2006年01月10日

アッチャメー小

アッチャメー小
'あっちゃーめーぐゎ
'acchamee gwaa

一、(サー)アッチャメ小くまや酒さかなまんでぃ(ヒャー)我ぬんくま居とて遊びぶさぬ
(さー)'あっちゃめーぐゎくまやさきさかなまんでぃ(ひゃー)わぬんくま'うとぅてぃ'あしびぶしゃぬ
(saa)'acchameegwaa kumaya sakisakana mandi (hyaa)wanuN kuma 'ututi 'ashibibushanu 
※括弧は囃子以下略
アッチャメー小(即興的な踊り) ここは酒と肴がたくさんあるので 私はここに居て遊びたいものだ

二、遊ばちん美らさ踊らちん美らさ うりなえる親やゆくに美らさ
'あしばちんちゅらさ うぅどぅらちんちゅらさ 'うりなえる'うやや ゆくんちゅらさ
'ashibachiN churasa wudurachiN churasa 'urinaeru'uwyaya yukuN churasa
遊ばせても美しい 踊らせても美しい 彼を生んだ親はさらに美しい


三、けもりさんてま我が舞らねうちゅみ さらばとん立ちゃいけ舞て見せら
けーもーり さんてーまん わーがもーらね 'うちゅみ さらばとぅんたちゃい けーもーてぃみしら
kee moori saNteemaN waaga moorane 'uchumi saraba tuNtachai kee mooti mishira 
ちょっと踊れと騒いだところで、私が踊らないと居られないだろう
ならばさっと立ち上がって踊ってみせよう


・あっちゃめーぐゎ 三線にあわせて踊る即興的な踊り  
cf. あっちゅん'acchuN①歩くこと②行く③・して暮らす。 
  あっち'acchi 歩くこと 旅行。
  あっちゃー'acchaa 歩く人 旅行する人 
・くま ①ここ②あなたさま
・まんでぃー たくさんあって 
      まんどーんmaNdooN たくさんある


・あしばちん 遊ばせても。
あしば('ashiba <'ashibuN遊ぶ)+ち(chi <しゅんsyuN させる。)+ん(も)

・うぅどぅらちん 踊らせても
上と同じように うぅどぅら(<wuduyuN踊る)+ち(させる)+ん(も)

・ゆくん さらに 
ここの歌詞が「神がやたら」という場合もある。「神であったのか」の意味。



・けーもーり  けー(思い切って・・する)+もーり(踊れ)
  さー踊れ!くらいの意味。
・さんてーまん 
 さん(しゅんshuN する。の過去形)+てーまん(teemaN したところで)
・うちゅみ 居られるか?いられないだろう。の意味。
・とぅん立ちゃい 今にも飛び出しそうな姿勢でぱっと飛び出すこと
・みせら 見せよう。希望を示す。

(コメント)
カチャーシーといえば、この曲といわれるくらい重要な曲。

映画「ナビーの恋」で登川誠仁氏扮するおじいが、ニービチ(niibichi 結婚)の際にお祝いに六線でこれを弾き歌うのはよく知られているだろう。

アッチャメーモーイともいわれるように、昔から沖縄のカチャーシーは、私達本土のものが思うように手の踊りではなく、足、腰の踊りである。
「あっちゃめー」とは、歩く舞い。

よく、カチャーシーというと、あの「こねり手」が重視されるが、手はどちらかというと副次的で、しっかり落とした腰(ガマク)に、裏打ちリズムに乗り切る足の動きが重要だ。
うちなーのおじいのカチャーシーを見ると、手は空手であったり、腰に手をあてたままで踊ったり、下半身で表現している。

この曲で踊るというのは、大和人にはちょっと難しいようである。
唐船ドーイの曲が流れると踊りだす人も、この曲には反応が鈍い。

三線のメロディーはいたって単純。
そこに高低豊かなメロディーが乗せられるが、歌者によってもさまざま。
重いアッチャメー小のあれば、軽いそれもある。

三線でいうと、間奏に八尺、尺六などのセカンドポジション奏法(中、六を人指し指が担当する)が出てくるときがある(登川流など)が、このときの尺は「シ♭」。歌の部分の尺は「シ」ということで、屋慶名クファディーサなどと同じように二つの尺が弾き分けられ、転調する。

上の歌詞以外にもさまざまな歌詞がのる。

アッチャメー小

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Posted by たる一 at 06:01│Comments(8)あ行
この記事へのコメント
初めまして。おじゃまします。
01月06日〈「ば」をめぐって〉のご所見にコメントを入れさせていただきました。よろしければご一読の上ご意見をお聞かせください。
Posted by Hi Shy おじさん at 2006年01月13日 01:28
一言付記させてください。「けーもうり」の「けー」ですが、意味を強める接頭語に当たります。
「けーくるす(こらす・こらしめる)」、「けーぬめー(飲め)」、「けーくるばち(転がして)」という風に使います。「もうり」は「舞う」の命令形で通常は「もうれ」です。「さんてまん」は「してみたところで」で「けーもうりもうりさんてまん」は「舞え舞え、踊れ踊れといったところで・・・」という意訳になるでしょうか。
Posted by Hi Shy at 2006年01月14日 01:09
Hi Shy おじさん、いつもありがとうございます。
「けー」の訳については、こちらの言葉のなにがあてはまるのか悩むところです。

「さんてまん」の訳も悩みます。
唐船ドーイでも「唐船ドーイさんてまん」を「唐船ドーイとしてみたたところで」では苦しいですものね。

今後の研究課題にします。
Posted by たるー at 2006年01月14日 14:02
ところでこの「さんてまん」の「さん」は何から来ていると思われますか?教えていただけると助かります。
Posted by たるー at 2006年01月14日 14:08
「来よぉ、来よぉ、しん来ん(読み・くーよぉくーよぉ、しんくーん)」(直訳・来いよ来いよしても来ない。意訳・来いよ来いよ、と言っても来やしない)
この例に見られるように、「言う」という発語を表現する言葉が「する」という体の動作を表す言葉に取って替えられているのをしばしば目にします。
だから、「唐船どーいさんてぇまん」といった言い回しが「唐船だよーっ、と言って騒いでも」という意味を指示していることをわたしたち沖縄人は体験的に理解できるのです。
さて、「さんてぇまん」についてですが・・・。わたし個人の独善的ナ見解をのべさせていただければ次のようなことです。
「さんてぇまん」は「し(動作を表す動詞)」と「あんてぇまん(あるとてもという意味の言葉)」の合成語。「し・あんてぇまん」がやがて「さんてぇまん」という言い方に変化していったのではないでしょうか。(勝手ながら、長くなりましたのでふたつに分けたいと思います。あとは後段へ)
Posted by Hi Shy at 2006年01月15日 01:21
こうした合成語は今、俄かには思い至りませんが沖縄方言の中にいくらも見出せるものです。
仮に2、3の例を挙げれば、「うちゃんなぎいん」もしくは「うっちゃんなぎいん」は「うち(意味を強調する接頭語)」と「なぎいん(投げる)」の合成して変化した形だと言えるでしょうし、「い・めんしょうり(いらっしゃいませ)」は「いぇんしょうり」という首里の貴族たちの挨拶言葉の前段階の表現ととらえていいもののように思います。
またしても長文になって失礼いたしました。
言語学の基礎知識のかけらも持たない俄か研究者です。いや、研究者とというのは倣岸に過ぎる言い方です。むしろ、推理小説の謎解きをするようにして〈シマコトバ〉の探索を楽しんでいる者の一人です。
ですから、以上の見解を学会の定説や仮説に根拠を置いたもののようにお考えくださらぬよう暮々もお願い申し上げます。
(誤字脱字をお許しください)
Posted by Hi Shy at 2006年01月15日 01:34
Hi Shyさん
いつも丁寧なコメントありがとうございます。
合成語というのは沖縄語にもよくあるようですね。
「さんてーまん」の解説ありがとうございます。
今手許の「うちなあぐち実践読本」(吉屋松金著)をひもといているのですが、そのP349に例文として「主や仕事さあい くたんでぃとおん」(父は仕事してくたびれた)があげてあり、その「さあい」の説明に「し+やあい」というのがありましたが、こういう変化なのでしょうね。

推理小説の謎解きというのはよくわかります。
それはヤマトンチュにとってもわくわくする仕事なのです。
私も言葉の研究とは関係ない人生を送ってきましたが、歌の世界からどうしても言葉の世界に足を踏み入れないといられなくなってしまいました。
私の場合は研究者ということもなく自分の歌理解のためにやっています。
Posted by たるー at 2006年01月15日 07:31
私の沖縄語の師匠胤森さんからこんな話を伺いました。

「『さんてーまん』は3つに分割できる。
『さん』『てーま』『ん』

①さん<しゅんshuN する。の過去形 しゃんshaN
②てーま<たいまtaima ても。 「ai」は長母音化で「ee
」に変化した(逆にいうと子音後の「eeえー」はすべて「aiあい」が変化したもの。)
③ん=も
したがって したとしても となる」
私が悩んでいたのは、この「さん」が首里語では「しゅん」の否定形になることでした。
しかし、「さん」が「しゃん」だったことが分かり雲が晴れたようです。
ただ、まだ残る疑問は、唐船ドーイの訳などで「唐船ドーイとしたところで」と訳していないのはしかたないとしてもいきなり「騒いだ」と訳したものの多さです。
「した」を「言う」くらいに言い換えるなら意訳の範囲としては常識としても「騒ぐ」というのは少し脚色しすぎではないでしょうか。
胤森さんにはこの疑問も伝えてあります。
Posted by たるー at 2006年01月15日 14:36
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