2010年01月06日

赤馬節  2(八重山民謡)

赤馬節
'あか'んまぶし
'aka 'Nma bushï
赤馬の歌

(発音中の「き」「ï」は中舌母音を表す)

[ 歌詞は「八重山島民謡誌」喜舎場永珣著及び「八重山古典民謡工工四上巻」大濱安伴編著から。歌詞の表記は後者を参考にした。 ]


一、赤馬ぬ(ヨ)いらすぃざ(ヒヤルガヒ)足四ちゃぬ(ヨ)どぅくぃにゃふ(ヨ)(ハリヌヒヤルガヒ)
'あか'んまぬ(よ)'いらしざ (ひやるがひ) 'あしゆちゃぬ(よ) どぅきにゃふ(よ)(はりぬひやるがひ)
'aka 'Nma nu (yo) 'irashïza (hiyaruga hi) 'ashï yucha nu (yo) dukï nyahu (yo) (hari nu hiyaruga hi)
赤馬がとても羨ましいことよ!馬があまりにも幸運だ!
語句・いら 「赤馬節 1」を参照。・すざ しざ <すっつぁ。「羨ましいなあ。良いなあ」【石辞】。から来ていると思われる。 ・あしゆちゃ 「馬」の別称。 ・どぅき どき。「あまりに。甚だ。ひどく」【石辞】「赤馬節」を参照。・にゃふ あまりにも幸運。<にゃ<なー さらに。より。+ ふ<ふー 「めぐりあわせ。運、幸運」【石辞】。 ちなみに「八重山島民謡誌」喜舎場永珣著には「にゃく」とあるが、「く」は後に「ふ」に転訛した。「K」が「F」に転訛した例は「子」(八重山 hwaa ← 首里 kwaa)の例がある。


二、生りる甲斐赤馬 産でぃる甲斐足四ちゃ
'んまりるかい'あか'んま すでぃるかい'あしゆちゃ
'Nmariru kai 'aka'Nma sudiru kai 'ashïyucha
生まれた甲斐(がある)赤馬 産まれた甲斐(がある)馬
語句・あしゆちゃ 「馬」の別称。ここでは「赤馬」と対句。


三、沖縄主ん 望まれ 主ぬ前ん 見のうされ
'うきなしゅんぬずまれ しゅぬまいん みのーされ
'ukïna shuN nuzumare shu nu maiN ninoosare
琉球国王が所望され 国王がお気に召され
語句・うきなしゅ 琉球国王。・しゅぬまい 「琉球国王」の別称。対句。
  
四、いらさにしゃ 今日の日 どぅくぃさにしゃ黄金日
五、我ん産でぃる今日だら 羽むいるたきだら
(この四、五については「赤馬節 1」を参照)


六、御主加那志御果報や 御万人ぬすぃでぃがふ
'うしゅがなし みがふや 'うまんちゅぬ しでぃがふ
'ushuganashi migahu ya 'umaNchu nu shïdigahu
琉球国王様の御果報は世間の万人の光栄だ
語句・みがふ ご果報。<み 御。+がふ<かふー 「果報。幸福」【石辞】。・でぃがふ 「栄誉。栄光」【石辞】。<しでぃ は「シゥディルン」(生まれる)の連用形【石辞】。


七、御万人ぬ栄いや 御主加那志御果報
'うまんちゅぬさかいや 'うしゅがなしみがふ
'umaNchu nu sakai ya 'ushuganashi migahu
世間万人の栄えは琉球国王様のご果報だ

前回「赤馬節 1」では一般的に歌われている「赤馬節」の歌詞を取りあげた。
今回は、それをふくめて「赤馬節」として伝えられているものを取り上げた。

前回のものにあたる四番、五番は主に現在舞踊曲として使われている。

「八重山島民謡誌」(喜舎場永珣著)によると、この四番、五番は「赤馬節」の作者大城師番(しばん)の作ではなく、仲間サカイが作った「鷲の鳥」の歌詞の一部であるとされている。

この中で喜舎場永珣氏は、師番が作った歌詞に含まれる「赤馬」や「足四ちゃ」という語句に「死者の屍を収め納れて擔ぐ龕(ガン)の意に通じ、龕は色は朱塗で赤馬の赤に當り足四ちやは龕の足が四本あるから」などと云う理由で後世の八重山音楽家が、この歌詞を避けて「鷲の鳥」の一部をこの曲に載せて唄っているといって厳しく批判している。

さて、同書では師番の作った「赤馬節」として

赤馬ぬいらすざ 
足四ちやぬ どきにゃく
生りる甲斐赤馬
生でる甲斐足四ちや
沖縄主に望まれ
主ぬ前に見のうされ

を紹介し、
「其二 (普通の場合)」では

いらさにしや今日の日
どき さにしや黄金の日
ばんしでる今日だら
羽生いるたきだら
今日祝しゆらば
明日ふくいしゆらば

を紹介している。(この「いらさ・・」から「たきだら」までが鷲の鳥の歌詞)

さらに「其三 旅行の時」、「其四 祝儀の時」も紹介されている。

いずれにしても、さまざまな人々の暮らしの中に、この「赤馬節」が歌詞を変えて
浸透していることを私たちに強く印象付けている。

師番が作った歌詞も、後世の人々が作った歌詞も、
同様に祝儀の目出たい雰囲気をかもし出すものであり、
師番が300年前に作ったという「赤馬節」に載せて今も生き生きと伝えられていることへの
深い敬意を感じるばかりだ。




同じカテゴリー(あ行)の記事
アカバンタ
アカバンタ(2022-09-21 09:31)

浅地紺地
浅地紺地(2020-05-17 10:49)

御年日ぬ唄
御年日ぬ唄(2020-05-10 12:56)

親心
親心(2020-02-05 09:08)

恩納ナビー
恩納ナビー(2019-07-10 07:34)


Posted by たる一 at 09:21│Comments(11)あ行
この記事へのコメント
明けまして おめでとうございます。
ぼくの頭の中も、だいぶ八重山化されてきたみたいです。マイッタ!
「赤馬節」とか「鷲ぬ鳥節」を聞くと、なにか背筋を伸ばさなければいけないような気がします。
特に「赤馬節」は別格ですけど。

今年も大変だとは思いますが、解説を楽しみにしてます。
Posted by コロリ at 2010年01月09日 23:07
コロリさん
今年もよろしくです。
八重山民謡の世界に浸かられているのですね。

ありがとうございます。
Posted by たる-たる- at 2010年01月14日 16:32
今、久高島の祭祀についての本を読んでいます。
死者を運ぶ神輿のようなものを「あかうま」というそうです。
Posted by コロリ at 2010年12月04日 16:59
今、久高島の祭祀についての「日本人の魂の原郷 沖縄久高島」を読んでます。
そこには死者を運ぶ、4本の担ぎ棒のついた神輿のようなものを「あかうま」と言うそうで、写真付きで紹介されてました。
たるーさんのところに何かかいてあったなあと思い出しました。
Posted by コロリ at 2010年12月04日 17:05
コロリさん
おひさしぶりです。

その本は読みました。

また沖縄の各地に、昔棺おけを運ぶもの(龕;がん)を「あかうま」と呼んでいたという話があります。

そのことを喜舎場永珣氏は指摘されているようです。
Posted by たるー at 2010年12月11日 08:01
それは考え過ぎです、大城師番の赤馬は実は首里から大陸へ兵馬として輸出される為に寄せられた、との歴史的考察との照合により解明されています。
赤い馬は高値で王府が破格の高値で買い取り活動をしていました、これは中国の「馬相学」に基づきます。宮古の「なりやまあやぐ」も本来「馬ぬ美さや赤さどぅ美さ」と唄われていました。しかしこれは良い赤馬は首里に送る為に役人に半ば接収され、後に対価が払われたそうですが「白さどぅ美さ」と古堅宗雄先生が改作したのは「白馬のイメージのほうが現代的には美しい」と言う意味と、役人は中国に売れない白馬を嫌っていたため、「白馬こそ役人に取られない良い馬」との観点からだそうです。ちなみに中国の「馬相学」では白馬は実戦では敵に見付かり易い「悪馬」とされていましたから当然ですが。
もう少し多角的に琉球の歴史を学ばれる事をおすすめします。
Posted by くがなー at 2011年03月17日 06:43
>もう少し多角的に琉球の歴史を学ばれる事をおすすめします。

くがなーさん

ご指摘ありがとうございます。私は不勉強であり未熟者ですので、いろいろ教えてくださると助かります。

赤馬自体が貴重であったために首里王府によって「献上を申しつけ」られたという点は「赤馬節 1」のほうで書いております。

また「なりやまあやぐ」の元歌には「馬の美さや赤馬どぅ美さ」という歌詞があり、昔から赤馬が貴重であったこともうかがわせます。

ここで問題になっているのは、その点よりも「赤馬節」に「鷲の鳥節」の一部が使われて本来の大城師番が作った歌詞が歌われていないということを喜舎場永珣氏が指摘していることです。

この理由とわれている「死者を運ぶ龕」が「あかうま」と呼ばれているから、というのは、それが正しいかどうかは私には判断することはできません。
Posted by たる一たる一 at 2011年04月04日 19:29
いやいや『鷲ぬ鳥節』は節歌化した後の士族による組み立て歌詞ですからかなり用途別や時代により歌詞が変化しています。むしろ4、5番は『鷲ぬ鳥節』の明治中期くらいの記録上に替え歌としてあるのを指摘されているのではありませんか?喜舎場先生は八重山士族の節歌はスペシャリストでしたがいわゆる一般農民の『民謡』はほぼ無知だと故糸洌長良先生など多数から指摘されるように『鷲ユンタ』そのものを知らないとしか思えない内容の記述となっています、また師番は三線は弾けない人間で、素唄で『赤馬節』を歌っていたようです。
ですから近現代節歌解釈しても無駄な部分はだいぶ見えてしまうんですよ、特に喜舎場盲信学者の方々の記載の書物では、また喜舎場解釈は農民などの民間から出た古謡までも首里解釈する癖が見受けられます。ですから仲宗根長一先生は白保の民謡軸解釈に訂正した民謡集を出版されましたし、糸洌長良先生は歌の発生場所の古謡軸解釈での楽譜を作成されています。
あまり喜舎場永(王旬)先生軸での古い八重山士族的観点の解釈ばかりに依存するのはあまりよろしく無いかと思いますね。
Posted by くがなー at 2011年07月10日 14:36
遅くなりましたが追記です。
あの問題視されているのは「替え歌が気に入らない」との趣旨でしょうか?
ならば崎山三郎先生が工工四として出版していますが、「八重山の舞踊曲」を学ばれたらどうでしょうか?
現在歌われている八重山の節歌の多数に「舞踊の歌詞の固定化」が見受けられるのは良くお分かりかと思うのですが、多数の替え歌が時代を選ばず行われており、また違う集落の物は中心だった集落の事情により言葉遣いの訂正から根本的な替え歌など多数あります。「石垣村古謡集」「登野城村古謡集」「竹富町古謡集め1~4」などを参考になされる方がより八重山の「ウタ」の原形が見えますよ、また安室流協和会の新井勝己先生(石垣市登野城)が個人的に出版なされた八重山節歌の作者と時代背景を出来るだけ詳細に纏めた小冊子があります。
参考になされたら良いかと思います。
Posted by くがなー at 2011年11月11日 13:51
くがなーさん
返事が遅くなって大変失礼しました。

私の八重山民謡への勉強が非常に足らないことを自覚しながら、資料集めもできずにそのままになっておりました。くがなーさんのご研究、ご指摘については今後も参考にさせていただき、ご紹介された本や資料なども機会があれば手にして調べてみたいと思っています。

実際私の手元にある限り有る資料だけで、歌詞を解釈しております。コメントでは背景にすこしでも自分の理解を深めたいという思いで感想を述べています。

その資料の中に喜舎場先生の本が一冊だけあり、この赤馬節の解説をここで紹介させていただいたわけです。

>喜舎場永(王旬)先生軸での古い八重山士族的観点の解釈ばかりに依存するのはあまりよろしく無いかと思いますね。

ごもっともなご意見だと拝聴したしました。

唄の背景や解説に関しては、そうしたご意見を寄せていただけるのはおおいに感謝しております。

あくまでもこのブログは、自分の手元にある資料、辞書に依拠して唄の「直訳」を試みるというのが主眼におかれたものです。

背景の理解や、そこから歌詞の解釈を「意訳」するという方面ではより専門の方々の研究やご意見に依存したいと思っています。そういう力が私にあるとは思えないからです。また、唄を勉強したいと思う人が増えても、唄の意味を捉える道筋をしめしたものがあまりないように思っています。愚直にこれからも自分の知りたい歌の意味を自分なりの方法で勉強しつつ、このブログでご紹介させていただけたらありがたいと思うばかりです。

今後ともいろいろご意見を寄せていただけたらありがたいと思っています。
Posted by たる一たる一 at 2011年11月18日 19:27
しかしひとこと八重山の葬儀に関してですが、八重山では死者を祝う風習自体が古来より存在しないかと思われます。
酒井正子氏「哭きうたの文化」に宮古から与那国までと奄美に於ける葬祭文化を詳細に書かれています、私は良く酒井正子氏がここまで遺族に受け入れられたなぁと思う程に感心しました。
八重山で死者を祝うのは三十三年忌の祭り上げくらいです、亡きがらがあるうちは歎き、服喪し断絃、歌舞禁止する風習すらあります。
とてもそのような粗雑な祝いや表現を持って死者を葬るようなやり方は為さないと思われますが。
古来の土着信仰の方ならばですが。
Posted by くがなー at 2011年11月23日 23:25
※このブログではブログの持ち主が承認した後、コメントが反映される設定です。
 
<ご注意>
書き込まれた内容は公開され、ブログの持ち主だけが削除できます。