2012年06月16日

高離り節

高離り節
たかはなりぶし
takahanari bushi
高離り島(宮城島)の歌
語句・たかはなり 高離り島は現在の宮城島。


(民謡)

一、高離り(シタリヌ ヨーンゾ)島や(ハリ)物知らし所 な物知や(シタリヌ ヨーンゾ)びたん (ハリ)渡ちたぼり(ハーイヤ マタ シタリヌ ヨーンゾ)
たかはなり(したりぬよーんぞ)しまや(はり)むぬしらしどぅくる なむぬしや(したりぬよーんぞ)びたん (はり)わたちたぼり(はーいやまた したりぬよーんぞ)
takahanari(shitarinu yoo Nzo)shima ya (hari)munu shirashi dukuru naa munu shiya(shitarinu yoo Nzo)bitaN (hari)watachitabori (haa'iya mata shitari nu yoo Nzo)
(以下囃子言葉は省略)
高離り島(現在の宮城島)はものを教える所 もう悟りましたから島を渡らせてください



二、霞立つ山や 梅ぬ花盛い 風に誘わりてぃ 匂いぬしゅうらしゃ
かすみたつやまや んみぬはなざかい かじにさすわりてぃ にうぃぬしゅらさ
kasumi tatu yama ya Nmi nu hanazakai kaji ni sasuwariti niwi nu shurasa
霞がたつ山は梅の花が満開 風に誘われて匂いが愛しい!
語句・しゅらさ いとしい。<しゅーらーさん かわいらしい。



三、今日は行逢拝でぃ 色々ぬ遊び 明日や面影ぬ 立ちゆとぅ思ば
きゆやいちぇうがでぃ いるいるぬあしび あちゃやむぬかじぬ たちゆとぅみば
kiyu ya 'icheugadi 'iruiru nu 'ashibi 'asha ya 'umukaji nu tachi yu tu mi ba
今日はあなたとお会いして色々と遊びましたね 明日は面影が立つのだと思うと(さびしい)



四、押す風ん涼さ でぃちゃよ押し連りてぃ さやか照る月ぬ陰に遊ば
うすかじんしださ でぃちゃようしちりてぃ さやかてぃるちちぬかじにあしば
'usu kajiN shidasa dicha yo 'uchichiriti sayaka tiru chichi nu kaji ni 'ashiba
そよ風も涼しいよ さあ一緒に連れだってさやか照る月の陰で遊ぼうよ
語句・うすかじ そよ風。 ・でぃちゃさあ。


五、でぃちゃよ押し連りてぃ 眺みやい遊ば 今日や名に立ちゅる十五夜でむぬ
でぃちゃようしちりてぃ ながみやいあしば きゆやなちたちゅる じゅうぐやでむぬ
dicha yo 'ushichiriti nagami yai 'ashiba kiyu ya na ni tachuru juguya demunu
さあ連れ立って月を眺めたりして遊ぼうよ 今日は有名な十五夜なのだから
語句・なにたちゅる 有名な。


(舞踊)
上記一、二に加え

御主加那志奉公い 夜昼んさびん あまん世ぬしぬぐ 御許しゆ召り
うしゅがなしめでい ゆるひるんさびん あまんゆぬしぬぐ うゆるしゅみしょり
'ushuganashi medei yuru hiruN sabiiN 'amaN yu nu shinugu 'uyurushumishoori
首里の王様へのご奉公を夜も昼もいたしますので あそこの世のお祈りをお許しください
語句・めでい 「美公事」「王府へのご奉公、出仕、宮仕え、公務」【琉球語辞典】。・しぬぐ 「【<〔おもろ語〕シノグル〔踊る〕】シヌグ〔神前でくりひろげられた踊〕」【琉球語辞典】。一時、王府によって取り締まられた。


解説

民謡、舞踊、エイサーなどによく使われる「高離り節」。

この一番の琉歌は「手水の縁」などの作者として有名な和文学者平敷屋朝敏(ふぃしちゃ ちょーびん)の妻、真亀(まがみ)の作と言われている。

一番の歌詞は歌碑として宮城島にある。

高離り節
(この歌碑はうるま市与那城上原187の「シヌグ堂バンタ」にある。)

隣には歌碑の解説文がある。
高離り節

解説文より

碑文

この付近の地名をシヌグ堂という。一郭には、宮城島(高離島)の先住の民たちが暮らしたシヌグ堂遺跡がある。この地に高離節という琉球古典音曲と共に伝わる琉歌の碑を建てることとなった。

歌の作者は、近世沖縄の和文学者として名高い平敷屋朝敏の妻・真亀(まがめ= 1700 〜1739年)と伝わる。
タカハナリジマヤ ムヌシラシドゥクル
ナムヌシヤピタン ワタチタボリ(音表記)
真亀は、夫・朝敏が王府によって処刑されたことに伴い、士族の身分を追われて農民へと落された。王都首里から下り下って、真亀が宮城島と結びついたのは奇遇というしかないけれ
ど、私たちはこの不思議な縁を大切にしたいと考えた。

1700年代の沖縄。時勢は暗くまさに激流のごとくであったと言うべきである。貧しい中で接してくれた島の人々。そのムヌシラシに対する感謝の念と、海の向こうにワタッテ、イキタイ切なる願い!ナ、ムヌシヤビタンと悟ってはみて
も、人の母胎たる〈故郷〉への思いだけは遂に消し去ることは出来なかったのである。

文学と政治と島と農民たち。真亀と、島の先人たちの辛苦の時代を解きほぐしながら、高離節の軽やかなテンポに合せて沖縄の明るい未来について一考を巡らしてみるもよし。この歌碑が、一名〈もの知らせの碑〉として永く後世に語り継がれることを念願する。

2002年8月11日
「高離節」歌碑建立期成会


この一番の歌詞の作者の真亀の夫、平敷屋朝敏は、和文の「苔の下」「若草物語」などを著し、また組踊の「手水の縁」の作者ともされ、沖縄三十六歌仙の一人。

1718年の八代将軍徳川吉宗の慶賀使越来王子に随行して和文学を学んだりもした。

当時の琉球王府で実権を握る蔡温によって政治犯として礫刑(貼り付けて槍で刺される公開処刑だった)に処せられた。

家族は遠島に離散させられて、妻の真亀は高離島へ、という経緯がある。士族の妻から罪人として農民にならされて、この島でどのような暮らしをしていたのだろうか。

夫の平敷屋朝敏は貧しい農民たちの暮らしを向上させたいと農民が水不足に苦しんでいればため池を掘る事業を興した。おそらくそのことはこの高離島(宮城島)の農民たちも知っていたことだろう。
だから島の人々の助けもあったのではないだろうか。

二番以降はほかの琉歌を集めている。



発音について

古典では

一番の「な」は「にゃ」と発音している。

二番は「風にさそわりてぃ」は「風にさそわりる」。



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Posted by たる一 at 11:01│Comments(0)た行沖縄本島
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