2019年07月08日

那覇散歩 余談 「仲島の大石の説明板」

那覇散歩の途中で立ち寄った「仲島の大石」の記事を覚えていらっしゃるだろうか。

6月14日に書いているが、仲島の大石の説明板がほぼ人から見えない場所になっている、と指摘したのだった。少しだけ再掲する。



この解説板は、バスセンターが建て替えられてからわかりにくい場所になってしまっている。説明板は元からあった場所である。昔のバスセンターでは、通路からよく見える場所だった。しかし今は花壇によって人はそこまで行けないようになっている。植えられた草花をかき分けて、ここまで見に来る方はまず居ないだろう。そもそも見えないのだから地元の方もあまり知らないのではないか?私も教えて頂いて知った。とても残念な事である。」

実は5月30日に仲島あたりを散歩し、大石の写真をFacebookにアップロードしたところ、関東に住むfacebookの友人から「説明板があるらしい」と教えもらった。

そこで6月3日にもう一度大石の場所に立ち寄って、久しぶりにその説明板を見たのだった。その頃は通路側に説明板があった。

とにかくわかりにくいところに「隠してある」(?)という印象だった。その時の気持ちを書いたのが上の文章である。

それを見たFacebookの友人たちが、沖縄の新聞社に知らせてくれたりした。


すると

「バスターミナルの大岩は何? 昔、周辺は海岸だった 最近は「パワースポット」と評判も 」
という記事が出た。(クリックすると記事に飛びます)

(琉球新報の記事より)


記事の要旨はこうだ。

・記者が仲島の大石に行ってみると、説明板が見えにくいところにあった。大石はネットなどでもパワースポットと言われている。

・説明板はなぜ隠れたか。

・那覇市に問い合わせると、再開発前は「通り沿いで見やすい位置にあった」(担当者)。再開発で塀が設置され「裏側」になったという。市にも問い合わせがあり、旭橋都市再開発と調整し説明板を見やすい場所に移すか、新設するか検討していたが…。

・情報提供から約3週間後の24日、「説明板ができている」という情報が新聞社にあった。

・市文化財課によると21日に設置したという。

・市は説明板の新設を決定しており、完成まで数カ月の「仮設」措置という。説明板を手作りした同課の長嶺盛孝さんは「設置から30年経過するので、文言も見直したい」と語る。隠れたことでより神秘性が高まったかもしれない仲島の大石。どんな説明文が加わるかも期待される。
 
要旨は以上。琉球新報の記者が「説明板」が見えにくい事に気付き、見えにくいところにあること、また説明板が見えやすいところに仮設されてから見に行き、那覇市に問い合わせている。それは有難いことだ。

ちなみに琉球新報社と仲島の大石は歩いて5分もかからない。

ただ、残念なことは「仲島の遊郭」のことについて記事は一言も触れていないことだ。

説明板の中身は当然「遊郭」について触れている。
説明板がすぐに見えやすいところに移設されなかった遠因に、この「遊郭」という説明があったのではないか、と私は推測する。「遊郭」は「歴史的な汚点である」そんな意識が働くのではないだろうか。新聞社も同じような心理で記事を書かれているのではないか、とまで感じるほど一言も説明板の中身に触れていない。

沖縄の新聞社として、きちんとした取材と勉強、そして継続しての取材をお願いしたいものだ。


そして最後に、他にも説明板が消えた場所がある。
首里の大村御殿の「耳切坊主」のそれである。

ウタの痕跡が消えていく、人の手で。
それが悲しい。


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Posted by たる一 at 05:50Comments(0)島唄コラム沖縄本島

2019年07月08日

那覇散歩 その3 〈渡地〉

渡地と民謡

先月沖縄を訪れた際に那覇、壺川に宿を取り、ぶらぶらと仲島、辻と歩いた話の続きを書いている。
遊郭の歴史と民謡、ウタが密接な関係にあったということも見た。

那覇にあった主要な遊郭は辻、仲島、渡地の三つ。
その「渡地」(わたんじ)にも行きたいのはヤマヤマだが、その街は現存しない。

人気のある民謡には登場する。

「三村踊り節」

♪辻仲島と渡地と三村
三村の尾類小達がすりとーて客待ち話 
美ら二才からはい行ちゃらなや♪


(たるー訳)
辻、仲島、渡地という三つの村 
三つの村の女郎達が揃って客を待ちながらの話 
イケメンの青年に早く会いたいな

他にも「海のチンボラー」などにも出てくる。
では遊郭があったその「渡地」とはどのあたりだったのだろう。昔の地図を見てみよう。



▲ 赤く囲ったあたりが渡地だった。その少し右に仲島遊郭と書かれている。

ゆいレール「壺川」の駅の前にかかる「北明治橋」のたもとに「奥武山の歴史をみまもる 明治橋の移り変わり」という説明碑がある。

その中の写真。明治初期の地図とあり、まだ那覇と対岸(垣花町)には橋がなかった頃だ。

渡地には二本橋が書かれているが、その昔は渡し船で渡ったという。そして、対岸の垣花町にも渡し船で渡った。それが地名「渡地」の由来だという。

現在のどの辺りになるのか。



グーグルマップを見ると上の地図にもあるが「在番奉行所」(琉球時代の薩摩藩の役 役場)の跡との位置関係から比較してみると、だいたい赤く囲んだあたりとなるだろう。住所でいうと西町一丁目と通堂町一丁目、沖縄製粉付近になるのではないか。

ちょうど那覇ふ頭船客待合所の建物の少し東側になる。

渡地の周辺

その那覇ふ頭船客待合所に行ってみる。


▲対岸には御物城(オモノグスク、読み方はウムヌグシク)がある。


▲琉球王朝時代の宝物庫。中国、東南アジアと交易が盛んだった頃に入手した宝物が収められていた。テレビの「ブラタモリ」でも取り上げられ、白磁の割れた陶器が散乱している様子も放映された。こうした歴史的建造物も米軍基地の中にある。

先程も取り上げた北明治橋たもとの説明板「奥武山の歴史をみまもる 明治橋の移り変わり」に渡地と御物城が描かれた絵があった。

▲今の明治橋は昔からあったのではなく、最初は渡地から垣花町(市街地から那覇空港に向かう道路のあたり)に橋が架けられていて、それが明治橋と名付けられていた。まだ形がはっきりしている御物城が描かれている。この当時は城の上に料亭「風月堂」があった。

北明治橋から北西を眺める。仲島と遠くに明治橋が見える。その向こう側に渡地があったわけだ。

▲北明治橋はゆいレール壺川の駅前に奥武山公園と繋げられた木造の橋である。今回初めて渡った。
ここの説明板はとても詳しく、写真や絵も多く分かりやすい。

三つの遊郭と琉球の芸能

たとえ遊郭が人身売買であり、今日では許されない事であっても、そこで暮らしたジュリ(女郎)たちと士族や庶民との間で芸能が交流され発展してきたことは隠しようもない事実だ。

地方の庶民はモーアシビで芸能を発展させた一方、那覇など都市部の士族や庶民は遊郭がそれに取って代わった。琉球王朝の中ではウタ三線、舞踊も全て男性の仕事であったが、遊郭では女性たちがウタ三線をし、舞踊の主体だった。

古典音楽の始祖すら曲の発想を遊郭にもとめた。遊び歌の多くは遊郭で発展した。

そう考えると、今でも那覇のこの遊郭の場所を訪れ、その光景を目の当たりにすることでウタへの思い入れも深くなる。ただ遊びのウタであってもジュリたちがどのような想いだったのか、家族への思いや生きることへの思いはどうだったのか。歌詞そのものからは浮きださない情景もある。歌詞を訳したからと言って、そこだけでは分かり得ない人々の思い入れもある。少しでも近づけないか、との思いでの那覇散歩、ひとまずこれで終えよう。

  

Posted by たる一 at 05:48Comments(0)島唄コラム沖縄本島

2019年07月08日

那覇散歩 その2 〈辻〉

仲島から那覇市の西へ。辻を訪れてみる。




今では色々なホテル(?)などが多く目立つ歓楽街という感じの街の中に小さな丘があり、そこには「鎮魂」の文字が見える。


その手間に説明碑がある。



いつものように長いが引用する。

『辻村跡(チージムラアト)

 那覇の北西部にあった花街(はなまち)跡。辻村(チージムラ)、または単に辻(チージ)といい、女性が主体となって生活した場所であった。辻の女性は「ジュリ」と呼ばれ、「侏イ离」・「尾類」の字が当てられた。

 琉球王国におけるジュリの起源については不明だが、15世紀以降、唐(とう)や南蛮(なんばん)(東南アジア諸国)、大和(日本)と交易を行った時代、中国からの冊封使一行や大和からの商人等をもてなした「ジュリ」が居たといわれる。『球陽(きゅうよう)』には、1672年に「辻」・「仲島(なかしま)」に村を創建し、そこに多くのジュリが住むようになったとあり、この頃、各地に居たジュリを「辻」・「仲島」・「渡地」の3 ヵ所が琉球の花街として明治期まで存続した。

 1879年(明治12)に沖縄県が設置されると、ジュリは18歳で登録証(鑑札(かんさつ))が交付された。1908年(明治41)に「仲島」・「渡地」の花街は廃され、「辻」に統合された。これにより「辻」は、政財界の要人、官公庁・教育界の指導者をはじめ、地元の商人などが出入りし、接待や宴会が行われた。また旅客が宿泊する場所ともなった。ジュリは、これらの客をもてなし、安らぎを与えるために、料理や唄・三線(サンシン)・琴・踊りなどの芸事にも磨きをかけた。「辻」は、沖縄県下最大の社交場、「華やかな」場所として知られた。

 一方、辻の女性は、「アンマー」(ジュリの抱え親・貸座敷の女将)を筆頭に、「ジュリ」、「ナシングヮ」(アンマーが産んだ子供)、「チカネーングヮ」(貧困のため幼い頃に「辻」に売られた子「コーイングヮ」ともいう)などで擬制的家族を作り、「辻」の親・姉妹はもとより、故郷の親・兄弟をはじめ、人間社会における義理・人情・報恩を第一の教えとして生活した。また、神への祈りと祭りを取り仕切る「盛前(ムイメー)」と呼ばれる神職を中心とした女性による、女性のための自治組織を整え、二十日正月(はつかしょうがつ)の「ジュリ馬(うま)」行事を始め、言葉・立ち居振る舞いから、衣裳・髪型・料理・芸能に至るまで独自の文化を創り上げた。

 1609年の薩摩藩島津氏の琉球侵攻を経て、1672年に誕生した華やかな「辻」も1944年(昭和19)10月10日の空襲により消滅し、その幕を閉じた。』


簡単にまとめられているが、「辻」すなわち遊郭の歴史は琉球王朝が薩摩の侵攻を受けてから戦前まで続いていたことがわかる。


▲「客をもてなすジュリ」


▲「『琉球美人』と称されたジュリたち」


▲「ジュリ馬」は旧暦の1月20日に行われる芸能。行列を作って歌い踊る事で、「故郷の家族に元気な姿を見せる」という意味があると言われている。

遊郭と民謡

遊郭を歌ったり、遊郭が出てくるウタ、琉球民謡は多い。

前回も見た仲島節、花口説、恋の花、海のチンボラー、西武門節、三村踊り節などなど枚挙にいとまがない。


「琉球交易港図屏風」にも「辻村」が、戯画的であるが描かれている。鳥居の左の村が、そうだ。

遊郭の仲島に通い、作詞作曲活動で花を咲かせた人物がいる。この人がいなかったら今日のような琉球芸能にならなかったかもしれない人物、それは幸地賢忠、琉球古典音楽の祖とも称される。琉球古典音楽の流れをくむ野村流、安冨祖流の源流とされる湛水流の始祖と言われる人物だ。

琉球芸能、文化にとって「ジュリ」と呼ばれた遊女たちや、その組織であった辻や仲島がなくてはならない存在だとされるのは、この幸地賢忠が作った「暁節」や「首里節」という代表的な曲がジュリと共に作った、とされることだ。(参考 「民謡を媒体した『辻遊郭』と民謡に表象された『ジュリ』与那覇晶子)

首里の士族たちは王府に勤めながら、ジュリたちにウタ三線、舞踊などの芸能を教えたという。そして、そのジュリたちから新たなウタ三線、舞踊のヒントを得ていたのではないか。

仲島、辻から今度は「渡地」に向かう。  

Posted by たる一 at 05:44Comments(0)島唄コラム沖縄本島

2019年06月14日

那覇散歩 その1 〈仲島の大石〉

2019年5月29日から沖縄に滞在した。その時の雑感を書いた。その1。

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早起きの習慣は抜けない。沖縄に行っても5時には起きている。いや、沖縄だからこそか。

今回、宿を那覇市の壺川(つぼがわ)に選んだのは近くに仲島の大石があるなどいくつか気になる場所があったからだ。早速カメラを持って散歩に出た。

ゆいレールの駅「壺川」から一つ先にある「旭橋」のすぐ近くにその「仲島の大石」がある。


▲仲島の大石。右にある建物はバスセンター。3階に沖縄県立図書館が入っている。


▲絵に描かれた仲島の大石と仲島の遊郭。
(文字は筆者)
大石(うふいし)ではなく大瀬(うふし)と呼ばれていた。
その大石は海の上に突き出た琉球石灰岩で、バスセンター側が陸地だった。大石の下には波に削られた跡、ノッチがあるのはそのためだ。

遊郭仲島には吉屋チルーも居た。多くのウタ、琉歌が生まれている。その一つが「仲島節」だ。作者は不明。

♪仲島の小橋 あいんある小橋 じるが小橋やらわかりぐりしゃ

仲島の遊郭に行くには小堀にかけられた橋を渡らねばならなかった。それ以外にもいくつも橋があったのだろう。「仲島の小橋というが、あんなにも小橋があるじゃないか どれがその小橋なのかわかりにくい」という意味だ。その小堀は上の絵では「仲島池」とある。

仲島の大石から北西に通りを少し歩くと最初の交差点の角に小さな説明板がある。



説明板にはこうある。

『泉崎村(いずみざきむら)にあった人工の溜(た)め池跡。
 かつて泉崎村の地先一帯は、久茂地(くもじ)川が漫湖(まんこ)に合流する河口で、土砂が堆積(たいせき)した中州(なかす)は「仲島(なかしま)」と呼ばれ、その後の埋立により陸続きとなった地域である。
 河口(かこう)の水が湾入(わんにゅう)していた所は、17世紀中頃、泉崎村在住の唐人(とうじん)の薦めにより、火難封じの風水として、土俵をもって潮入口を塞ぎ、溜め池(小堀(クムイ))とした。小堀は、王国時代から養魚場として使われ、後に泉崎村の管理地となり、池から上がる収入で小堀の浚渫費(しゅんせつひ)に充てたという(『南島風土記(なんとうふどき)』)。
 仲島小堀では、その後も鯉(こい)や鮒(ふな)が養殖されていたが、昭和初期には埋め立てられ、1937年(昭和12)、埋立地に済生会(さいせいかい)病院が建設された。
 一方、仲島には、1672年に「辻(つじ)」(現那覇市辻一帯)とともに花街(はなまち)が開かれた。歌人として有名な「よしや」(吉屋チルー)は、この仲島で生涯を閉じたとされる。泉崎村から仲島へは小矼(こばし)(仲島小矼)が架けられており、花街への出入り口であった。仲島は、1908年(明治41)に辻に統合・廃止され、小矼も埋立・道路拡張により消失した。
 花街廃止後、埋立により住宅地として発展した泉崎は、沖縄戦後の区画整理により、往時の街並みとは異なった住宅地となった。』




▲いつも味のある「仲島節」を聞かせてくださる大城美佐子さん。5月24日に広島は「うちな〜」さんのライブで素敵な歌声を聞かせていただいた。こうしたウタを味のある声で歌う方は少なくなった。残念なことである。

さて、大石のところに戻ろう。もう一つ残念なことがある。


この解説板は、バスセンターが建て替えられてからわかりにくい場所になってしまっている。説明板は元からあった場所である。昔のバスセンターでは、通路からよく見える場所だった。しかし今は花壇によって人はそこまで行けないようになっている。植えられた草花をかき分けて、ここまで見に来る方はまず居ないだろう。そもそも見えないのだから地元の方もあまり知らないのではないか?私も教えて頂いて知った。
とても残念な事である。

その説明板。



刻まれた文字にはこうある。

沖縄県指定史跡 天然記念物 昭和33年3月14日指定

高さ約6メートル、中央部の周囲は約25メートルの琉球石灰岩で、岩の下の方は波に侵食されてくぼんだ「ノッチ」と呼ばれる跡がある。昔このあたりが海岸であったことを示している。久米村の人々は「文筆峰」とも呼び、村の風水にかかる縁起のよい大石として珍重していた。
また、この付近に仲島の遊郭があり、多くの遊人が訪れ賑わっていた。歌人として有名な「よしや(吉屋チルー)」も、この遊郭で短くはかない生涯を終えたと伝えられている。1908年(明治41年)には、仲島の遊郭は辻に合併移転し、大正初年までにはこの付近は埋め立てられ、現在に至っている。
平成2年3月 沖縄県教育委員会 那覇市教育委員会



遊郭、花街、それ自体はとても悲しい歴史であり、女性の人権を無視した封建制度そのものである。貧しい農村から女子が売られていった。人身売買の歴史である。

だからといってその歴史そのものを「無かった」ことにはならない。

琉球の芸能文化には三つの要素があると言われる。
一つは琉球王朝を中心にした御冠船芸能といわれる中国との外交で生み出された組踊などの芸能。琉球使節と薩摩、日本文化も関わっている。

もう一つはムラ社会、各島々で行われた祭祀、若者達のモーアシビ(野遊び)、そこで生み出された芸能。

そしてこの遊郭である。中国や薩摩の人間、王族、士族、農民、漁民らが遊里として利用し、また対応した女郎達は幼い頃から芸能を学んだ。それらが複雑に絡み合って琉球の芸能文化が生まれ発展してきたという歴史は消しようがない。

説明板の一つくらいで、と言われるかもしれないが、やるせない気持ちのまま少し西にある明治橋に向けて歩いて行った。


(続く)


  

Posted by たる一 at 12:21Comments(2)島唄コラム

2017年08月29日

琉球使節の足跡を訪ねる おわり


この絵図を広島県福山市の鞆の浦で見たことが一つのきっかけで始まった「琉球使節の足取りを訪ねて 鹿児島旅」。

琉球館や山川港を訪ねて琉球使節の足跡をたどり、鹿児島市立美術館で色々な情報と資料をいただき、いよいよこの絵図が描かれた川内市に向かいます。

鹿児島に居るのは今日が最終日、ということもあるし、レンタカーは昼までには返さないといけないために、かなり早起きしてチェックアウト。


▲鹿児島市内の市電。少し広島とは趣違いますね。

朝ごはんをゆっくりなんて時間もないので鹿児島市内のコンビニでサンドイッチと飲み物を買って西を目指します。

江戸上り途中の「潮待ち」で琉球使節が福山市鞆の浦に立ち寄り、そのなかの若い楽士「向生」(しょうせい)が病気で亡くなったために立派な墓碑がたてられています。


▲丁寧に葬られた様子が伺えます。

さて、あの白黒の帆掛船の絵図が本当ならこの鞆の浦にも薩摩の船で入港したことになります。

瀬戸内海に薩摩の船団が90艘も浮かび、琉球使節を運んだということです。


▲なんてことを考えつつ、このようなルートで有料自動車道(南九州自動車道)を約1時間ほど走らせますと川内市に着きます。

この鹿児島城下から川内までの琉球使節の足取りも気になります。


川内市(せんだいし)にはあの川内原発があります。この写真は火力発電所。この幅が広い川内川は昔から薩摩藩の軍港でした。


▲古い「水神」碑が川のほとりに。

秀吉の朝鮮出兵(侵略)に参加する薩摩の船団も一万人以上の兵士を乗せて久見崎港(川内川の左岸。つまりこちら側)から出兵しました。

この朝鮮出兵への琉球の貢献度の低さも薩摩藩による琉球侵攻の口実にあげられます。その久見崎港から出港した琉球使節の複雑な思いも察することができます。


歴史も古い軍港、久見崎港には多くの史跡があります。


久見崎港は、昔から薩摩藩の船大工が住み、港には船を製造し、修理するドックのようなもの、などがありました。ここは近年埋め立てられてしまいこの看板だけが掲示されています。


前にも紹介しましたが、戦後発見された「杇木(おうてき)家造船資料」と呼ばれるもの。久見崎で代々薩摩藩の船大工をしてきた家の貴重な資料が残されていたのです。


その資料を分析すると、あの絵図の一艘、一艘の名前、大きさなどがわかり絵図の分析と合わせると


▲琉球使節は、後方の10艘の船に分乗していることがわかりました。


さらに、あの絵図が出港を描いたものならば右に向かって居るので川内川の右岸から描かれたことになります。


▲綺麗な松林から川内河口を眺める。

川内市歴史資料館の館長さんともお電話でお話し聞かせていただきましたが、右岸なのか左岸、つまり久見崎港側からなのかは不明だとのこと。


(Googleの地図に書き込み)

少しまとめてみます。
▲「江戸上り」と言われた琉球から江戸に向かうルートを図解してみました。

「上り口説」(ぬぶいくどぅち)には山川港に入る直前の左手に「開聞岳」、前方に桜島が見えるところまでが歌われています。

初夏の頃に那覇港を出港した琉球船団は真南風(まふぇーかじ)を後ろから受けながら「道の島々」(「上り口説」)を眺めつつ順調に航海を進め、やがて山川港に入り、「船調べ」を受けた琉球船団は鹿児島城下に向かいます。

そこで「琉球船の目印松」を目当てに「行屋の浜」(じゅやぬはま;「下り口説」にあり。)で船を降り、「琉球館」へ。

「行屋」は現在のJR鹿児島駅前あたりになります。



琉球館で二、三ヶ月滞在したでしょうから、この琉球船のすぐ右側にある「芝居小屋」で行われていた「人形浄瑠璃」や「能」などを堪能していたのだろうと思います。彼らはそれも仕事のうちでしたから。大和文化の吸収。

九月に薩摩を出港するために鹿児島城下から、おそらく薩摩藩の護衛や引率の役人、武士らとともに陸路を一日ほどかけて川内、久見崎港まで。まだ暑い時期だったことでしょう。


(沖縄県史ビジュアル版8 近世より)

久見崎からは江戸上りの時期によって停泊する港も変わっているようです。

九州北西部の港伝いに北上した薩摩船団は下関から瀬戸内海へ。瀬戸内海から大坂(現在の大阪)に到着。

そこから淀川を遡上して伏見まで行きました。しかしあの薩摩藩の船団は多くが大型の船であるので川舟に乗り換える必要があるのです。
こんな絵図が巻物として存在していました。


(「中山王来朝図」より)
見えづらいですが上に「賀慶使便乗艇 山口藩」とあります。

正面には「中山王府」「賀慶正使」つまり琉球使節の「正使」が乗っているのです。後ろには山口藩の旗印が見えます。

他にも薩摩藩の船はもちろん廣島藩などの船もあり、それらは帆が無い川舟でした。

こうやって周囲の藩も便乗して琉球使節を江戸に送り出すシステムだったことがわかります。

(「琉球人来朝之図」国立国会図書館蔵)

そして陸路では、薩摩藩からの要請(命令)で中国風の衣装を着けて路地楽(るじがく)を演奏する琉球使節の楽士たち。

薩摩藩は外国、琉球を「従えている」と江戸までの道々で示したかったようです。



このあたりは今回鹿児島への旅で得られたものの範囲を少し超えてしまいましたが、これまでの琉球使節が江戸上りで辿ったルートと、その姿のイメージがはっきりとしてきました。

私なりの薩摩と琉球との関係についてのイメージも固まってきたかのようにも思います。

中国との関係も維持しつつ薩摩藩、幕府の「江戸上り」の要請にも応じ、吸収するものは吸収をする。

「日琉同祖論」を唱えた羽地朝秀や、その後を継いた蔡温などの政治は、強大な薩摩藩の影響を意識しつつ、中国との関係も維して琉球王府の支配を維持しようとしたものでした。

他方で薩摩藩からの重い貢租(琉球の財政の三分の一に匹敵)については人頭税で厳しく先島などから徴収することで乗り切っています。

薩摩との関係は深めざるを得ない舵取りを、積極的にしてきた琉球王府の姿も見て取れます。

一泊二日でまだまだ見ていない部分もたくさんあるようです。
次回もし行けるならもう少し詳しく琉球使節の顔が見えるようにあちこち巡ってみたいと思いました。

最後までお読みくださってありがとうございます。


(鹿児島弁で、よくおいでくださいました!)











  

Posted by たる一 at 14:23Comments(0)島唄コラム

2017年08月29日

琉球使節の足跡を訪ねる その4

たった一日のレポートに「その3」まで費やしてしまうという私の筆の「トロさ」に呆れつつ、鹿児島島市内に戻ってからは、まるでテレビ番組の「酒場放浪記」みたいになりますのでご容赦ください。


▲天文館のアーケード街にある有名な「しろくま」のお店「むじゃき」。


ニコニコレンタカーの二階にあるビジネスホテルに無事到着し、荷物を部屋に置いて、さっそく散策。


▲流行りの酒場。

鹿児島の繁華街「天文館」も歩いて五分くらいの便利さ。

「天文館」という固い名前に対し、最近は「天街」(てんまち)という言い方もあるようです。

薩摩藩第8代藩主、島津重豪(しげひで)が1773年に天文館(当時は明時館)を建てたことが名前の由来。

蘭学に傾注し、オランダ語も話せたという重豪は「暦学」や「天文学」の研究のために建てたのでした。ほかにも探求心だけでなく豪華な暮らしと贅沢三昧で500万両という莫大な借金も抱えてしまいますが。

その借金を返納するために、琉球支配、それによる中国との密貿易の拡大、奄美からの「サトウキビ」を安く買い叩くなど収奪の強化という側面を忘れるわけにはいきません。

薩摩藩は大借金を踏み倒し、大黒字をひねり出し、その後の「明治維新」への財政的背景にもつながります。

このシリーズ「鹿児島旅 その3」で書いた山川港の薬草園も活用したらしく、薬草研究も熱心で「質問本草」という書物にまとめてもいます。

こうした島津家の蘭学、つまり西欧、海外の学問や技術に深い関心を持つ姿に琉球使節も触れたに違いありません。琉球は薩摩藩と共にやっていくのだ、と諦観的な気分になったのでしょうか。極めて複雑な思いだったかもしれません。

などと考えつつ、一杯やりに天文館にある居酒屋へ。



鰹のタタキ。もう「初鰹」は過ぎていますが新鮮です。脂が少なく鰹の旨味も程よく。

鰹は昔から食べられていた魚ですが、古くは生食はあまりせず加工していたようです。鰹節やタタキはこの名残でしょう。
「堅い魚」という意味の「かつ・うお」という説が有力。

鹿児島も北上して成長していく鰹の漁場の一つ。薩摩藩の頃からも食されていたのは間違いなく、琉球での鰹よりは旨味が増した九州の鰹を使節も食したでしょう。



それに合わせたのは、焼酎であったか、どうか。

日本酒とは違う焼酎の「蒸留」技術は15世紀にはタイから琉球に伝わっていたといいます。

鹿児島には「伊佐市の郡山八幡神社では、1559年(永禄2年)に補修した際の、大工が残した落書き」があり、その内容は
「焼酎も振る舞ってくれないけちな施主」(笑)
と書いてあるそうです。

16世紀には薩摩にも焼酎はあったということです。

ただし芋焼酎は1705年の「前田利右衛門」による「芋」の薩摩上陸以降ですから18世紀を待たねばなりません。


▲「天保年間鹿児島城下絵図」の片隅に描かれている「花見をする琉球人」の絵図。(鹿児島市立美術館 蔵)

三線(のようなもの)を弾き、踊る人も見えます。横の説明書きには「酔(って)踊(る)」の文字も。

19世紀に書かれた絵図ですから、芋焼酎だったのか、琉球の泡盛だったのか。恐らくは琉球館に詰める親方(うぇーかた)連中なのでしょう。


先ほどの居酒屋では、焼酎は各自の目の前に置いてあり「焼酎飲み放題 五百円」との札がありました。かなり飲んで食べて酔いましたが、支払いのお値段も三千円でお釣りが来るほど。従って飲み過ぎには気をつけたいものです。

ほどほどにして宿に戻りましょう。

明日はまた遠出しなくてはなりませんから。

ではまた。





  

Posted by たる一 at 07:33Comments(0)島唄コラム

2017年08月28日

琉球使節の足跡を訪ねる その3



私の旅の共googleは鹿児島市内から山川港までは車で約1時間半かかることを教えてくれます。おにぎり一個とお茶をレンタカーに積んで出発。

桜島を左手に見ながら海沿いの国道を南下します。

琉球使節が琉球を出て、薩摩藩の領地に入るのは奄美の島々を除けば山川港が初めて。また1609年の薩摩琉球侵攻の軍勢もここ山川港から出港しています。琉球にとっては因縁深い港でしょう。



ダンチクがあちこちに伸びています。
やはり南国、アメリカデイゴとも呼ばれるカイコウズが赤い花をつけていたり、ハイビスカスの花もあちこちに。

山川港から鹿児島城下に陸路で向かった使節もありました。
海路で向かった琉球使節は船の上からながめたことでしょう。

平日の交通量の多さで2時間近くかけて山川港に到着!

もう午後2時すぎ、おにぎりはもうお腹の中(笑)お茶も飲みきり、次を買わなくては。



指宿を過ぎたあたりからは車は急に減り、山川港あたりは釣り客と観光客もまばらな静かな港町という印象でした。



山川港まち歩きガイド」というサイトを少し前に見つけ、この辺りにある琉球使節に関する史跡はチェックしておきました。もちろん、ここは鰹節の製造でも有名ですからそちらも。



掲示板には

1659年に開園し、レイシ、ハズ、キクコ、カンラン、リュウガンなどの薬草が多く植えられ現在ではリュウガン(樹齢300年以上)が残されているだけ、だとか。



リュウガンの実が幾つかなっておりました。樹齢300年の木に!

さて次を急ぎます。外気温がとんでもないことになってます。夕方までには鹿児島市に戻らないと。

山川港に琉球の人々が寄港したことの証拠をしめす碑、琉球人鎮魂墓碑を探します。



先ほどの「山川港まち歩き」マップを片手にgoogleを使いながら探すのですが見当たらない!

このマップ通りの場所に行っても何もない。そもそもこの琉球の碑を案内する看板はなかったのでした。

ガイドをされている方にも電話しましたが。。。「わからない」と。



「えい、ままよ!」とは叫んではいませんが、この「河野覚兵衛家暮石群」の横の階段を上るとそこにありました。マップと設置場所は少し違っていたようです。





こう書かれていました。

【琉球人鎮魂墓碑

江戸時代には琉球から山川港へ幾たびも使臣船が来航した。この間遭難・客死した使臣は数百名にも上るが、明治10年代それらの琉球人の墓も取り壊され西南の役戦没者招魂塚が造成された。
新たな交流元年にあたり琉球人鎮魂墓碑を、を建立した。

2009年11月29日
琉球・山川港交流400年事業実行委員会】


西南の役の戦没者を祀ることは良いのですが、何故に「取り壊す」のか。

一年に一回の「薩摩上り」が琉球には義務付けられ、それ以外でも多くの行き来がありました。必ず経由するのがこの山川港。そして航海の途中で亡くなった方々のお墓が山川港にはあったようです。
そのお墓が破壊されていったとは。

墓碑の前で深く頭を下げて、この疑問を心に刻みながら次に向かいました。



山川港の街並みには、あちこちに「石敢當」があります。やはり琉球の人々が住んだ痕跡でしょうか。不思議にもシーサーは見当たりませんでした。



そして、もう一つの琉球の人々のための「琉球人望郷の碑」を探します。



少し小高い丘の上にありました。さっきの「琉球人鎮魂墓碑」と少しだけ違う碑文でしたので、こちらも記しておきましょう。同じ目的で建てられた碑でしたが地元の方々の優しい思いやりも込められていました。

琉球人望郷の碑

江戸時代には琉球から山川港へ幾たびも使臣船が来航した。この間遭難・客死した使臣は数百名にも上るが、明治10年代それらの琉球人の墓も取り壊され西南の役戦没者招魂塚が造成された。
新たな交流元年にあたり、福元墓地の一角に琉球人の鎮魂墓碑を、眺望の利くここ愛宕山には「琉球人望郷の碑」を建立した。
時代の潮流に翻弄されながらも身命を賭して往還逝去した琉球の古人たちに、心から敬意を表するものである。

2009.11.29.
琉球・山川港交流400年事業実行委員会


下線のあたりが、若干違いがあるのです。

まあ、それは良しとして、もう少し山川港をウロウロしようと思いましたが、レンタカーに乗った瞬間、かなりの暑さの中を動いたせいか、おにぎり一個しか食べていないせいか(笑)少しだけ疲れを。歳なんですかねえ。。



この丘にはガジュマルかと思ったのですがアコウの木や月桃がたくさん。きっと亡くなった方々も寂しくはないだろうと思いました。

五人番アコウの木も見たかった。
「五人番」とは海外などの船を見張るために山川港に設置された見張り番。行けなくて残念。。、

まだまだ行きたい所がありました。鰹節の製造所や、他にもいくつか。しかし、疲れには勝てません。



道の駅で、鰹節を探しました。削り器も。さすがに見た目も綺麗な鰹節が比較的廉価で。


値引きとおまけにつられて買った鰹節と削り器は今重宝しています。

まだまだゆっくり見て回りたいという気持ちに後ろ髪を掴まれて、しかし疲れた、夕方までには戻らないとという気持ちで山川港を離れました。





「さつまいも」は、1605年に琉球の野國總管が中国から苗を持って帰り琉球で栽培が始まりました。沖縄では「ンム」「ウム」などといいます。

それを持ち帰ったとは書いていないのは残念。

この辺で閉店の鐘のごとくお腹が鳴りました(笑)

今夜は鹿児島市内に泊まり、明日はいよいよあの絵図が書かれたと思われる場所へ。

また次回!

  

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2017年08月26日

琉球使節の足跡を訪ねる その2



「琉球館跡」があった長田中学校からタクシーの運転手は薩摩時代の石橋とかの説明をしてくださってます。私は半分は聞きつつ、半分は琉球人松の意味を考えていると、あっという間にそこに着いてしまいました。



現在の多賀山公園(東福寺跡)を過ぎてさらに祇園之洲西口から350mほど北上すると「琉球船の目印松」があります。



琉球人松 琉球船の目印松

磯浜には昔、石灯籠に抱きつくように見事な枝を張った大松がありました。琉球からの船が入港する時、目印にした松と言うところから「琉球人松」と呼ばれていました。
松の上の丘は桜の名所で、海上から桜を眺める遊覧船も多かったといます。ところが終戦後松食い虫の被害にあい、この名物松を惜しむ人達が手を尽くして駆除に努めましたが、その甲斐もなく枯れてしまったのです。
そこで、1953年(昭和28)10月2日、当時の市長勝目清のノコ入れで切り倒され翌年、数本の姫松が植えられました。その中の1本が現在、石灯籠の左手に根付いています。切り倒された琉球人松の年輪を数えると142あったそうです。
また1973年(昭和48)5月15日、沖縄復帰1周年を記念して那覇市からリュウキュウマツの寄贈を受け、石灯籠の右手に植えられています。
鹿児島市


と看板には書かれています。

つまり、いつの時代の事かは不明ですが、ここに灯篭を抱くように生えた松があり、それが琉球船の入港する時の目印だったというわけです。

現在は琉球松が植えられているようです。

この目印についても後に琉球使節の足跡という事で再度触れます。


松の向こうには桜島が見えてます。

さ、タクシーのメーターも結構な数字になってきたし、レンタカーの予約時間も迫って来ました。

レンタカーの24時間分の料金とほぼ同じ金額をタクシーの運転手さんに払って(涙)レンタカー屋さんに着きました。



格安のニコニコレンタカー。
上にはビジネスホテルもついているので宿泊もここ。格安です。

今回の大きな目的地の一つ、鹿児島市立美術館にレンタカーを向かわせました。



今日は休館日ですが裏口から入れてもらいました。



事務所にあるパソコンで、拡大してあちこち見せてもらいました。

これは完全に和船。しかも上が白。下が黒の帆は薩摩藩の帆印。丸に十文字という薩摩藩の印は帆ではなくて船の横などにつけられています。

私の疑問は

本当に琉球使節が乗っているのか?

ということでした。そんな話をすると美術館の方がある資料を見せてくれました。



杇木資料(おうてき)」と書かれたものの中に



なんと船一艘一艘の名前、乗っている者、大きさまで書かれた資料があるのでした!



「杇木」というのは、薩摩藩に代々支えた船大工の家系の名前で、戦後この資料が見つかった事で薩摩藩の船についてだけでなく日本の和船の研究にとっても大きく貢献しているものなのです。

これも詳しくはまた述べます。

確かに、この船団90艘のうち後ろの10艘に琉球使節の正使、副使などが乗っていました。

つまり琉球使節は琉球の船で

琉球、首里~那覇→東シナ海を北上→山川港→目印松を見ながら薩摩藩の城下の港→琉球館

と来て、どこかでこの薩摩藩の和船に乗り換えたことになります。



この絵は「琉人御召之図」と書かれていて作者は不明ですが「薩摩藩の狩野派系の御用絵師の作」と考えられています。

船には目立つように琉球使節が乗っていることを指し示すものは見当たらず、そうした雰囲気すら消されています。

琉球は日本にとっては外国、自由に国内の航路を往来できないわけですから、和船への乗り換えは当然と言えます。しかし大坂まで行く間の海路は隠密輸送の様にも思えます。

琉球使節はこの船に乗ったまま、九州西海岸を北上し、瀬戸内海に入り、鞆の浦にも寄港したのだとわかります。

鹿児島市立美術館で見せてもらった資料のもう一つは


「天保年間鹿児島城下図」

この中に琉球館が描かれています。


他にも面白い光景も。それについてもまた後で。

さて、鹿児島市立美術館の皆様に大変お世話になりながら、大事な、それこそ歴史研究には重要な幾つかの資料まで頂いて帰ることができました。

この場をお借りして感謝申しあげます。



美術館を出て、今度は山川港に向かいます。琉球使節が初めて薩摩の地を踏んだところかもしれません。

お昼ご飯を食べる時間ももったいないので、コンビニでおにぎり一個とお茶を買ってかなり長いドライブとなります。

また次回!

  

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2017年08月25日

琉球使節の足跡を訪ねる その1

わずか一泊の鹿児島旅でしたが、私にとって得るものが多くありました。



振り返って私の「鹿児島旅」と言えば、小6の修学旅行で桜島や島津家の豪邸などに触れ、さらに薩摩方言の面白さにカルチャーショックを受けたものが最初でした。

それから鹿児島への旅を何度かはしましたが、今回のように「薩摩と琉球との関係」を意識した旅は初めてです。

今回の旅の動機はこの絵図でした。



鞆の浦歴史民俗資料館で、見たチラシにあったものです。他に「やさしい琉歌集」(小濱光治郎著)にもありました。

「薩摩から船出する琉球使節」という説明と「鹿児島市立美術館所蔵」の文字がありました。

私の浅学で知るこんな琉球船とは全く違います。



ジャンク船とも言われる中国の船を模した帆船で多くが二本ないし三本のマストを持っています。



いったい、この絵図の船は何なのか?

今年の春に鹿児島市立美術館にお電話をしました。

「残念ながら傷みが激しく現在は公開していませんが、11月には公開しますので、その時にどうぞ」とのことでした。

しかし、今回お盆で宮崎に帰省するので16日なら鹿児島に行ける、その時にデジタル写真で良いので見たいと厚かましく告げると、

「わかりました。休館日ですが職員はおりますので裏口からお入り下さい」

との丁寧な対応を頂きました。
これは、行くしかありません。



さっそく16日朝早く母親と仏壇にしばしの別れを告げて宮崎駅から特急「霧島3号」に乗り、鹿児島中央駅を目指したのでした。

朝早いので眠い顔です⇩(笑)


途中、私を産み3歳まで育てて亡くなった産みの母親の故郷「都城」に。

地元では(みやこんじょー)と発音。かつては薩摩藩の島津家の私領であったり薩摩藩の一部であった事もある地域です。廃藩置県の後は「都城県」も存在していました。そのため言葉が鹿児島弁に近いのです。

私の生みの母親も鹿児島弁に近い言葉だったのでしょうか。



山を抜けると広い盆地が広がるのが都城の特徴、お茶畑や煙草の栽培も盛んです。

ここを抜けると鹿児島県。



煙たつ桜島が見えてきました。夜中までの荒れた天気も収まり、太陽が照りつける夏の空に変わっています。

午前9時くらいに着いて、レンタカーの予約11時までの時間がもったいない、とタクシーに乗り「琉球館跡」と「琉球人松」へ。



その時気がついたのは、二つの史跡は鹿児島中央駅よりも一個手前の鹿児島駅の方が近いのでした。そこで電車を探しましたが1時間待つか、特急料金を払って特急に乗るか、の選択を迫られましたので渋々タクシーを選択したのでした。



琉球館跡の碑は市内の中心部のやや北部にある鹿児島市立長田中学校の中にありした。

タクシーで中まで入り、運動場の横を歩いて碑のそばへ。



この絵図は「天保年間鹿児島城下絵図」に描かれた琉球館。琉球館については、また後日詳しくまとめたいと思います。

まずはタクシーに乗り、次の「琉球人松」へ。

長くなりました。この辺で、また次回としましょう。






  

Posted by たる一 at 16:40Comments(0)島唄コラム

2016年07月05日

今帰仁ミャークニーゆかりの写真 2/3

今帰仁の平良哲男さんから頂いた今帰仁ミャークニーの歌詞にゆかりの写真(2/3)を紹介しています。
撮影は平良哲男さん。
御本人の承諾の上掲載。

(歌詞)
いちゅび小(ぐゎー)にふりてぃ謝名前(じゃなめー)ん坂(びゃー)通てぃ 通てぃ珍(みじら)しや シカぬ鰻(んなじ)

(読み方)
いちゅびぐゎーにふりてぃ じゃなめーんびゃーかゆてぃ かゆてぃみじらしや しかーぬんなじ

(意味)イチゴのように愛しい人に惚れて謝名前の坂を毎日通いつめて見た、シカーという湧き水に住む鰻の珍しいことよ!





シカーというのは謝名にある神聖な湧き水のことで、正月の最初に汲む「若水」(わかみじ)や産湯の水をここで汲んだという。
  

Posted by たる一 at 16:27Comments(0)島唄コラム

2016年07月04日

今帰仁ミャークニー ゆかりの写真 1/3

平良哲男さんから頂いた今帰仁ミャークニーゆかりの写真を三回でご紹介します。

撮影は平良哲男さん。
御本人の承諾の上掲載します。

今帰仁ミャークニーの歌詞

今帰仁村ぬ今泊(エードメー)フパルシぬ美らさ
今(なま)からん後(あとぅ)ん 代々に残ち(ゆゆにぬくち) 


「フパルシ」とは「クワディーサ」の今帰仁言葉。

今帰仁村ぬ今泊(エードメー)のフパルシ。





碑文の文字。

「字民とフパルシ」

「戦前は現存するフパルシの根元に接して、もう一本のフパルシがあった。その痕跡は今でも少し残っているが、大きな幹が西側に長く延びていたので、途中に「つっかい」を入れて保護していた。
シマの人たちは、これを「ウー(雄)フパルシ」といい、現存するものを「ミー(雌)フパルシ」と愛称していた。
フパルシとその周辺は、シマ中の子供たちの格好の遊び場であった。彼等は「ミーフパルシ」の大きな幹に挑んで、よじ登りごっこをしたり、横に延びた「ウーフパルシ」の上を伝わり歩いてスリルを味わっていた。
夏から秋にかけて、フパルシにはたくさんの実がなった。その実は甘酸っぱい味がするし、中の種子は落花生のような香りがあるようで、子供たちは競ってその実を求めた。
暴風の時には、沢山の実が落ちるので、近隣の子供たちは、早起きして拾いに行ったものだ。
この老大木は、わが字のど真ん中に根を張り、枝を伸ばし、幾世代ものシマの子供たちのよい遊び相手を勤めてきたばかりでなく、字の重要行事の舞台背景をなして、その存在を誇ってきたのである。」

『くふぁでぃさ <くふぁでーし。使君子科の熱帯樹。別名は「古葉手樹」(コバテイシ)。沖縄だけでなく小笠原、アジア、アフリカの海岸に分布。「植物名。『沖縄産有要植物(金城三郎)』には『しまほう』『こばでいし』とある。葉は円形で、径15センチくらいに達する。墓の庭に植える。人の泣き声を聞いて成長するといわれている。材は良質で建築用・器具用。葉は紅葉する。」(沖)。「くふぁでぃさ」は「くふぁでぃーし」の文語。発音と表記の違いに注意。』(「たるーの島唄まじめな研究」より)


  

Posted by たる一 at 15:24Comments(0)島唄コラム

2015年12月08日

今帰仁ミャークニーへ 《ナークニーを追って 5》 終わり

仲原館長の運転で今帰仁のスク道を辿って、本部町まで戻ります。



仲原館長は、国道を走ったかと思えば、山道に入ります。

このようにまがりくねった道。


まさにこれが昔の人々が歩いた道=「宿道」(スクミチ、シュクミチ、シュクドゥーイなどと発音する)なのです。

国道と重なる部分もありますが、「合理性」を優先した直線の国道が
昔の宿道を「串刺し」みたいにした格好です。


記憶を辿ってGoogleMAPに落としてみました

館長が運転された道を黄色で示しました。
まっすぐなのが国道115号線です。

昔の「宿道」(スクミチ)は、こうして人々が使わなくなり、
木々に覆われて消滅するケースが多いというのがよくわかります。


その道で見かけた古いガジュマル木は何を見てきたのか、
なにも語りません。

国道115号線を離れ、やはり宿道を通り、伊野波へ。

伊野波ぬ石くびり 無蔵連りてぃ登る
なふぃん 石くびり 遠さはあらな

(ぬふぁぬいしくびり んぞちりてぃぬぶる なふぃんいしくびり とぅーさはあらな)
◯伊野波の小石の坂道を貴女を連れて登る もう少し小石の坂道が長かったらなあ

という歌詞で有名な小石のゴロゴロした坂道がある場所です。

今回はそこには登らずに、周囲の道を見ます。


左に石くびりがある丘があり、ここに広がるのは田芋畑。

満名川は、昔は今よりも広くヤンバル船などが
この伊野波まで来て荷物の積み下ろしをしたといいます。

伊野波とは、「『ヌーファ』の当て字で、満名川の川岸に位置する集落である。」「ヌーが付く地名は水路と深い関わりがある」(「地名を歩く」南島地名研究センター編著 ボーダーインク)。

つまり、この畑があるあたりまでは水があったようです。


満名を唄ったウタの歌碑を見ながら、次のシマへ。

久しぶりにきしもと食堂で「木灰そば」を食べるという小市民的「野望」は、
そんなことはおかまいなしに満名川の旧道を走ってくださる仲原館長のご配慮によって見事に打ち砕かれました(笑)

ヤンバル船が浮かぶ様子が頭に描けたのでそれはもういいのです^ ^





満名から伊野波 ながりやい浜川
遊びする泉河 花ぬ屋比久

(まんなからいぬふぁ ながりやいはまが あしびするしんか はなぬやびく)

浜川というのは本部小学校の裏手にあったと後から根路銘さんに伺いました。

「はまがー」と発音するので「川」ではなく「井戸」の意味があります。


これは隣の本部中学校の裏の方です。

湧き出る水は小学校の裏手の方が良かったようです。


この左手が本部中学校。

右の丘を越えた辺りが、昔泉河(しんか)と呼ばれた集落があります。



そこをさらに上がると、現在は野原(のばる)と呼ばれ、昔は屋比久(やびく)と言われた集落があります。
屋比久の集落はカルスト台地なので水が湧かず、下の浜河まで水を汲みに行かなければならなかったとも聞きました。

そこからの眺めは遠方も見渡せて
やはり毛遊びが盛んだった場所は高台の眺めの良い場所だとわかります。

下に渡久地港を見下ろし、遠くに辺名地が見えます。

まさか三線の音色がそこまで聞こえたはずはありませんが、叫べば声が聞こえそうにも思えます。

良く毛遊びをした泉河、そして華やかな屋比久。

もう一度ウタをここで口ずさみたくなりました。

満名から伊野波 ながりやい浜川 遊びする泉河 花ぬ屋比久

2015年4月11日。お付き合いくださって、たくさんのことを教えてくださった根路銘さん、渡久地さん、そして仲原館長、金城さん。

改めて感謝申し上げます。

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さて、那覇のタカマサイ公園から本部、今帰仁でのミャークニーの道を巡り一体何がわかったというのでしょう。


先ずは、本部ミャークニーと言われているひとつひとつの地名には無数の人々の「あしび」があり、道の移動があり、そこには出会いや別れ、つまり喜びや悲しみが深く染み込んだものだ、ということです。

渡久地港と満名川が今よりもはるかに大きく、そこには多くの交易船が行き交い、今帰仁城と首里、各地を結ぶスク道が時代の中で波打つ動脈のように生き生きとした人々の暮らしを支えていたのであろうことは、皆さんのお話とフィールドワークを体験することなしには知りえない事でした。

ところでカタマサイがあやぐを歌ったのは1390年頃、ミャークニーの成立ははっきりとは言えないまでも琉球王朝が薩摩侵略を受けたあと、琉歌の成立を待っての時期ではないか、と思います。

もしタカマサイのあやぐを誰かが聴き、それをナークニー、ミャークニーに作り変えたとすれば14世紀と17世紀という、300年の大きなタイムラグができてしまいます。

タカマサイではなく、その後に誰かが誰かの宮古のあやぐを聴き、今帰仁に持ち帰りミャークニーを作ったというのも、もちろんありえるだろうと思います。

私は全くのフィクションでもいいから、この壮大なウタの旅を描いてみたいと思い、小説「糸根の旅」(いちゅにーぬたび)を書き上げました。

まだ本として出版はされていませんが、いつかは多くの方に読んでいただけたら、と願っています。

《ナークニーを追って》のコラムがナークニー、ミャークニーを歌う方に、少しでもお役に立てる事を願っています。

終わり  

Posted by たる一 at 16:50Comments(0)島唄コラム

2015年12月08日

今帰仁へ 《ナークニーを追って 4》

2014年の宮古島への旅から宮古民謡の「とーがにあやぐ」、
そして八重山民謡の「とーがにすぃざ節」、
さらに本島の「トーガニ」「タウカネ節」「宮古のあやぐ」「あやぐ節」などの関係を調べてきました。

全て「ナークニー」はどこから来たのか、という問題意識です。

「ナークニー」も様々。

「富原ナークニー」「フクバルナークニー」などのように奏法の創始者の名前を冠したり、
また「ヤッチャー小」「門たんかー」などのように「ナークニー」の形を変えたものも。

その源流をたどると「本部ミャークニー」「今帰仁ミャークニー」にたどり着きます。

それでどうしてヤンバルと宮古島が結びつくのかと考えると、
もう何度も書いてきたように
例の「タカマサイ公園」で1300年代に「あやぐ」を唄って地名に名前を残した高真佐利屋という青年の話に。

加えて、ヤンバルから那覇にきて宮古の唄に触れてヤンバルに持ち帰ったという青年の話にも。

どうしてもその二つの話、伝承が気になります。


前回の記事では2015年4月の沖縄訪問の際に、タカマサイ公園から名護に移動して、
二日目の午前中は本部町教育委員会の渡久地さん、そしてそのご紹介で元本部町教育長の根路銘さんに案内していただきながら、本部ミャークニーの「渡久地から登てぃ花ぬ元辺名地」というあたりを実際にフィールドワークさせてもらいました。


もう一人の方と連絡を取っていたので
今帰仁歴史文化センターにレンタカーを走らせました。


館長の仲原 弘哲さんは待っててくださいました。



「お電話でお話ししたように本部、今帰仁ミャークニーの光景を見てみたい」
と要望をお伝えすると

「地図を見て話しするより実際に見て廻りましょう。」

と言ってくださり、私のレンタカーを仲原館長が運転して巡ることに。

Facebookの「ウチナーグチ講座」を主宰されている金城 信春さんもそこへ駆けつけてくださいました。一緒に乗り込みます。

真下地ぬくびり 大堂原 若地 黒山ぬ下や伊野波とぅ満名
(歌意)真下地の小坂 大堂原 若地 そして黒山の下は伊野波と満名がある

昔の本部ミャークニー、今帰仁ミャークニーではこの歌詞が唄われます。


古い大堂公民館。

この辺りはカルスト台地で、あちこちにむき出しの石灰岩があります。

昔は広い毛(原っぱ)だったのかもしれません。

仲原さんは国道115号線を下りながらも昔の「道」が残っているところはそちらを走ってくださります。

真下地ぬくびり(小坂)とは、もう人が通れる道もなくなっているようでした。

若地も現在は地名がなくなって、山里と呼ばれる場所だと言います。

「黒山」というのはなんでしょう。

仲原さんは、「おそらく伊野波の後ろあたりにあった山で、杣山(そまやま)のことでしょう。」と。

杣山というのは、
「近世の琉球王国において、木材を供給するために間切や島・村の共同管理下に置かれた山林のこと。
地元の住民は間切役人や村役人の指揮を受けて山の手入れに従事する夫役義務の代わりに建築や薪炭に用いる木材の供給を受けるなど一定の収益を受ける権利を得た。王府の山奉行がこれに関与する場合もあった。」(Wikipediaより)

つまり住民は住居の材料や、薪や炭を作るために山林の木を利用しようとするわけですが、それを王府が管理した山のことで、無届けで木を切ることができなかったわけです。

それで木々が生い茂っていたので「黒山」と言ったのではないか、と。



伊野波は「ぬふぁ」と発音しますが、元々は渡久地港から入ってきた船がこの「伊野波」のすぐ近くまで来ていたようです。

つまり「ふぁ」は「端」という意味。「那覇」は昔「なーふぁ」と言いましたが、同じ使われ方でしょう。

伊野波は今でこそ人通りの少ない場所ですが、昔は栄えた港の近くにあったわけです。

渡久地港辺りは、昔はもっと広く、今の本部中学校あたりも海だったようです。



もう少し仲原さんのご案内で巡ります。


(つづく)
  

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2015年12月08日

渡久地から登てぃ 《ナークニーを追って 3》

ナークニーを追う旅の続きです。

前回はこちら

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那覇のタカマサイ公園から高速に乗ってやって来た名護もやはり雨。



黄色いハイビスカスは雨でしっとりと。

もう名護に着いたのが夕方。

夕食を済ませて、民謡居酒屋「結いまーる」へ。



松田末吉先生のナークニーを聴きに。




安定感のある声で独特の節回しのナークニーや他の唄も素晴らしかったのでした。

翌日早く目が覚めて、本部町へ。

700年も昔、あの丘でタカマサイのあやぐを聴いた青年はヤンバルに戻ってどうなったのか。


そんなことはわかるはずもありませんが、

唄が生まれ育った土地の空気を吸い、景色を眺めるだけのことで感じる物があります。

そのために「本部ナークニー」の事を調べている方にお会いしようと
まずは本部町教育委員会の渡久地さんにお会いすることに。



渡久地さんは、元教育長でこの本部ナークニーに詳しい方を紹介してくださいました。

その根路銘国文さんとのツーショット。


渡久地さんには地図などの資料をいただきました。

本部ナークニーといえば山里ユキさんが唄った歌詞が有名ですが、
それは昔の本部ナークニーの歌詞や節回しとも少しだけ違っているようです。



この最後にある

渡久地からぬぶてぃ 花ぬ元比名地
遊び健堅に 恋し崎本部


本部町はこの「渡久地」から登った道を整備して「ミャークニー散策道」(ナークニーはここ本部町ではミャークニーと言います)を作っていました。



地図で見ると


この赤い線の部分です。

全部歩けば1時間はかかるけれど、歩きますか?

と聞かれましたが、冗談だとわかったのは、

「ここは歩きましょう」と歩いた道が急な坂道、雨で濡れた落ち葉が
バナナの皮状態であちこちにあるというのを見た時に(笑)

根路銘さんは少し年配の方でしたのでこちらが心配しました。



そして渡久地から登って、たどり着くのは


辺名地。

地図でみると山の中にあり、ゴルフ場の近くとあるので、こんな気持ちの良い平地があるなんて想定外!

今はさとうきび畑になっていますが、昔は「毛、つまり原っぱだったんですよ」と根路銘さん。

「ここは少し集落から離れているので三線や唄も聞こえない広い原っぱだったのでモーアシビには最適だったのでしょうね」

「ここに来るまでの山道だって、昔は木は薪に使われていたから、今のように木は繁ってなかった」とも。

つまりミャークニーの道やこの辺名地から見える景色も見通しがよく、今と随分ちがっていたわけです。


そして本部ミャークニーの下句
遊び健堅とぅ 恋し崎本部

あしびきんきんとぅくいしむとぅぶ、と詠むために「恋し本部」と書かれたものが多いのですが、これは「崎本部」(さちむとぅぶ)のことを指しています。


ここ辺名地から健堅に向かう道は、この谷間を降りて向こう側へ。

「健堅でモーアシビをしていると崎本部が恋しくなるんでしょうね」
と根路銘さん(笑)

「崎本部には美人が多かったんです。今もですが(笑)」って。

これは後からその理由がわかります。

さらにこの谷間には川がありますが、今では想像もつきませんが昔は船の通りがあったそうです。


この川の左上が辺名地、右に健堅が。
今はゴルフ場が場所を占めています。



「ウフグムイ橋」が掛かる「ウフグムイ川」です。

「クムイ」というのはおそらく船が一時避難したり停泊したりする「籠る・こもる」から来ているのだと思います。

隣には大きな渡久地の港などもありますが、このあたりも中国からの船なども停泊して昔は賑わったと想像できます。


すると、この川の両側の高台にある辺名地や健堅がなぜ華やかな「遊び所」であったのか、までも想像できます。




もう一度ミャークニー散策道の碑文を読んでみます。

「『ミャークニー』の元唄である『本部ミャークニー』の最も有名な一部を紹介する。

渡久地から登て 花の元 辺名地 遊び健堅に 恋し崎本部

唄を愛する人々にとって村ごとに残るその地のミャークニーの唄詞など覚えられない。
でもこの1節だけは必ず口にすることができる。ミャークニーは、スク道(宿道)をテーマにした唄であると同時に、モーアシビー(毛遊び)[若い男女の集い]の唄でもある。その元唄が『本部ミャークニー』なのである。

今を去る400年前、諸外国との貿易で富を築いていた琉球王朝が、薩摩藩に攻められた。薩摩軍勢は本部半島に上陸し、北山城(今帰仁城)を攻め落とし、琉球王朝は交戦することなく首里城を明け渡した。薩摩の侵略によって政治が変わり沖縄本島でも海路が主流であったトランスポテイションシステムに変革が起こり、スク道(宿道)と呼ばれる公道が発達するのである。

本部町」

つまり琉球王朝時代に首里から各地の番所(役場)に向かう公道が作られ、これをスク道(宿道)と呼びました。

その道はグスク時代からあった山の上の方にあった集落を繋いでいます。

現在は海側に車道があるのと、山が鬱蒼としているために私たちには想像もつきませんが。

そして、スク道が繋ぐ集落の近くには辺名地のように若い男女が集う遊び場、モーアシビ(毛遊び)の場があったわけです。

本部ミャークニーは、そのスク道を通ってモーアシビの行われた場所やその光景を唄ったものと理解できるわけです。


この場所に行かなければ、そのイメージも湧くことはありませんでした。

ここで根路銘さんや渡久地さんたちと別れ、次にお約束をしている今帰仁歴史文化センターにむかわねばなりません。  

Posted by たる一 at 16:19Comments(0)島唄コラム

2015年04月23日

タカマサイ公園 《ナークニーを追って》2

ナークニーを追う旅の続きです。

(「たるーの島唄人生」で読まれた方はすみません。)

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タカマサイ公園へ。



那覇市おもろ町の病院や住宅がならぶ高台にひっそりとその公園はありました。

通学路なのか、子どもたちがこの階段を上っていきます。



ここの石板にこんなことが書かれています。


「與那覇勢頭豊見親逗留舊跡碑(よなはせどとみおやとうりゅうきゅうせきひ)」
 那覇市文化財指定史跡 昭和51年4月16日

この碑はもと「タカマサイ」とよばれた当地に建てられたものである。
1390年察渡王の時に宮古の與那覇勢頭豊見親が帰順入貢し泊御殿に住まわされた。
ところが、言葉が通じないので、その従者に琉語を学ばせた。従者の一人に高真佐利屋という者がいて、毎夜、火立屋(のろし台)に登り、はるかに故郷をのぞみ「あやぐ」をとなえていた。これにより付近の村民、その旧宅の地を高真佐利屋原とよんだ。
1767年、ここに與那覇勢頭豊見親の子孫が、長さ一丈二尺、幅六尺の地を請い求め子孫拝礼の場として碑を建立した。
この碑は、昔、泊の地が諸島を管轄していた頃の記念碑である。なお、現在の碑は、沖縄戦で破損していたものを、1987年に復元したものである。(那覇市教育委員会)



1390年は琉球王国もまだ統一されていない察度中山王の頃に、宮古島を支配した豪族である與那覇豊見親(よなはせどとぅゆみゃ)さんが入貢、つまり良好な関係と自分を宮古島の支配者として認めてもらうべく察度王に貢物を持ってきたというわけです。

「言葉がわからない」ので従者に琉球語を学ばせたのだそうです。

その従者は高真佐利屋という名で、このタカマサイ公園に名を残しました。

公園になっていますが昔は高台だったようです。

いまでもここからは那覇の街並みがよく見えます。

昔は那覇港、さらにその遠くにある宮古島の方向を眺めるのに良い場所だったのでしょう。
泊の御殿の場所はわかりませんが、丘を下れば泊はすぐ。


従者の高真佐利屋は、ここであやぐを歌ったといいます。

丘に名前を残すということはとても素晴らしい歌声だったに違いありません。
しかも帰れない故郷への熱い想いを込めて歌ったのでしょう。

「あやぐ」とは「歌」のことですからどんな曲なのかはわかりません。

宮古のあやぐの歴史は少なくとも600年以上の歴史があると言われます。

もし、今残っている「とーがにあやぐ」がタカマサイの唄った唄ならば、それがこの出来事を通じて沖縄本島にも知れ渡り、別の伝説にもあるようにヤンバルから来た青年が宮古の唄を聴いてヤンバルに持ち帰ってナークニー(宮古根)が生まれた、という説とも絡んでくることになります。



ここでとーがにあやぐをタカマサイから聴いたことにして(笑)
自分がヤンバルの青年になったつもりでこの後名護に向かいます。
  

Posted by たる一 at 11:41Comments(0)島唄コラム

2015年04月23日

落平ぬ水 《ナークニーを追って》1

久しぶりの「島唄コラム」です。

先日4月10日から14日まで沖縄本島を訪れ、「ナークニー」が生まれた痕跡を探し、本部ミャークニーの道を探ってきました。

多くの方に教えられながらの旅を振り返り、沖縄のウタに少しでも近づけたら、と思います。

私の別ブログ「たるーの島唄人生」で書いたものをほぼ転載しますので、
すでに読まれた方は、すみません。
よろしくお願いします。

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2015年4月10日、沖縄は雨です。

ナークニーの系譜を求めて、あちこちを回っています。

空港から向かったのは「あやぐ節」にでてくる「落平の水」。



道ぬ美らさや 仮屋ぬ前 あやぐぬ美らさや 宮古ぬあやぐ
イーラヨー マーヌヨー 宮古ぬあやぐ エンヤラースーリ


にはじまる「あやぐ節」に

沖縄いもらば 沖縄ぬ主 うてぃんだぬ水に あみさますなよ
ばんたがかじゃぬ 美童匂いぬ うてぃがすゆら エンヤラースリ


この「うてぃんだ」がここの水というわけです。

ここの掲示板には(長いので一部を)

那覇港に出入りする船は、朝から夕方まで落平に参まり、取水のため、先を争って口論が絶えなかったという。中国からの冊封使(さっぽうし)一行の来琉を控え、落平を調べると、樋が壊れ、水量が減っていたため、泉崎村(いずみざきむら)の長廻筑登之親(ながさくチクドゥンペーチン)雲上等36人の寄付によって、1807年に落平の樋を修理し、さらに60間(約108m)程東に、新しい樋を設け、新旧2本の樋で給水に供したという(「落平樋碑記(ひひき)」)。



ここの石垣をボランティアで修理している方にお話を聞くと、もう最近では水は雨水くらいになってしまったようです。



ところで、なぜ、ナークニーの系譜に「あやぐ節」が?って疑問わきませんか?

それはもうすでに書いていますが(「あやぐ節」)、またおいおいまとめたいと思います。

まずは落平の井戸(カー)から。  

Posted by たる一 at 08:08Comments(1)島唄コラム

2007年01月04日

謹賀新年

たるーの「島唄まじめな研究」をご覧の皆様。
いつもご覧頂き、またいろいろなご意見などをありがとうございます。

一昨年の10月からはじめて、一年も過ぎ、2年目にはいりました。
足掛けでは3年目ですかね。

まったく沖縄語も読めず、分からず、しゃべれない私が沖縄民謡にかかわりだしてもう15年以上たちます。

その頃であったおじいさんが胤森弘さんという方で、プロフィールに書いているように広島での沖縄語研究家であり、沖縄県立図書館にもその論文が置いてあるという方だと知ったのはかなり後のことですが、その方からいろいろ教えていただくうちに、気がつくと沖縄民謡の教師となり、未熟ながら人前で沖縄民謡を歌わせていただくことも多くなっていました。

はじめは「白雲節、いい歌だけど意味が知りたい」というような気持ちで胤森さんに質問したり、彼が講義をしている場にでかけていったりしていましたが、このブログをはじめるようになって自分で訳にとりくむようになりました。

唄三線をやっているものにとって、言葉の意味が分かるということはとても大事です。
しかしヤマトゥンチュの私たちには、似ているようで複雑に見えるウチナーグチは難解です。

しかし、ふと思います。
今の沖縄にすむ若者たちもどんどんウチナーグチから離れてしまっています。
ンカシウタ 昔歌に残った古いウチナーグチも意味がわかる方は、それほど多くないと聞きます。
沖縄民謡は沖縄の人々にとって生活に欠かせないといいますが、それがとても一方では危機的な状況もあるように感じました。

沖縄民謡のこういう状況は、言葉の世界に反映した厳しい現実だとも思っています。これについては私見ではありますがいつかまとめてみたいと思っています。

とにかく自分が歌う唄について、とことん調べてみる。
そのためには「誰かがこう言った」とあいまいな根拠ではなく、それも限界はありますが複数の辞書や論文を頼りに調べてみようという姿勢は胤森さんから習った最も大切なことです。

私は言語学もやったことがなく正直言えば国語の成績でさえ誇れるものがなく、つまり日本語も満足いかない人間です。
それが自分の歌う唄のために、まったくネイティブでない言葉の唄にとりくもうと一から始めたものがこの「島唄まじめな研究」です。
みなさんの貴重なご指摘やご意見はなによりも大切です。

今後まだたくさんの方に教えをいただきながら、いままでの間違いも訂正しつつ、今年も、まるで大海原のような沖縄民謡の世界に漕ぎ出していきたいと思っています。

我ん思いてしや飛び鳥のごとく唄の海越えて届けぶしやぬ

(私の思いは飛ぶ鳥のように唄の海を越えて届けたいものだ)

旧年中は大変お世話になりました。
今年もよろしくお願いいたします。
  

Posted by たる一 at 11:19Comments(3)島唄コラム

2006年10月30日

今日で一年

このブログを続けてきて、今日でやっと一年。明日から2年目に入る。
一年で162曲、まあ重なっている曲もあるので曲数とはいいがたいのだけど、一年365日としたら、3日に一曲以上のペースではある。
でも、そんなことはどうでもよく、私の歌三線の師匠やウチナーグチ研究の方法を学んだ師匠たちに感謝したい。

たくさんの方からのご意見、ご指摘もありがたい。
言語学は全くの素人であり、沖縄語もネイティブにはしゃべれない、どころか「広島弁」「変」といわれる。
後から見直して間違いも、所々あったり、あいまいな部分もある。
そうしたところで直せるところは今後も直し続けていきたい。

歌三線というものが、もう私の生活から切り離せなくなった以上、歌う歌の意味を知りたいという欲求は抑えようがない。
沖縄に住まない理由のひとつは、こういう欲求が沖縄に暮らすと失せてしまいそうな気がすることもある。
歌の意味を訳したからといって、歌が「理解」できたとはいえない。
少なくとも私が胤森さんから習った手法は、信用できる複数の辞書を使って多面的に語句を調べることだった。しかし、辞書も「首里語」中心であり、宮古・八重山方言はまったく別でもあり、各地の方言は射程外。
そして何より、辞書に載っている意味は一部の「反映」でしかないと最近よく感じるようになった。
たしかに辞書がなければ、動詞、形容詞の活用も固有名詞も暗闇の中であった。しかし歌に込めた民衆の「想い」や「願い」、「情け」は同じ語句であっても状況によって変わる。
そこまで訳そうとすると、もう主観が入る。
ブログにも書いたが、胤森さんからこんな話を聞いた。

「情けは人のためならず」はよくしられているように「情けはその人の為にするものではない」「情けはその人の為にはならない」と解釈されるが元々は前者の意味だった。後者は、あとから付け加えられたもの。
しかし、訳としては後者のほうが直訳に近い。

こういう風に同じ言葉が複数の意味を持つことが、短い詞の形式である琉歌でも興りやすいということは肝に銘じておかなくてはいけない。

一年、もっといろいろなことを学んだ。
今後一年、またぼちぼちと、細長く続けていきたいと思う。
誰のためでもなく、自分のために。
そしてそれが誰かのためになるならハッピーだ。
大好きな沖縄の歌と今後も長ーく付き合って行きたいものだ。
  

Posted by たる一 at 23:40Comments(2)島唄コラム

2006年10月23日

「はりゆん」と「ハリクヤマク」

よく囃子言葉に「ハリ」という言葉がある。
安波節。
「かりゆしぬあしび ハリ うちはりてぃからや」
この歌詞の中に「ハリ」と「うちはりてぃ」という二つの語句の意味がわからないと悩んでいた。
まあ、しかし「ハリ」は囃子言葉。
ウチナーグチ研究の大師匠胤森さんからは
「囃子言葉には気をつけろ。手を出すな」
なんていうお言葉も頂いている。
確かに囃子言葉は、「島うた紀行」でも「変化しない部分」で昔の言葉を残している部分だという。
それで、「ハリ」はほっとく。

では「うちはりてぃから」はどういう意味か。
安波節2でも書いたように、

胤森さんは
「(心が)打ち晴れて」と訳されている。
胤森さんが紹介している『沖縄民謡』(杉本信夫)でも
「心が明るくなって」
さらに琉歌大成(清水彰 沖縄タイムス社)でも
「皆うちとけたからは」
と一様に心象風景として訳されている。

確かに天気が「晴れる」と、心が「晴れる」は同じ語句であり区別がない。
実際、天気が良いと心が晴れる。晴れるというのは前向きな表現である。

しかし、どうしてこうも心象風景ばかりとらえているのか、と疑問だった。


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Posted by たる一 at 22:58Comments(5)島唄コラム

2006年08月17日

直訳をめぐって

胤森さんからお手紙を頂いた。
前出の「お母さん」の訳をめぐっての感想である。
胤森さんには「直訳だと歌の気持ちが伝わらない」という指摘を受けたと話をしていた。それを気にされてのお返事である。
胤森さんは私の「ウチナーグチ」理解の先生。
一部省略してここで紹介したい。
また比較がわかりやすいように私の訳も載せて、胤森さんの訳は色をつけてある。

「テガミありがとうございました。早速わたしの解釈と感想を送ります。

お母さん

一、他所やでかしさみ 赤さ花持ちゃい ふくい顔しちょて 母ぬうすば
(関訳)他所はうまくやっている 赤い花を持って 嬉しい顔して母のお側に
(胤森訳)よその人はしあわせを得ているんだよ。赤い花(を)持って嬉しい顔(を)しながら母のお側に(いる)。


二、母の御情や忘て忘らりみ 母の日のくりば思いまさて
(関訳)母の御情けは忘れても忘れられないか?(忘れられない)母の日が来ると思いが強くなる
(胤森訳)母の御情けはわすれようとして忘れられるものか 母の日が来ると思いが勝って(くる)


三、我身や母居らん 白さ花持ちゃい母の御恩ちじにかみら
(関訳)私は母はいない 白い花を持って母のご恩を頭の上に乗せたい
(胤森訳)私には母(が)居ない 白い花(を)持って母の御恩(を)頭上にのせましょう


四、真白咲く花に我が心くみて活ちてうさぎらばふくいみそり
(関訳)真っ白に咲く花に私の心を込めて 活けてさしあげますのでお喜びください
(胤森)真白く咲く花にわたし(の)心(を)込めて活けてさしあげますから喜んでください。

「直訳」が不適切であるといわしめたひとつに、詩の初頭の(でかしさみ)にあるのではないだろうか。
(でかしさみ)=(うまくやっている)なのだろうか疑問を持ちます。
うまくやっている」と「うまく行っている」とでは、おなじ「うまく」でもわたしには大きなニューアンスの差があります。
 dikasiを「沖辞」(沖縄語辞典ー関注)でみますと図1のようにあります。

図1

(胤森さんの図には「幸福を得ること」に下線が引いてある)

第1義:(うまく行くこと)とあっても(うまくやること)とはありません。まずこれが誤解をうんだものでしょう。
第2義:(利益、幸福などを得る)。ここでは(幸せを得る)ことだと思います。「琉辞」(琉球語辞典ー関注)にはこれがありません。

図2(琉球語辞典)



(中略)

コトワザに
「情は人の為ならず」があります。
戦前は(私もそうですが)

a)というものは人の為に成すものではない(自分のためにするものである)

戦後は別の解釈があらわれました。

b)というものは人の為には成らない(だからやたらと人に情けをかけるな)

後者b)のほうが“直訳的”ではないでしょうか。
このコトワザをしめされて語句から前者a)の意味はすぐにはうかばないで説明されて理解できるのではないでしょうか。それだからよいコトワザだといえるのかもしれませんが。
コトワザとして2者直訳比較すると戦後の直訳的b)のほうがわかりやすくよいと思います。」

以上が胤森さんのテガミである。
私の調べ方の不十分さで「でかしさみ」を同じ直訳をするにしても「うまくやっている」という意味にしかとらず、それが読む人に誤解を与えているというのは、胤森さんのテガミでしっかりと分かる。
さすが30年ウチナーグチと格闘してこられた方である。

胤森さんは、こうも言われた。

時代が変わると歌の意味が違うように取られることもある。
それを、この歌の意味はこうだ、と決めることはできない。
違ってよいのではないか。


歌の面白さ、深さはここにあるのかもしれない。
たしかに歌の作られた時代背景から、ある意味を持って歌が生まれたのは間違いない。そのときは。
しかし、時代が変わり、人から人へ歌い告がれていく。
その歌を受け取る時代の人の思いや情けや状況は変わっている。

まったく昔と同じ解釈ができるのだろうか。

胤森さんは厳密に言葉の意味を探ることの大切さを今回私に注意された。
そのことは、歌をわかりやすくすることではない。
むしろ、不可解な歌詞になったり、さらに謎が深まることも少なくない。
逆に「あ、そうなんだ」と発見したような気になっているとき、「本当にそうなのだろか」と不安も湧く。
それが、情けは人のためならず のコトワザの話から教えられるように、短い歌詞から受け取れる内容というものは一つではないということだ。
直訳主義を貫かねば意訳もままならず、ということだろうか。




  

Posted by たる一 at 18:30Comments(1)島唄コラム