2008年08月03日

あかなー

あかなー
'あかなー
'akanaa
アカナー
語句・あかなー 「夕焼けを起こす想像上の人格」【琉球語辞典(半田一郎)】。「童謡などにある語。月の中にいる者の意に用いる。月の薄暗い部分を水桶をかついで立っている者と見立てたものらしい。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)




一、アカナよ アカナ 何処かい行ちゅが アカナ 西ぬ海かい よう二才 蟹小取いが
'あかなーよ 'あかなー まーかい'いちゅが'あかな にしぬ'うみかい よーにーせー がにぐゎーとぅいが
'akanaa yo 'akanaa maakai'ichuga 'akanaa nishi nu 'umi kai yoo niisee ganigwaa tuiga
アカナーよ アカナー どこにいくのか?アカナー 西の海に よう青年の蟹をとりに
語句・まーかい 何処に <まー (何処。どなた。) + かい (に) ・いちゅが いくの? <いちゅ(いちゅん 行く。)+が(疑問をあらわす語句について疑問文を作る) ・にし 西。 普通「にし」は「北」を意味し「西」は「いり'iri」と発音するが、この唄では「日が落ちる方向」としての西方。「にしぬうみ」とは「東シナ海」を示すが、後に見るように那覇市の現在西町と呼ばれる一帯の海をそう呼んだ。沖縄語の「北 (にし)」は、もともと「北西の風」を「にし」といい、それが転じて「北」を「にし」と呼ぶようになったという説がある。(琉)。・にーせー 青年。・とぅいが 取るために→取りに。 この「が」がは「・・・に」「・・するために」。「動詞の連用形、または(連用形の末尾音節がC+Vの場合は)連用形+iにつく)(琉)



二、蟹小取てぃ何すが 我思やーになしゆん 汝うむやーや誰やが 十五夜お月様
がにぐゎー とぅてぃぬーすが わー'うむやーになしゅん 'やー'うむやーやたーやが じゅーぐや'うちちゅー
ganigwaa tuti nuusuga waa 'umuyaa ni nashuN 'yaa 'umuyaa ya taa yaga juuguya 'uchichuu
蟹を取って何にするか 私の恋人にする お前の恋人は誰か 十五夜のお月様
語句・ぬすが何にするのか <ぬーすが ・うちちゅ お月様。<うちちゅー お月様の子どもの言い方。



(別の歌詞)
二、蟹小取て何すが 我うないにたすん 汝うないや誰やが 十五夜お月様
がにぐゎーとぅてぃぬーすが わー'うないにたしゅん 'やー'うないやたーやが じゅぐや'うちちゅー
ganigwaa tuti nuusuga waa 'unai ni tashuN 'yaa 'unai ya taa yaga juuguya 'uchichuu
小蟹を取って何にするか 私の姉妹にたす(不明) お前の姉妹は誰か 十五夜のお月様
語句・うない 「兄〔妹〕からみた妹〔姉〕。」ここでは、姉妹としておく。多くの訳では「妹」と解されている。・たすん 不明。「たす(しゅ)ん」は「裁つ、裁断する」の意味。「足す」という意味はない。「する」と多くの訳にあるが、「なしゅん」の間違いかもしれない。


たるーのコメント

童謡である。
曲は「赤田首里殿内」とほぼ同じ。
夕方の夕焼けをみながら子どもが歌うそうだ。
アカナーという想像上の生き物は、月に住み、蟹を取って恋人にする。または姉妹に「たすん」。

夕焼けという幻想的な光景がこどもたちに夢をあたえ、このような唄が生まれ、うけつがれてきたのだろう。

しかし夕焼けは太陽が起こすもの。
そしてアカナーは月にすむ。
筋の通らぬ話も童謡ならば当たり前だ。

月にアカナーが住むということについては昔話がある。
(参考 琉球から日本人への手紙 )


西の海について

一番の歌詞に出てくる「西の海」(にしぬうみ)は那覇市の現在は西町と呼ばれる一帯にあった海の事である。

あかなー
Google マップの赤いマークに「西の海の跡」という説明板がある。

あかなー

文字を起こしてみる。


西の海跡(ニーシヌウミアト)
Nishi-nu Umi Site 西海遺跡

西村(現那覇市西)の西の海のこと。童謡「アカナー」にも歌われており、那覇の人々に親しまれた海辺であった。
かつて、那覇港先の三重城から、潮の崎(現那覇市辻三文珠公園一帯)にかけては、U字形に湾入しており、「西の海」と呼ばれた。沿谷岸部は「下り」と呼ばれ、「牛町下り」·「嘉手川下り」等の小字があった。1733年、那覇の人口増加に対応して、西の海の一部を埋め立てて、宅地にしたという(「球陽』尚敬王21年条)。
1879年(明治12)の沖縄県設置置(琉球処分)後、本格的に西の海の埋立が行われ、1882年(明治15)、「湯屋の前」(ユーワーヌメー)と呼ばれる一帯約400坪が埋め立てられ、東本願寺(現真教寺)が建立された。1888年(明治21)には、第百四十七銀行支店長田代静之助により、三重城に延びる突堤付近約4.000坪の埋立が計画され、後にこの一帯は、西新町1~2丁目となった。
1908年(明治41)、沖縄県により埋立事業が開始されたが、後に尚順(最後の琉球国王尚泰の四男)が引き継ぎ、1922年(大正11)に竣工した。一帯は、西新町3丁目となり、俗にミーガタ(新潟)と呼ばれ、1~2丁目はフルガタ(古洞)と呼ばれた。当初、ミーガタはゴミ捨て場同然だったといわれるが、1915年(大正4)6月に大正劇場が新築された。同劇場では、1932年(昭和7)に玉城盛義等が「真楽座」を結成し、新天地劇場の「珊瑚座」と人気を二分したという。
終戦後、同一帯は、更なる埋立と区画整理により、住宅地の他、倉庫街となっている。



「上り口説」で中盤に出てくる「なかぬはし」、三重城(みーぐしく)にまで行ける海中道路のような琉球石灰岩で作られた橋である。そこに囲まれた場所の海を「西の海」とよんだ。

あかなー
(ピンクのあたり)

今はもう見られぬ光景ではある。






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Posted by たる一 at 13:05│Comments(2)あ行沖縄本島
この記事へのコメント
以前、沖縄の歌を歌うのでその資料探しをしていた者です。
(私自身が広島出身とも書いたような・・・)

久しぶりにたるーさんの「島唄の真面目な研究」を見に行ったら
「あかなー」が追加されていて、更に「豊中混声合唱団」のことが
書かれているからビックリしました。
実はその歌う機会と言うのが私が入っている「豊中混声合唱団」の
定期演奏会でした。
今回こういった形で沖縄の音楽に触れ、普段やっている合唱とは違う
独特の音階や節回しに苦戦し、エイサーっぽく振り付けしながら歌う
と言う今までの私の合唱人生には無かったある意味「挑戦」でしたが
やっていくうちに沖縄の唄、またその中にある温かさに触れ、とても
楽しい演奏会になりました。次の日から筋肉痛との闘いでしたが・・・。
これでまた沖縄が好きになりました。
一度、沖縄に行ってその空気を味わいたいと思います。

追伸
広島なので間違いないと思いますが、教室の生徒さんって薫姐さんの
ことですよね?
Posted by hiroro(ひろろ) at 2008年08月07日 01:06
hiroroさん
コメントありがとう。

広島のご出身とたしかに書かれていましたよ。

不思議なご縁ですね。その薫さんは、別の教室の生徒さんのご家族の知り合いで、たまたま私たちの「発表会」を見にこられて三線を始めました。
ひろろさんとは「豊混」さん繋がりでしたか。

素晴らしい演奏会になったとうかがいました。よかったですね。
私もパンフレットをいただき隅から隅まで読みましたが、立派な内容で感動しました。

私たちも沖縄の音楽をやっているものとしてもっと勉強しないといけない、と思いました。

今後ともよろしくお願いします。
三線もぜひはじめられたらいかがですか?
Posted by たるー(せきひろし) at 2008年08月07日 08:41
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