2015年04月23日
タカマサイ公園 《ナークニーを追って》2
ナークニーを追う旅の続きです。
(「たるーの島唄人生」で読まれた方はすみません。)
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タカマサイ公園へ。
那覇市おもろ町の病院や住宅がならぶ高台にひっそりとその公園はありました。
通学路なのか、子どもたちがこの階段を上っていきます。
ここの石板にこんなことが書かれています。
「與那覇勢頭豊見親逗留舊跡碑(よなはせどとみおやとうりゅうきゅうせきひ)」
那覇市文化財指定史跡 昭和51年4月16日
この碑はもと「タカマサイ」とよばれた当地に建てられたものである。
1390年察渡王の時に宮古の與那覇勢頭豊見親が帰順入貢し泊御殿に住まわされた。
ところが、言葉が通じないので、その従者に琉語を学ばせた。従者の一人に高真佐利屋という者がいて、毎夜、火立屋(のろし台)に登り、はるかに故郷をのぞみ「あやぐ」をとなえていた。これにより付近の村民、その旧宅の地を高真佐利屋原とよんだ。
1767年、ここに與那覇勢頭豊見親の子孫が、長さ一丈二尺、幅六尺の地を請い求め子孫拝礼の場として碑を建立した。
この碑は、昔、泊の地が諸島を管轄していた頃の記念碑である。なお、現在の碑は、沖縄戦で破損していたものを、1987年に復元したものである。(那覇市教育委員会)
1390年は琉球王国もまだ統一されていない察度中山王の頃に、宮古島を支配した豪族である與那覇豊見親(よなはせどとぅゆみゃ)さんが入貢、つまり良好な関係と自分を宮古島の支配者として認めてもらうべく察度王に貢物を持ってきたというわけです。
「言葉がわからない」ので従者に琉球語を学ばせたのだそうです。
その従者は高真佐利屋という名で、このタカマサイ公園に名を残しました。
公園になっていますが昔は高台だったようです。
いまでもここからは那覇の街並みがよく見えます。
昔は那覇港、さらにその遠くにある宮古島の方向を眺めるのに良い場所だったのでしょう。
泊の御殿の場所はわかりませんが、丘を下れば泊はすぐ。
従者の高真佐利屋は、ここであやぐを歌ったといいます。
丘に名前を残すということはとても素晴らしい歌声だったに違いありません。
しかも帰れない故郷への熱い想いを込めて歌ったのでしょう。
「あやぐ」とは「歌」のことですからどんな曲なのかはわかりません。
宮古のあやぐの歴史は少なくとも600年以上の歴史があると言われます。
もし、今残っている「とーがにあやぐ」がタカマサイの唄った唄ならば、それがこの出来事を通じて沖縄本島にも知れ渡り、別の伝説にもあるようにヤンバルから来た青年が宮古の唄を聴いてヤンバルに持ち帰ってナークニー(宮古根)が生まれた、という説とも絡んでくることになります。
ここでとーがにあやぐをタカマサイから聴いたことにして(笑)
自分がヤンバルの青年になったつもりでこの後名護に向かいます。
(「たるーの島唄人生」で読まれた方はすみません。)
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タカマサイ公園へ。
那覇市おもろ町の病院や住宅がならぶ高台にひっそりとその公園はありました。
通学路なのか、子どもたちがこの階段を上っていきます。
ここの石板にこんなことが書かれています。
「與那覇勢頭豊見親逗留舊跡碑(よなはせどとみおやとうりゅうきゅうせきひ)」
那覇市文化財指定史跡 昭和51年4月16日
この碑はもと「タカマサイ」とよばれた当地に建てられたものである。
1390年察渡王の時に宮古の與那覇勢頭豊見親が帰順入貢し泊御殿に住まわされた。
ところが、言葉が通じないので、その従者に琉語を学ばせた。従者の一人に高真佐利屋という者がいて、毎夜、火立屋(のろし台)に登り、はるかに故郷をのぞみ「あやぐ」をとなえていた。これにより付近の村民、その旧宅の地を高真佐利屋原とよんだ。
1767年、ここに與那覇勢頭豊見親の子孫が、長さ一丈二尺、幅六尺の地を請い求め子孫拝礼の場として碑を建立した。
この碑は、昔、泊の地が諸島を管轄していた頃の記念碑である。なお、現在の碑は、沖縄戦で破損していたものを、1987年に復元したものである。(那覇市教育委員会)
1390年は琉球王国もまだ統一されていない察度中山王の頃に、宮古島を支配した豪族である與那覇豊見親(よなはせどとぅゆみゃ)さんが入貢、つまり良好な関係と自分を宮古島の支配者として認めてもらうべく察度王に貢物を持ってきたというわけです。
「言葉がわからない」ので従者に琉球語を学ばせたのだそうです。
その従者は高真佐利屋という名で、このタカマサイ公園に名を残しました。
公園になっていますが昔は高台だったようです。
いまでもここからは那覇の街並みがよく見えます。
昔は那覇港、さらにその遠くにある宮古島の方向を眺めるのに良い場所だったのでしょう。
泊の御殿の場所はわかりませんが、丘を下れば泊はすぐ。
従者の高真佐利屋は、ここであやぐを歌ったといいます。
丘に名前を残すということはとても素晴らしい歌声だったに違いありません。
しかも帰れない故郷への熱い想いを込めて歌ったのでしょう。
「あやぐ」とは「歌」のことですからどんな曲なのかはわかりません。
宮古のあやぐの歴史は少なくとも600年以上の歴史があると言われます。
もし、今残っている「とーがにあやぐ」がタカマサイの唄った唄ならば、それがこの出来事を通じて沖縄本島にも知れ渡り、別の伝説にもあるようにヤンバルから来た青年が宮古の唄を聴いてヤンバルに持ち帰ってナークニー(宮古根)が生まれた、という説とも絡んでくることになります。
ここでとーがにあやぐをタカマサイから聴いたことにして(笑)
自分がヤンバルの青年になったつもりでこの後名護に向かいます。
Posted by たる一 at 11:41│Comments(0)
│島唄コラム
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