2008年02月16日
早作田節
早作田節はいちくてん ぶし
haichikuteN bushi
(本歌)
春や花盛り深山鶯の匂しのでほける 声のしほらしや
はるやはなざかい みやま'うぐいしぬ にうぃ しぬでぃふきる くいぬしゅらしゃ
haru ya hanazakai miyama 'uguishi nu niwi shinudi hukiru kui nu shurasha
○春は花盛り 深山(の)ウグイスが(花の)匂いしのんでさえずる声のかわいらしいことよ!
語句・しぬでぃ 「?忍ぶ 耐える?(人目を避けて恋人に)会いに行く」(琉)<しぬぶん しのぶ。 よく琉歌に使われる語句だが、ここではヤマト口の「偲ぶ」(懐かしむ、好む)の意味。 ・ふきる (鳥などが)さえずる <ふきゆん ・しゅらしゃ かわいらしいことよ! <しゅーらーしゃん 文語では しゅらしゃん しゅらさん とも発音する。 愛しい人を意味する「しゅら」や囃子言葉の元でもある。体言止めで「なんと・・ことよ!」となる。
(舞踊 むんじゅる)
若さひと時の通い路のそらや 闇のさくひらもくるまとばる
わかさふぃとぅとぅちぬ かゆいじぬすらや やみぬさくふぃらん くるまとーばる
wakasa hwitutuchi nu kayuiji nu sura ya yami nu sakuhwiraN kuruma toobaru
○若い時の(恋人への)通い路の身空は 闇のきつい坂も車(を置けるほどの)平坦地
語句・すら 身空。 天空の「空」ではなく「若い身空で」という場合のそれ。身の上、境遇という意味がある。・さくひら 急な坂 「【伊波普猷は“saka[坂]+fira”の転としたが、saku[谷間]+fira[上り坂]であろう】」(琉) ・くるま 車。ただしこの歌ができたと思われる琉球王朝時代に人力車も自転車も、ましてや自動車もなかっただろう。沖縄語辞典によると、昔「くるま」といえば「砂糖車」であった。「(製糖工場の屋外に設置し牛を使って回転させた)甘蔗圧搾車。」(琉) ちなみに「西武門節」の「車乗てぃ」は「人力車」。・とーばる 平野 「くるまとーばる」とは「甘蔗圧搾車をすえるのに適した平坦な地」(琉)ということ。
夏や山川の流れ水たゆて 押し連れて互げに涼みぶしやぬ
なちややまかわぬながりみじたゆてぃ 'うしちりてぃたげにしだみぶしゃぬ
nchi ya yamkawa nu nagarimiji tayuti 'ushichiriti tage ni shidamibushanu
○夏は山川の流れる水(を)頼って (人を)連れて互いに涼みたくて(たまらない)
語句・みじ 水 発音は「みじ miji 」「みずぃ mizi 」どちらでもよい。士族男子は右の発音を教育で教え込まれた。教本などには「みづぃ」と書かれている。・しだみぶしゃぬ 涼みたくてたまらない <しだぬん 涼む +ぶしゃん 形容詞の原因形「・・ぬ」→・・ので(あちさぬ 暑いので)。
馬山川におりて髪洗れなづき 里と約束のあてど行ちゅる
ばじゃんがーに'うりてぃ からじ'あれなじき さとぅとぅやくしくぬ'あてぃどぅ'いちゅる
bajaNgaa ni 'uriti karaji 'are najiki satu tu yakushiku nu 'ati du 'ichuru
○ばじゃん井戸に下りて髪の毛を洗うのは口実 貴方と約束があるからこそ行く
語句・ばじゃんがー 八重山民謡の「真謝川」からきた名前で、本島では「馬山川」という名前の芝居で親しまれている。「真謝川」参照 「かー」は「井戸」のこと。
銀臼なかへ黄金ぢく立てて ためしすりましゅる雪の真米
なんじゃ'うしなかいくがにじくたてぃてぃ たみししりましゅる ゆちぬまぐみ
naNja 'ushi nakai kugani jiku tatiti tamishi shiri mashuru yuchi nu magumi
○銀の臼に黄金の軸(きね)を立てて 試しすり(精米)増していく雪のような真米
語句・稲しり節参照 ・うし 臼 <'うーし 'uushi
haichikuteN bushi
(本歌)
春や花盛り深山鶯の匂しのでほける 声のしほらしや
はるやはなざかい みやま'うぐいしぬ にうぃ しぬでぃふきる くいぬしゅらしゃ
haru ya hanazakai miyama 'uguishi nu niwi shinudi hukiru kui nu shurasha
○春は花盛り 深山(の)ウグイスが(花の)匂いしのんでさえずる声のかわいらしいことよ!
語句・しぬでぃ 「?忍ぶ 耐える?(人目を避けて恋人に)会いに行く」(琉)<しぬぶん しのぶ。 よく琉歌に使われる語句だが、ここではヤマト口の「偲ぶ」(懐かしむ、好む)の意味。 ・ふきる (鳥などが)さえずる <ふきゆん ・しゅらしゃ かわいらしいことよ! <しゅーらーしゃん 文語では しゅらしゃん しゅらさん とも発音する。 愛しい人を意味する「しゅら」や囃子言葉の元でもある。体言止めで「なんと・・ことよ!」となる。
(舞踊 むんじゅる)
若さひと時の通い路のそらや 闇のさくひらもくるまとばる
わかさふぃとぅとぅちぬ かゆいじぬすらや やみぬさくふぃらん くるまとーばる
wakasa hwitutuchi nu kayuiji nu sura ya yami nu sakuhwiraN kuruma toobaru
○若い時の(恋人への)通い路の身空は 闇のきつい坂も車(を置けるほどの)平坦地
語句・すら 身空。 天空の「空」ではなく「若い身空で」という場合のそれ。身の上、境遇という意味がある。・さくひら 急な坂 「【伊波普猷は“saka[坂]+fira”の転としたが、saku[谷間]+fira[上り坂]であろう】」(琉) ・くるま 車。ただしこの歌ができたと思われる琉球王朝時代に人力車も自転車も、ましてや自動車もなかっただろう。沖縄語辞典によると、昔「くるま」といえば「砂糖車」であった。「(製糖工場の屋外に設置し牛を使って回転させた)甘蔗圧搾車。」(琉) ちなみに「西武門節」の「車乗てぃ」は「人力車」。・とーばる 平野 「くるまとーばる」とは「甘蔗圧搾車をすえるのに適した平坦な地」(琉)ということ。
夏や山川の流れ水たゆて 押し連れて互げに涼みぶしやぬ
なちややまかわぬながりみじたゆてぃ 'うしちりてぃたげにしだみぶしゃぬ
nchi ya yamkawa nu nagarimiji tayuti 'ushichiriti tage ni shidamibushanu
○夏は山川の流れる水(を)頼って (人を)連れて互いに涼みたくて(たまらない)
語句・みじ 水 発音は「みじ miji 」「みずぃ mizi 」どちらでもよい。士族男子は右の発音を教育で教え込まれた。教本などには「みづぃ」と書かれている。・しだみぶしゃぬ 涼みたくてたまらない <しだぬん 涼む +ぶしゃん 形容詞の原因形「・・ぬ」→・・ので(あちさぬ 暑いので)。
馬山川におりて髪洗れなづき 里と約束のあてど行ちゅる
ばじゃんがーに'うりてぃ からじ'あれなじき さとぅとぅやくしくぬ'あてぃどぅ'いちゅる
bajaNgaa ni 'uriti karaji 'are najiki satu tu yakushiku nu 'ati du 'ichuru
○ばじゃん井戸に下りて髪の毛を洗うのは口実 貴方と約束があるからこそ行く
語句・ばじゃんがー 八重山民謡の「真謝川」からきた名前で、本島では「馬山川」という名前の芝居で親しまれている。「真謝川」参照 「かー」は「井戸」のこと。
銀臼なかへ黄金ぢく立てて ためしすりましゅる雪の真米
なんじゃ'うしなかいくがにじくたてぃてぃ たみししりましゅる ゆちぬまぐみ
naNja 'ushi nakai kugani jiku tatiti tamishi shiri mashuru yuchi nu magumi
○銀の臼に黄金の軸(きね)を立てて 試しすり(精米)増していく雪のような真米
語句・稲しり節参照 ・うし 臼 <'うーし 'uushi
舞踊の「むんじゅるー」を取り上げていく。
上の歌詞は本歌(代表的な歌詞)と、よく舞踊で使われる歌詞をあげた。
雑踊り(zoo udui)のひとつで1894、95年頃つくられたという(「琉球舞踊入門」宜保栄次郎)。
同本によると、当時の芝居小屋で、地謡が粟国島の民謡を習ってきたものに踊りをつけたのが最初だという。
最初は
出羽('Njihwaa) 「早作田節」
中踊り(naka udui,またはnakahwaaとも)「むんじゅる節」
入羽('irihwaa) 「芋の葉節」
だったものが その後
「月の夜節」か「赤山節」が加わり、これが入羽に変わっていった。
「作田節」の名前がつくものはこの「早作田節」以外に「作田節」「中作田節」「揚作田節」「伊集作田節」などがあり、多く舞踊につかわれるのはその軽快なリズムからだろう。
「早作田節」は雑踊り以外に組踊りの「銘苅子」「手水の縁」につかわれている。
さて、この早作田節や作田節などは「三線音楽の始祖」赤犬子('aka'iNku)の作だという言い伝えがある。
読谷村の赤犬子の碑に行かれた人は次の句をご存知だろう。
「歌と三味線の昔始まりや犬子音東の神の御作」
「'うたとぅさんしんぬ'んかしはじまりやいぬくにあがりぬかみぬみさく」
('uta tu saNsiN nu 'Nkashi hajimari ya 'iNku ni'agai nu kami nu misaku)という言葉が残っていることから
そう言い継がれているのだが、「赤犬子」は想像上の人物だったという見解もある。
古典の系譜ではもっとも古い堪水流には作田節、下作田節、音里節、謝武名節、諸屯節、揚作田節、曉節がある。
屋嘉比工工四が書かれたのは18世紀だが堪水流の始祖堪水親方は1623−1683年だから、こちらが古い。
ところで、この「早作田節」。「多幸山」の歌持ちとよく似ているといわれる。
早作田節 工 老 四 老'(尺')工 老 四
多幸山 老 尺 工 上 老 尺 合 上
こうやって並べると似て非なるものに見えるが、音階的には純粋な沖縄音階合老四上尺工(ドミファソシド)の組み合わせ。
これも言い伝えだが「赤犬子が雨音を聞きながら作曲した」を信じるのもロマンチックでよいかもしれない。
確かに、工老四 が 雨が葉っぱに落ちて鳴らす音だと想像すると楽しくなる。
歌の節は、三線に比べてすこし難解だが、微妙な声の上げ下げ、大胆な上下と心をつかみゆさぶるものがあるのは確かである。
上の歌詞は本歌(代表的な歌詞)と、よく舞踊で使われる歌詞をあげた。
雑踊り(zoo udui)のひとつで1894、95年頃つくられたという(「琉球舞踊入門」宜保栄次郎)。
同本によると、当時の芝居小屋で、地謡が粟国島の民謡を習ってきたものに踊りをつけたのが最初だという。
最初は
出羽('Njihwaa) 「早作田節」
中踊り(naka udui,またはnakahwaaとも)「むんじゅる節」
入羽('irihwaa) 「芋の葉節」
だったものが その後
「月の夜節」か「赤山節」が加わり、これが入羽に変わっていった。
「作田節」の名前がつくものはこの「早作田節」以外に「作田節」「中作田節」「揚作田節」「伊集作田節」などがあり、多く舞踊につかわれるのはその軽快なリズムからだろう。
「早作田節」は雑踊り以外に組踊りの「銘苅子」「手水の縁」につかわれている。
さて、この早作田節や作田節などは「三線音楽の始祖」赤犬子('aka'iNku)の作だという言い伝えがある。
読谷村の赤犬子の碑に行かれた人は次の句をご存知だろう。
「歌と三味線の昔始まりや犬子音東の神の御作」
「'うたとぅさんしんぬ'んかしはじまりやいぬくにあがりぬかみぬみさく」
('uta tu saNsiN nu 'Nkashi hajimari ya 'iNku ni'agai nu kami nu misaku)という言葉が残っていることから
そう言い継がれているのだが、「赤犬子」は想像上の人物だったという見解もある。
古典の系譜ではもっとも古い堪水流には作田節、下作田節、音里節、謝武名節、諸屯節、揚作田節、曉節がある。
屋嘉比工工四が書かれたのは18世紀だが堪水流の始祖堪水親方は1623−1683年だから、こちらが古い。
ところで、この「早作田節」。「多幸山」の歌持ちとよく似ているといわれる。
早作田節 工 老 四 老'(尺')工 老 四
多幸山 老 尺 工 上 老 尺 合 上
こうやって並べると似て非なるものに見えるが、音階的には純粋な沖縄音階合老四上尺工(ドミファソシド)の組み合わせ。
これも言い伝えだが「赤犬子が雨音を聞きながら作曲した」を信じるのもロマンチックでよいかもしれない。
確かに、工老四 が 雨が葉っぱに落ちて鳴らす音だと想像すると楽しくなる。
歌の節は、三線に比べてすこし難解だが、微妙な声の上げ下げ、大胆な上下と心をつかみゆさぶるものがあるのは確かである。
Posted by たる一 at 11:06│Comments(3)
│は行
この記事へのコメント
これまた似た歌詞が奄美のシマ唄にあります。
長雲節というのですが、”大変な坂だけど、彼女に会いにいくのなら車が通るような平坦な道のようだ”という内容です。
↓に書いてみました。
http://shimauta.amami2.com/?eid=479223
奄美のシマ唄ブログもやっていまして、ちょっと更新が滞っていたのですが、おかげで更新しようという気になれました。
これからもよろしくお願いします。
長雲節というのですが、”大変な坂だけど、彼女に会いにいくのなら車が通るような平坦な道のようだ”という内容です。
↓に書いてみました。
http://shimauta.amami2.com/?eid=479223
奄美のシマ唄ブログもやっていまして、ちょっと更新が滞っていたのですが、おかげで更新しようという気になれました。
これからもよろしくお願いします。
Posted by mizuma at 2008年02月17日 18:27
mizumaさん
ありがたい情報です。おもしろいですね。blogも拝見しました。またゆっくりコメントさせてくださいね。
ありがとうございます。
ありがたい情報です。おもしろいですね。blogも拝見しました。またゆっくりコメントさせてくださいね。
ありがとうございます。
Posted by たるー at 2008年02月18日 15:17
多幸山は本来読谷村では早作田小と呼ばれていました。これは師匠津波恒徳が親師匠の津波恒清などから伝え聞いていたもので、戦後に故喜納昌永先生と登川誠仁先生と三名で民謡グループ通称「三羽ガラス」時代には皆さんに教えたそうです。
更にこの早作田小の元唄は歌唱のみが連続した物語形式100番近く遺されていた伊江島民謡の「伊江早作田節」の後半の抜粋であり、最近伊江村教育委員会などの作業により復元され、国立劇場おきなわで発表されましたね。
面白い話です。
更にこの早作田小の元唄は歌唱のみが連続した物語形式100番近く遺されていた伊江島民謡の「伊江早作田節」の後半の抜粋であり、最近伊江村教育委員会などの作業により復元され、国立劇場おきなわで発表されましたね。
面白い話です。
Posted by くがなー at 2011年03月07日 05:14
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