてぃ <かみゆん (頭などの)上にのせる。・まさてぃ <まさゆん 強くなる。・くーよー <ちゅーん 来る。の命令形 くー。+よー ね。



ニ 畔払ぬあぬ時に 袖にしちゃるあぬ情 ぬんでぃ他人に知らすがよ 夕びん何がやら淋しさぬ 鏡地浜に居ちょたしが
あぶしばれーぬあぬてぅちに すでぃにしちゃる あぬなさき ぬんでぃゆすにしらすがよ ゆーびんぬがやら さびしさぬ かがんぢばまにいちょたしが
'abushi baree nu 'anu tuchi ni sudi ni shicharu 'anu nasaki nuu Ndi yusu ni shirasu ga yoo yuubiN nuugayara sabishisanu kagaNjibama ni 'ichoota shiga
田のお祓いのあの時に 袖に敷いた(腕枕の)あの恋 なんといって他人に語れるか 夕べも何か寂しくて 鏡地浜にたたずんでいたが
語句・あぶしばれー あぶし(田んぼのあぜ)祓い。旧暦の4月の14、15日あたりに行われる害虫駆除の儀礼。・すでぃにしちゃる 袖に敷いた。<すでぃに。袖に。+しちゃる。<しゆん。敷く。過去形で「しちゃ」の連体形で「しちゃる」。「すでぃにすん」には「おろそかにする」【琉球語辞典】と言う意味があるが、「琉歌大観」(島袋盛便)、「琉歌大成」(清水彰)両方には「袖」を「おろそかにする」という意味で使われた琉歌は一句もない。恋が生まれる毛遊びは月夜の晩や年間の各行事が終わってからの夜にもよく行われた。翌日の作業が休みになったからだ。旧暦の4月15日は満月であり、夜も過ごしやすい季節だろう。・ぬんでぃ <ぬー 何。+ んでぃ と言って。 と。



三 確かありや霜月ぬ 月ぬ夜ぬあぶし路 比地橋居とてぃ別りたる 後姿ぬ忘ららん 戻てぃ来うよう 鏡地に
たしかありや しむちちぬ ちちぬゆぬ あぶしみち ふぃじばしうとてぃ わかりたる うしるしがたぬ わしららん むどぅてぃくよーかがんぢに
tashika 'ari ya shimuchichi nu chichi nu yuu nu 'abushi michi hwijibashi utooti wakaritaru 'ushiru shigata nu washiraraN muduti kuu yoo kagaNji ni
確かあれは11月の満月の夜の田んぼの畔道 比地橋で別れた後ろ姿が忘れられない 戻ってきてね鏡地に
語句・しむちち 旧暦の11月。・ふぃじばし 国頭村の奥間の比地川にかかる橋。・うとーてぃ ~で。場所を表す。



四 此ぬ内行逢ゆら んでぃ思てぃ 今日ん友小に 沙汰さしが 今度ぬ十五夜までぃや 恋しあぬ橋渡てぃ 戻てぃ来うよう 鏡地に
くぬうちいちゃゆら んでぃうむてぃ ちゅーんどぅしぐゎーにさたさしが くんどぅじゅーぐやまでぃや くいしあぬはしわたてぃ むどぅてぃくよー かがんぢに
kunu 'uchi 'ichayura 'Ndi 'umuti chuuN dushigwaa ni sata sashiga kuNdu nu juuguya madhi ya kuishi 'anu hashi watati muduti kuu yoo kagaNji ni
近いうちに会えるだろうって思って今日も友達と噂したけど今度の満月の十五夜までには 恋しい思い出のあの橋を渡って戻ってきてね 鏡地に
語句・くぬうち 近いうちに。「このうち」というのは沖縄語独特の表現。本土では「そのうち」だろう。・いちゃゆら <いちゃゆん 出会う。会う。  未然形 いちゃゆら。会うだろう。 ・さたさしが <さた 噂。+さ <しゅん + しが だけども。・じゅーぐや 「満月の夜;(特に)旧暦8月15日の夜、中秋」【琉辞】。


新民謡であり人気も高い「恋し鏡地」を訳してみた。

愛しい彼と別れて彼がこの土地を離れてしまったが、恋しい鏡地に戻ってきてほしい、と願う乙女心をよく歌っている。

琉歌の形式ではない。

恋し鏡地
このCDでは饒辺勝子さんが歌っている。

この歌の歌碑が鏡地にある。
(Google Mapsではhttps://goo.gl/maps/q8r1szpCoUF2



比地川。


現在の比地橋。


(2016年10月28日筆者撮影)

【「袖にしちゃる」を巡って】

この「恋し鏡地」の二番に出てくる「袖にしちゃるあぬ情き」を私は最初、「袖」に込める意味である「相手を振る」「粗末にする」という用法をそのまま当てはめて、「粗末にしたあの人の情け」という訳にしていた。

実際「琉球語辞典」(半田一郎)には「すでぃにすん」は「おろそかにする」とある。

本土でも「袖」には「おろそかにする」や、「袖を分かつ」というように「別れ」の表現に使われることがよくある。そこから私は「粗末にした」と訳した。

ところがこの訳には異議があり、
「二番で別れの話があるのにまた三番で別れの話が出てくるのはおかしい」
「二番は旧暦の4月で、三番は11月だというのは話が合わない」というご意見だ。

またある方から「袖という言葉には、袖と袖を重ねた一夜という後朝(衣衣)の意味が隠されてはいないでしょうか。そう解釈すると、男女の別れの切なさが伝わるような気がします。」というコメントもいただいた。
ちなみに「後朝」、「衣衣」とは「きぬぎぬ」と読む。


【琉歌と「袖」】


それで「袖」が琉歌ではどのように使われているかを調べてみる。

琉歌を2891首を収める「琉歌大観」(島袋盛便)と、5100首を収めた「琉歌大成」(清水彰)で「袖(すでぃ)」が使われている琉歌を全て調べてみた。ちなみに「琉歌大成」には233首に「袖」が使われている。

どちらの本にも「袖すがる」「袖濡らす」「袖揺らす」などなど、多様な表現があったが、「粗末にする」「別れる」という使い方は一句もなかった。むしろ愛情表現として袖を用いる表現が全てだった。「袖」に否定的な意味合いがあっても、それは「袖があの人を思い出させるから」というような使われ方である。

そして「恋し鏡地」の二番に近いと思われる表現の琉歌は数首あった。

「思ひある仲や 野辺の草宿に袖敷きも二人寝らなおきゆめ」
うむいあるなかや ぬびぬくさやどぅに すでぃひ(ふぃ)ちん にらなうちゅみ
愛し合う仲なら 野辺の草むらを宿に袖を敷いて二人で寝らずにおられようか

「袖を敷く」という表現であり、同じ用法ならば二番の「袖にしちゃるあぬ情」が「袖に敷ちゃるあぬ情」と解釈できるかもしれない。つまり「袖枕」という意味である。

「しちゃる」は「しちゅん」(敷く)の活用形で、「敷いておいた」と読める。

男女の毛遊び(モーアシビ)が恋愛に発展するケースは琉球王朝時代から明治期まで続いた。大正期には「風紀を乱す」として取り締まりの対象にまでなった。

それでは「袖にする」(粗末にする)という言葉はいつ頃生まれたものなのか。

琉歌にも大きな影響を与えた和歌を見てみる。1609年の薩摩侵攻以後、琉球王朝の士族は薩摩から和歌を学んでいたからだ。


【和歌と「袖」】

万葉集で「袖」を使った用法を見ると、額田王(7世紀の歌人)は

あかねさす紫野(むらさきの)行き 標野(しめの)行き 野守は見ずや 君が袖振る

(歌意)茜色の紫野を行き、御領地を行く時に番人は見てないか あなたが袖を振るのを



柿本人麻呂(8世紀中頃の歌人)の「袖」を使った和歌。

をとめらが袖ふる山の瑞垣(みづかき)の久しき時ゆ思ひき我は
(歌意)娘達が袖を振る山の石垣のように昔から私もあの人を思ってきた

どちらの句も「袖を振る」ことは愛情のアピールであり、愛情表現であった。

そしてこの時代「袖」を用いる和歌が多く生み出されていく。
今日のような「粗末にする」「相手を振る」という意味(「否定的用法」と呼ぶ)はなく、そのような和歌も見当たらない。

他にも平安時代から鎌倉時代 にかけての貴族らによる古今和歌集、新古今和歌集などの和歌集にも全部を検討したわけではないが否定的用法は見当たらない。

伊勢(9世紀頃の歌人)は「袖」 に「月を宿す」という悲しみを表現する。

あひにあひて物思ふころのわが袖にやどる月さへぬるる顔なる

(歌意)相性がとてもよいあなたの事を想う時の私の袖は(涙で濡れて)月が濡れた顔をして映っている

いくつかの琉歌にも見られる表現だ。

あはれ憂き身の友となる露おきゆる袖に宿るお月
あわりうきみぬ とぅむとぅなるちゆ うちゅるすでぃに やどぅるうちち
(歌意)
かわいそうなことに辛い立場の友となる露(涙)を置いた袖に宿るお月様
(正確には琉歌の形式ではない。七七六六文字。)

【 「袖」の否定的用法と「恋し鏡地」】

それではいつ頃「袖」に「否定的用法」、つまり「粗末にする」「相手を振る」という用法が生まれたのだろうか。

あるサイト(http://style.nikkei.com/article/DGXNASDB05001_V00C13A2000000?channel=DF130120166053&style=1)で江戸時代から大正時代の通用語をまとめた「東京語辞典」(新潮社)の紹介がある。

「ふ・る(振)男女の痴情に言う。芸娼妓などが客の意に従わぬこと。冷ややかにもてなすこと。嫌って袖を振るとの意」

「袖」が否定的に扱われるのは、例えば「舞台の袖」というように端っこ、つまり着物の中心ではないことから。また、袖が「余計なもの」という扱いをされているからだ。

平安時代、鎌倉時代は「袖を振る」というのは主に愛情表現であったのに、江戸時代には「相手を嫌うこと」となるにはどうしてだろうか。

和歌集などで和歌を詠んできた主要な人々は支配階級で生活に余裕があり、比較的自由恋愛が許されていた。それに対し江戸時代には庶民が芸能、ウタ作ることを楽しみ、また一方で貧困にあえぐ農民は身売りして芸妓となり、そこには自由恋愛は許されず、反面「拒否する」表現として「袖」にものを言わせてきた、こう考えるのはいかがだろうか。

ここまで 見てきても「恋し鏡地」の二番が相手を拒否したのか、逆に枕として「袖」を敷いたのか、ということがはっきりと見えてくるわけではない。

しかし江戸時代に生まれた「袖にする」「袖を振る」という否定的用法が琉歌にはあまり影響を与えていなかった、ということは言える。(少なくとも私が調べた二冊の琉歌集には無かった。)

そして「腕枕」という袖の使い方が見られる琉歌

「思ひある仲や 野辺の草宿に袖敷きも二人寝らなおきゆめ」

この用法が「恋し鏡地」に用いられていると見る方が、より鏡地での恋物語を豊かに表現し、逆に三番では「別れ」となっていくことの悲しさ、寂しさを表現しているのではないだろうか。

この歌詞を書かれた儀保 正輝さんはすでにお亡くなりになられているのでご本人に伺うことは無理なのだが。

















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Posted by たる一 at 16:56│Comments(1)か行沖縄本島
この記事へのコメント
袖という言葉には、袖と袖を重ねた一夜という後朝(衣衣)の意味が隠されてはいないでしょうか。そう解釈すると、男女の別れの切なさが伝わるような気がします。
邪道ですが、文献調べが苦手なものですから、歌のストーリから逆に言葉の解釈してみました。確証はありません。
Posted by 具志堅 要具志堅 要 at 2016年11月01日 16:16
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