2017年08月25日

琉球使節の足跡を訪ねる その1

わずか一泊の鹿児島旅でしたが、私にとって得るものが多くありました。



振り返って私の「鹿児島旅」と言えば、小6の修学旅行で桜島や島津家の豪邸などに触れ、さらに薩摩方言の面白さにカルチャーショックを受けたものが最初でした。

それから鹿児島への旅を何度かはしましたが、今回のように「薩摩と琉球との関係」を意識した旅は初めてです。

今回の旅の動機はこの絵図でした。



鞆の浦歴史民俗資料館で、見たチラシにあったものです。他に「やさしい琉歌集」(小濱光治郎著)にもありました。

「薩摩から船出する琉球使節」という説明と「鹿児島市立美術館所蔵」の文字がありました。

私の浅学で知るこんな琉球船とは全く違います。



ジャンク船とも言われる中国の船を模した帆船で多くが二本ないし三本のマストを持っています。



いったい、この絵図の船は何なのか?

今年の春に鹿児島市立美術館にお電話をしました。

「残念ながら傷みが激しく現在は公開していませんが、11月には公開しますので、その時にどうぞ」とのことでした。

しかし、今回お盆で宮崎に帰省するので16日なら鹿児島に行ける、その時にデジタル写真で良いので見たいと厚かましく告げると、

「わかりました。休館日ですが職員はおりますので裏口からお入り下さい」

との丁寧な対応を頂きました。
これは、行くしかありません。



さっそく16日朝早く母親と仏壇にしばしの別れを告げて宮崎駅から特急「霧島3号」に乗り、鹿児島中央駅を目指したのでした。

朝早いので眠い顔です⇩(笑)


途中、私を産み3歳まで育てて亡くなった産みの母親の故郷「都城」に。

地元では(みやこんじょー)と発音。かつては薩摩藩の島津家の私領であったり薩摩藩の一部であった事もある地域です。廃藩置県の後は「都城県」も存在していました。そのため言葉が鹿児島弁に近いのです。

私の生みの母親も鹿児島弁に近い言葉だったのでしょうか。



山を抜けると広い盆地が広がるのが都城の特徴、お茶畑や煙草の栽培も盛んです。

ここを抜けると鹿児島県。



煙たつ桜島が見えてきました。夜中までの荒れた天気も収まり、太陽が照りつける夏の空に変わっています。

午前9時くらいに着いて、レンタカーの予約11時までの時間がもったいない、とタクシーに乗り「琉球館跡」と「琉球人松」へ。



その時気がついたのは、二つの史跡は鹿児島中央駅よりも一個手前の鹿児島駅の方が近いのでした。そこで電車を探しましたが1時間待つか、特急料金を払って特急に乗るか、の選択を迫られましたので渋々タクシーを選択したのでした。



琉球館跡の碑は市内の中心部のやや北部にある鹿児島市立長田中学校の中にありした。

タクシーで中まで入り、運動場の横を歩いて碑のそばへ。



この絵図は「天保年間鹿児島城下絵図」に描かれた琉球館。琉球館については、また後日詳しくまとめたいと思います。

まずはタクシーに乗り、次の「琉球人松」へ。

長くなりました。この辺で、また次回としましょう。








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Posted by たる一 at 16:40│Comments(0)島唄コラム
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