ヨーテー節 2
よーてーぶし
yootee bushi
語句・
よーてー 囃子言葉。地元では「そうだね」という意味だという人がいる。
参考 「ヨーテー節」(玉城慎夫)
1,
邑寄しり寄しり 湧川邑寄しり(ヨー) 邑ぬ寄しらりみ 娘小寄しり (よーてー じんとー 娘小寄しり)
※括弧は以下省略
しまゆしりゆしり わくがーしまゆしり (よー) しまぬゆしらりみ あばーぐゎーゆしり (よーてーじんとー あばーぐゎーゆしり)
shima yushiri yushiri wakugaa shima yushiri (yoo) shima nu yushirarimi 'abaagwaa yushiri (yootee 'abaagwaa yushiri)
〇
村を寄せろ 寄せろ 湧川の村を寄せろ 村は寄せられないだろう? 娘を寄せろ
語句・
しま 村。「邑」を「むら」と読んで歌うときもある。・
ゆしり 寄せろ。近くに寄せろ。彼女の住む村を近くに寄せたい、という願望。・
あばーぐゎー ねえさん。田舎の言葉だという。「あばー」という。士族では「んみー」、平民は「あんぐゎー」。
2,
涌川女童や 天ぬ星心 拝まりやすしが 自由やならん
わくがーみやらびや てぃんぬふしぐくる うがまりやすしが じゆやならん
wakugaa miyarabi ya tiN nu hushi gukuru wugamari ya sushi ga jiyu naraN
〇
湧川村の娘は天の星のようなものである 拝むことはできるが 自由にはならない
語句・
ぐくる 心(くくる)だが、意味は「~のようなもの」となる。琉歌では定石。
3,
兼久下我部や 笠張いや居らに あん美らさマカテ 太陽に照らち
かにくしちゃがぶや かさはいやうらに あんちゅらさ マカテー てぃーだにてぃらち
kaniku shichagabu ya kasahai ya wurani 'annchurasa makatee tiida ni tirachi
〇湧川村の兼久と下我部には笠張り人は居ないのか あんなに美しいマカテーを太陽にさらして
語句・
かにく 湧川の小字の一つ。「かにく」「がにく」などは砂地を表す。・
しちゃがぶ 現在はない地名。昔、屋我地島に移転されて、後にもでてくる「我部」という地名になった。
4,
屋我地姉娘小達が 薪持ち山や ミンチリとぅサジャラ 馬ぬカンジュ
やがじうんみーぐゎーたーが たむんむちやまや みんちりとぅ さじゃら んまぬかんじゅ
yagaji 'Nmiigwaa taa ga tamuN muchi yama ya miNchiri tu sajara Nma nu kaNju
〇
屋我地の娘たちが薪を取る山としていたのがミンチリとサジャラ 馬のカンジュという山であった
語句・
んみーぐゎー 娘たち歌詞には。「うんみー」と振り仮名があるが声門破裂音がある「んみー」である。士族語で「ねえさん」、未婚の女性にもいう。・
たむんむちやま山がない屋我地島の住民が生活するのに(又は塩田の維持のためにも)必要な薪を対岸の湧川の山から取ることが許されていた。湧川の山は杣山(すまやま)として琉球時代から王府が管理した。・
みんちりとぅさじゃら んまぬかんじゅ 嵐山のあたりを昔からそう呼んでいたらしい。詳細については今問い合わせ中。
5,
朝凪とぅ夕凪 屋我地漕ぎ渡てぃ 我部ぬ平松に思い残ち
「ヨーテー節」にあるので省略。
6,
塩炊ちゃ小すりば 色や灼き果てぃてぃ 我がや塩炊ちゃやならんぎさぬ
まーすたちゃーぐゎーすりば いるややきはてぃてぃ わがやまーすたちゃーやならんぎさぬ
maasu tachaa gwaa suriba 'iru ya yakihatiti waga ya maasutachaa ya naraNgisanu
〇
塩炊き(塩作り)をすれば 色は焦げ付いて 私は塩炊きは無理なようだ
語句・
まーすたちゃー 塩田で海水を濃縮し、かん水を煮詰めて塩を作っていた。
7,
東門ぬギギチ 枝持ちぬ美らさ 我貴兄が妻ぬ身持ち美らさ
あがりじょーぬぎぎち ゆだむちぬちゅらさ わーやくみーがとぅじぬ みむちじゅらさ
’agarijoo nu gigichi yudamuchi nu shurasa waa yakumii ga tuji nu mimuchi jurasa
〇
東門のゲッキツ 枝の形の美しいことよ 私の兄の嫁の品行の美しいことよ!
語句・
ぎぎち ゲッキツ(月橘)。月夜によく香る、白い花をつける。
8,
遊びする屋我地 恋路する涌川 夜半参ぬ立ちゅせ 天底門口
あしびするやがじ くいじするわくがー やふぁんめーぬたちゅせー あみすじょーぐち
'ashibi suru yagaji kuiji suru wakugaa yahwaNmee ni tachusee 'amisu jooguchi
〇
モーアシビをした屋我地 恋を通わす湧川 夜半参りに立つ天底の門口(不詳)
9、
兼久坂下りてぃ 走川ぬ水や 水と思むてぃ飲だれ 潮ばやてる
かにくひらうりてぃ はいかーぬみじや みじとぅむてぃ ぬだれーうしゅばやてーる
kaniku hira 'urithi haikaa nu miji ya miji tumuti nudaree 'ushu ba yateeru
〇
兼久の坂を下りてハイカーの水を水だと思って飲めば潮(海水)だった
(解説)
本ブログでは2019年に、ヨーテー節は「島うた紀行」(仲宗根 幸市編著)の歌詞を元に解説した。
川田松夫氏が「西武門節」の歌詞を乗せた元歌である。
「島うた紀行」には元歌と別に「湧川ヨーテー節」として上の歌詞に近いものが掲載されている。
今回は「今帰仁ミャークニー」の歌詞調査をしていた2024年2月に、私に会いに来てくれたKさんからいただいたものを元にして解説している。そこには「湧川ヨーテー節」と書いてなく、ただ「ヨーテー節」とあるのでそのままにした。
ヨーテー節は屋我地島や今帰仁村湧川で広く今も唄い継がれている。
ミャークニーとヨーテー節
今帰仁ミャークニーの事を調べていくうちに、何故か隣の屋我地島にはミャークニーの痕跡がないことに気づく。今は古宇利大橋がかかり地続きのようになった古宇利島では今帰仁ミャークニーが盛んに唄われたようだ。その代わり屋我地島にはこのヨーテー節があったのだ。
実はヨーテー節とミャークニー、歌詞が共通することも多い。どちらでも唄われる歌詞がある。
さらに似ている部分がある。その話はまたの機会に譲るとして、今帰仁はミャークニー、隣の屋我地島はヨーテー節。さらに屋我地島と羽地内海の極めて浅いところで接し、さらにモーアシビもそれぞれの場所で行われたということで今帰仁湧川にもヨーテー節がある。
さて、上の歌詞の検討に入ろう。1番から3番までは湧川の娘讃歌となっている。湧川の男性が詠んだものより屋我地島の男性が詠んだと考える方が自然か。
薪持ち山
湧川の嵐山という高台から東を見下ろすと羽地内海を挟んで向こうに屋我地島が見える。そして手前に島々が並び、こちら側は湧川となる。
屋我地島は平坦な島で山がない。当時、材木やたき木などを湧川に渡って取っていた。琉球時代、王府は湧川の山々を「杣山」(すまやま)として管理し屋我地島からも材木やたき木を取りに来ることを認めていた。「たむんとぅやー」(薪取り人)は女性、娘たちだった。
4番の「ミンチリとぅサジャラ 馬ぬカンジュ」というのは、この山々につけられた名前のようだ。
これは今後少し詳しく調べる。
夜半参
8番の「夜半参に立ちゅる天底門口」がよくわからなかった。沖縄でも「夜半参」は行われ、女性が男性の装いをして神社に百度参りをするものである。明治期の歌劇「夜半参」にも描かれている。
ではどこで行ったのか。「天底門口」はどこなのか、地元の方にも伺ったがわかる方はいなかった。
天底の私が泊まっていた宿の近くに、天底井戸や神アシャギなどが集まる場所があった。
結局結論は出ていない。
▲この歌詞を下さった湧川のKさんにはあちこち案内もしてもらった。
▲9番の塩水が湧く井戸はここではないか、と連れていってくれた。