夜半参り
やはんめー
yahaNmee
◯
夜半参り
歌詞は「ふたり唄〜ウムイ継承〜」(大城美佐子、よなは徹)より筆者聴き取り。
一、
(男)今日やぬがやゆら 寝てぃん寝らりらん 心うかさりてぃ 出じてぃ行ちゅん
きゆやぬがやゆら にてぃんにらりらん くくるうかさりてぃ んじてぃいちゅん
kiyu ya nuuga yayura nitiN nirariraN kukuru 'ukasariti 'Njiti 'ichuN
◯
今日はなんだろうか 寝ても寝られない 心がおかしくなって(家から)出て来た
語句・
うかさりてぃ<うかさん。おかしい。可笑しい。滑稽である。の受け身→おかしくなって
二、
(女)しばし待ちみしょり 物ゆ頼まびら 片時やくまに休でぃたぼり
しばしまちみしょり むぬゆたぬまびら かたとぅちやうまにやしでぃたぼり
shibashi machi mishoori munu yu tanumabira katatuchi ya kuma ni yadhiditaboori
◯
少しお待ちください ある事をお願いしたいのです 少しの時間ここにお休みください
三、
(男)姿見ーでー男 声聞きば女 肝不思議でむぬ 急じ戻ら
しがたんーでーゐきが くいちきばゐなぐ ちむふしぢでむぬ いすじむどうら
shigata Nndee wikiga kui chikiba winagu chimu hushiji demunu 'isuji mudura
◯
姿を見たらば男 声聞けば女 心から不思議である 急いで戻りたい
語句・
んーでー見れば。<んーぢゅん。見る。過去仮定形。・
ちむふしぢ心から不思議。・
むどぅら 戻ろう。戻りたい。
四、
(女)男身にやちり 百日に通てぃ 忍でぃ来る心 思てぃたぼり
ゐきがみーにやちり ひゃくにちにかゆてぃ しぬでぃちゃーるくくる うむてぃたぼり
wikigamii ni yachiri hyakunichi ni kayuti shinudi chaaru kukuru 'umutitaboori
◯
男の姿に変装し 百日通って忍んで来たという心をお思いください
語句・
やちり変装して。
五、
(男)百日ん通てぃ 思いあらやしが 浮世義理ぬ上や 我自由ならん
ひゃくにちんかゆてぃ うむいあらやしが うちゆぢりぬうぃや わじゆならん
hyakunichiN kayuti 'umui 'arayashiga 'uchiyu jiri nu 'wii ya wa jiyu naraN
◯
百日も通って思い(愛)があるのだろうけれど 浮世の義理の上(に生きる)私は自由にはならない
六、
(女)むしか里いちゃてぃ ならんうぬ時や 共に計らゆる覚悟やたん
むしかさとぅいちゃてぃ ならんうぬとぅちや とぅむにはからゆるかくぐやたん
mushika satu 'ichati naraN 'unu tuchi ya tumu ni hakarayuru kakugu yataN
◯
もしか貴方と出会って(どうにも)ならないその時は 共に(死を)計る覚悟でございます
語句・
いちゃてぃ出会って。<いちゃゆん。出会う。「行き会う」は江戸時代にも使われていた言葉でもある。
七、
(男)命ゆい他に重さしやねらん 義理んうし退きてぃ無蔵になりら
いぬちゆいふかに んぶさしやねーらん ぢりんうしぬきてぃ んぞになりら
'inuchi yui hukani 'Nbusashi ya neeraN jiriN 'ushinukiti Nzo ni narira
◯
命より他に重いものはない 義理を押し除けて貴女と親密になろう(愛そう)
語句・
なりら「馴りら」という漢字が当ててある。親密になる。
八、
(女)天ぬ氏神ん まささあてぃたぼち 里連りてぃ宿に戻る嬉しゃ
てぃんぬうじがみん まささあてぃたぼち さとぅちりてぃやどぅきむどぅるうりしゃ
tiN nu 'ujigamiN masasa 'ati taboochi satu chiriti yadu ni muduru 'urisha
◯
天の氏神も優れてくださって 貴方を連れて家に戻る(のは)嬉しいことよ!
語句・
まささ優れていること。
【解説】
ある女性がある男性への恋の成就を神仏に願うために夜中に拝所に願を掛けることを「夜半参」(やはんめー)と呼ぶが、その願いが叶うというストーリーのコンビ唄である。
「ふたり唄 ウムイ継承」(大城美佐子&よなは徹)に収録されている。
このウタは明治期に盛んとなった歌劇の一つであり、同名の「夜半参」の中で交わされる男女のやり取りと類似している。
歌劇「夜半参」は、1910年に上演された短編喜歌劇で、この真剣な二人のやりとりを覗き、あわよくば女性の相手となろうとする男二人とその妻たちのドタバタの様子を描いている。
京都芸術大学「瓜生通信」には歌劇「夜半参」の解説として
「沖縄芝居は、明治中期に沖縄県民の娯楽として誕生しました。沖縄芝居である本作品は、1910(明治43)年の初演で、数々の名作を世に送り出した我如古弥栄(がねこやえい)作の短編喜歌劇です。
~あらすじ~
恋の成就の為、お百度参りに来る若い女性。その噂を聞きつけた村の男二人は、こっそりと様子を窺いに出かけます。念願叶った女は、意中の若侍とめぐり会い、二人の恋は成就しますが、納得いかない村の男二人。その妻二人も夫の行方を捜しに出かけ、てんやわんやの騒動となります。」((
https://uryu-tsushin.kyoto-art.ac.jp/detail/995))
その歌劇の脚本が記録された「昭和五十五年度無形文化財記録作成 歌劇 夜半参」(沖縄俳優協会補綴)には、このような解説がある。
「概説
夜半参は、お冠船踊の後に発生した一つの驚くべき現象であった。
お冠船踊は、琉球の国劇で、中国から冊封使が来たとき、その歓待のために催した劇と踊りで、首里三平中から立派な男達を選んで、踊りや劇の役割りをしたものである。 その美しい男を、女が見そめて夜半、人絶えた頃に男装して拝所に参り、 思う男に会わしめ給えと願かけをしたのである。
田舎には原遊びがあって、思う男女がかんたんに会うことができたが首里にはそれがなかったので、命を的にして、夜半参をする女が現われたのである。深窓にたれこめた娘たちに、男と遊ぶ機会が絶対になかったので、娘の中で勇敢なものが、この驚くべき夜半参りをするようになったものであろう。」
琉球王朝が中国からの冊封使歓待のために作り上げた御冠船踊が夜半参のきっかけだったと言う。
各地での夜半参
これまでも当拙ブログでは、八重山民謡の「月ぬまぴろーま節」を取り上げ、その中の「夜半参」に注目したが、2024年に18年ぶりに開かれた今帰仁ミャークニー大会でも「夜半参」という語句を含む琉歌を唄った。
その歌詞は
遊びする屋我地 恋路する涌川
夜半参ぬ立ちゅせ 天底門口
〇モーアシビをした屋我地 恋を通わせた湧川 夜半参りが立つ天底の門口
「夜半参」が八重山から今帰仁でも行われていたことがわかる。
また首里の末吉公園には「夜半参り御嶽(ヤハンメーウタキ)」と呼ばれた荒神が祀られた場所があるという。女性がイリガン(髪を膨らませるために自毛で作ったもの)を備えて祈ったようだ。
(今帰仁村天底にある「天底毘沙門大主」。男子禁制の拝所。もしかしたらこのような場所で夜半参が行われたのかもしれない)