2017年08月29日

琉球使節の足跡を訪ねる おわり


この絵図を広島県福山市の鞆の浦で見たことが一つのきっかけで始まった「琉球使節の足取りを訪ねて 鹿児島旅」。

琉球館や山川港を訪ねて琉球使節の足跡をたどり、鹿児島市立美術館で色々な情報と資料をいただき、いよいよこの絵図が描かれた川内市に向かいます。

鹿児島に居るのは今日が最終日、ということもあるし、レンタカーは昼までには返さないといけないために、かなり早起きしてチェックアウト。


▲鹿児島市内の市電。少し広島とは趣違いますね。

朝ごはんをゆっくりなんて時間もないので鹿児島市内のコンビニでサンドイッチと飲み物を買って西を目指します。

江戸上り途中の「潮待ち」で琉球使節が福山市鞆の浦に立ち寄り、そのなかの若い楽士「向生」(しょうせい)が病気で亡くなったために立派な墓碑がたてられています。


▲丁寧に葬られた様子が伺えます。

さて、あの白黒の帆掛船の絵図が本当ならこの鞆の浦にも薩摩の船で入港したことになります。

瀬戸内海に薩摩の船団が90艘も浮かび、琉球使節を運んだということです。


▲なんてことを考えつつ、このようなルートで有料自動車道(南九州自動車道)を約1時間ほど走らせますと川内市に着きます。

この鹿児島城下から川内までの琉球使節の足取りも気になります。


川内市(せんだいし)にはあの川内原発があります。この写真は火力発電所。この幅が広い川内川は昔から薩摩藩の軍港でした。


▲古い「水神」碑が川のほとりに。

秀吉の朝鮮出兵(侵略)に参加する薩摩の船団も一万人以上の兵士を乗せて久見崎港(川内川の左岸。つまりこちら側)から出兵しました。

この朝鮮出兵への琉球の貢献度の低さも薩摩藩による琉球侵攻の口実にあげられます。その久見崎港から出港した琉球使節の複雑な思いも察することができます。


歴史も古い軍港、久見崎港には多くの史跡があります。


久見崎港は、昔から薩摩藩の船大工が住み、港には船を製造し、修理するドックのようなもの、などがありました。ここは近年埋め立てられてしまいこの看板だけが掲示されています。


前にも紹介しましたが、戦後発見された「杇木(おうてき)家造船資料」と呼ばれるもの。久見崎で代々薩摩藩の船大工をしてきた家の貴重な資料が残されていたのです。


その資料を分析すると、あの絵図の一艘、一艘の名前、大きさなどがわかり絵図の分析と合わせると


▲琉球使節は、後方の10艘の船に分乗していることがわかりました。


さらに、あの絵図が出港を描いたものならば右に向かって居るので川内川の右岸から描かれたことになります。


▲綺麗な松林から川内河口を眺める。

川内市歴史資料館の館長さんともお電話でお話し聞かせていただきましたが、右岸なのか左岸、つまり久見崎港側からなのかは不明だとのこと。


(Googleの地図に書き込み)

少しまとめてみます。
▲「江戸上り」と言われた琉球から江戸に向かうルートを図解してみました。

「上り口説」(ぬぶいくどぅち)には山川港に入る直前の左手に「開聞岳」、前方に桜島が見えるところまでが歌われています。

初夏の頃に那覇港を出港した琉球船団は真南風(まふぇーかじ)を後ろから受けながら「道の島々」(「上り口説」)を眺めつつ順調に航海を進め、やがて山川港に入り、「船調べ」を受けた琉球船団は鹿児島城下に向かいます。

そこで「琉球船の目印松」を目当てに「行屋の浜」(じゅやぬはま;「下り口説」にあり。)で船を降り、「琉球館」へ。

「行屋」は現在のJR鹿児島駅前あたりになります。



琉球館で二、三ヶ月滞在したでしょうから、この琉球船のすぐ右側にある「芝居小屋」で行われていた「人形浄瑠璃」や「能」などを堪能していたのだろうと思います。彼らはそれも仕事のうちでしたから。大和文化の吸収。

九月に薩摩を出港するために鹿児島城下から、おそらく薩摩藩の護衛や引率の役人、武士らとともに陸路を一日ほどかけて川内、久見崎港まで。まだ暑い時期だったことでしょう。


(沖縄県史ビジュアル版8 近世より)

久見崎からは江戸上りの時期によって停泊する港も変わっているようです。

九州北西部の港伝いに北上した薩摩船団は下関から瀬戸内海へ。瀬戸内海から大坂(現在の大阪)に到着。

そこから淀川を遡上して伏見まで行きました。しかしあの薩摩藩の船団は多くが大型の船であるので川舟に乗り換える必要があるのです。
こんな絵図が巻物として存在していました。


(「中山王来朝図」より)
見えづらいですが上に「賀慶使便乗艇 山口藩」とあります。

正面には「中山王府」「賀慶正使」つまり琉球使節の「正使」が乗っているのです。後ろには山口藩の旗印が見えます。

他にも薩摩藩の船はもちろん廣島藩などの船もあり、それらは帆が無い川舟でした。

こうやって周囲の藩も便乗して琉球使節を江戸に送り出すシステムだったことがわかります。

(「琉球人来朝之図」国立国会図書館蔵)

そして陸路では、薩摩藩からの要請(命令)で中国風の衣装を着けて路地楽(るじがく)を演奏する琉球使節の楽士たち。

薩摩藩は外国、琉球を「従えている」と江戸までの道々で示したかったようです。



このあたりは今回鹿児島への旅で得られたものの範囲を少し超えてしまいましたが、これまでの琉球使節が江戸上りで辿ったルートと、その姿のイメージがはっきりとしてきました。

私なりの薩摩と琉球との関係についてのイメージも固まってきたかのようにも思います。

中国との関係も維持しつつ薩摩藩、幕府の「江戸上り」の要請にも応じ、吸収するものは吸収をする。

「日琉同祖論」を唱えた羽地朝秀や、その後を継いた蔡温などの政治は、強大な薩摩藩の影響を意識しつつ、中国との関係も維して琉球王府の支配を維持しようとしたものでした。

他方で薩摩藩からの重い貢租(琉球の財政の三分の一に匹敵)については人頭税で厳しく先島などから徴収することで乗り切っています。

薩摩との関係は深めざるを得ない舵取りを、積極的にしてきた琉球王府の姿も見て取れます。

一泊二日でまだまだ見ていない部分もたくさんあるようです。
次回もし行けるならもう少し詳しく琉球使節の顔が見えるようにあちこち巡ってみたいと思いました。

最後までお読みくださってありがとうございます。


(鹿児島弁で、よくおいでくださいました!)













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Posted by たる一 at 14:23│Comments(0)島唄コラム
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