2023年05月22日

くいぬぱな節 (八重山民謡)

くいぬぱな節
くいぬぱな ぶし
kui nu pana bushi
くいぬぱな節
語句・くい 単独では辞書(「石垣方言辞典」。以下「石」と略す)にはないが「くいち」で 峠 とある。「くいるん」①越える②またぐ(石)もある。 ・ぱな ①先 先端②岬③上の面 上部 (石)とある。 九州などでも「岬」を「鼻」(はな)と呼ぶ。「くいぬぱな」は地元新城島でもそう呼ばれる石積の遺跡の上に人工的に石を積み上げた場所。かつては船の航行を見張る物見台。「くいぬ端」と書かれたものもある。

(歌詞参照「八重山古典民謡工工四」上巻 大濱安伴 編著)


一、くいぬ端登てぃ 浜崎ゆ見りば まかが布晒し見むぬでむぬ
くいぬぱなぬぶてぃ はまさきゆみりば まかがぬぬさらし みむぬでむぬ
kui nu pana nubuti hamasaki yu miriba maka ga nunu sarashi mimunudemunu
岬の頂上(に)登って浜崎を見るとマカ(人名 女)の布(を)さらす(様子は)見ものである
語句・はまさき上地島の南側の海岸の名称。くいぬぱなから1kmほどの距離がある。・まか 女性の名前。・ぬぬさらし 貢納布(人頭税の税として納める布)が織りあがると最後に染めを定着させるなどのために海水に数時間晒す。その作業。・みむぬ 見もの。見るにふさわしい。


二、大石に登てぃ前干瀬ゆ見りば 松が蛸取いや面白きょうがい
'うふいしにぬぶてぃ まいびしゆみりば まちがたくとぅいや 'うむしるきょーがい
'uhu'ishi ni nubuti maibishi yu miriba machi ga taku tui ya 'umushiru kyoogai
大石に登って 前(の)干瀬をみると マツ(人名 男)が蛸(を)取るのは面白い狂言(のようだ)
語句・きょーがい (石)には「狂言」は「キョンギン」kyoNgiN とある。17世紀「江戸上り」などを通じて本土の文化が琉球に多く伝わった。能、歌舞伎、浄瑠璃など。能は特に士族の教養として流行した。竹富島の種取祭には「島狂言」と呼ばれ現在も残るほど「狂言」は流行していた。


三、松が取たる蛸や くやーまに打ち渡ち うる石とぅ添いてぃ渡しゃるきにゃよ
まちがとぅたるたくや くやまに'うちわたち 'うる'いしとぅすいてぃ わたしゃるきにゃよ
machi ga tutaru taku ya kuyama ni 'uchiwatachi 'uru 'ishi tu suiti watasharukinya yo
マツが取った蛸は クヤマ(人名 女)に渡して 石と一緒に渡した時に
語句・うる 「サンゴ」という解説(「うるま」の「うる」)と「海の」という解説もあるが、(石)には「サンゴ」は「カサイシ」「カソーラ」「インマチゥ」「ヌングンジゥマ」「ギシャグ」とある。「海」は「イン」「ウミ」とありはっきりしない。「うる石」で石としておく。 ・きにゃ ・・した時に 


四、側に立ちゅるひゃーや りんきなむぬやりば 鍋とぅまかい添いてぃ 打ち割たきにゃよ
すばにたちゅるひゃーや りんきなむぬやりば なびとぅまかいすいてぃ 'うちわたきにゃよ
suba ni tachuru hyaa ya riNkina munu yariba nabi tu makai suiti 'uchiwatakinya yo
側に立っているあいつはヤキモチ焼きだから 鍋とお椀を一緒に割った時に
語句・ひゃー 「本妻」と訳したもの、「ヒヤウという本妻」と訳したものがある。単語としては本島の「あぬひゃー」の「ひゃー」(あいつ)と訳しておく。意味は「本妻」をさすものと理解しておく。・りんき悋気。嫉妬。男女間のヤキモチ。【石辞】には「riNkï」とあるが八重山古典民謡工工四には「りんき」とある。・まかい お椀。茶碗。


五、大堂岡登てぃ東かい見りば 百合や花で見りば まるがかかん
'うふどーむるぬぶてぃ 'あがるかいみりば ゆいやはなでみりば まるがかかん
'uhudoomurī nubuti 'agaru kai miriba yui ya hana de miriba maru ga kakaN
大堂(地名)丘(に)登り東を見ると 百合の花と(思って)見ると マル(人名 女性)の下着
語句・うふどー 地名と思われるが不明。「村の近くのウフドームリゥ(大道盛)からウフドーバル(大道原)の畑や野原を眺めた」(精選八重山古典民謡集三 當山善堂)という解釈もある。・かかん 「[下裳]女が腰から下に着ける着物。腰巻状で後ろに合わせる式のものと、労働用の前から股を通すふんどし式のものと二種類ある」(沖縄語辞典)。ここでは腰巻のようなものであろう。


六、高弥久に登てぃ北ぬ渡ゆ見りば 片帆舟で見りば 真帆どぅやゆる
たかにくにぬぶてぃ にすぬとぅゆみりば かたふぶにでみりば まふどぅやゆる
takaniku ni nubuti nisi nu tu yu mniriba katahubuni de miriba mahu du yayuru
高弥久(地名)に登って北の海を見ると 片帆(を上げた)舟だと(思って)見ると 真帆であるぞ
語句・たかにく 「タカニク」と呼ばれる人工的に石を積み上げた「遠見台」。外国船などを発見したときに狼煙を焚いて黒島ー竹富ー石垣島の蔵元に情報を伝達したという。

コメント

八重山民謡。本島の「恋の花節」の元歌である。「恋の花」は「くいぬぱな」の「くい」を「恋」(くい)に掛けた、ほぼ替え歌だ。


新城島は西表島の南東にある小さな二つの島からなっている。二つの島が「離れている」ことからパナリ島と呼ばれている。北側を上地島、南側を下地島と呼び、「くいぬぱな」は上地島の中央の西側、集落に接した港を見下ろす位置にある。地元では石碑にカタカナでクイヌパナと書かれてある。


「布晒し」とは、人頭税として要求された御用布は海水に浸し、海岸で乾燥させてまた海水に浸すことを繰り返して染色を定着させ絣などの模様をうかびあがらせた。その作業のことである。

人物が多くでてきて、それらの関係をみると

マカ 布を晒す女
マチ 干瀬でタコを取り、クヤマに渡す
ヒャー(マチの本妻の人名か、代名詞か不明だが、おそらく本妻)マチを側で見ていて、短気を起こす
マル 下着の持ち主

素朴ないくつかの話が組み合わされているように見える。いずれにせよ上地島の素朴な人物、情景を切り取った唄である。作者は不明。

2023年5月4日から5日にかけて竹富町新城島を訪ねた。



「くいぬぱな節」に出てくる地名で訪れた場所を挙げておく。
一番  クイヌパナ
一番  浜崎
二番  大石  前干瀬(船上から)
六番  タカニク

問題点1 クイヌパナから浜崎は見えない


▲クイヌパナに登って実際に南方面を眺めてみるとアダンやガジュマルなどのジャングルと岩のために「ハマサキ」(浜崎)の海岸線どころか、島の西側の海岸線すら見ることはできない。

直線距離で1キロ弱はある。見えたとしてマカであるかどうか、布晒しをしているかどうか、分かるだろうか。

問題点2 前干瀬はほほ海中にあり、姿が見えるのは一年に一度と言われる。さらに大石から数百メートルの距離がある。
「前干瀬」(まいびし)は、西表島から新城島に向かう船上から見た、というより「この辺りか前干瀬だ」と島の関係者から教えていただいた。
地図から見ると大石から数百メートルは離れた、ほぼ海の中に隠れている岩礁で、一年に一回の大潮の時にしか海面に浮かび上がらないという。
そんなところでタコ捕りをしたマチは相当勇敢であり、それを眺めたこのウタの主は相当な視力の持ち主となる。

これら二つの問題点から「浜崎」や「前干瀬」にマカやマツがいるのではなく、その方向を眺めると近くに見えた、と理解するほうが自然となる。または地名を挙げて想像によって作られた歌詞なのかもしれない。

どちらも決め難い仮説ではあるが、
①このウタがほぼ琉歌形式であること(17世紀以降のもの)
②曲の音階が「かぎやで風」と同じ琉球音階に「レ」を加えたという特徴を持つこと。
③18世紀後半の屋嘉比朝寄工工四に「高袮久節(タカ子クブシ)」として掲載されていることなど
から
17世紀くらいに作られたものであることが推察される。

それに加えて、情景描写に地元の人にしては無理がある距離感があることから、地元民ではない役人が作ったという可能性も否定できない。

新城島は琉球で唯一「ザン」(ジュゴン)の捕獲が許可された島である。島民が命懸けで獲ったザンの干し肉は新城島から首里に送られ、薩摩藩への上納品となった。

首里王府はザンの数量など直接管理をしたかったのではないか。すると首里士族がウタを作った可能性も高くなると考えられる。


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Posted by たる一 at 06:29Comments(0)か行八重山民謡