たった一日のレポートに「その3」まで費やしてしまうという私の筆の「トロさ」に呆れつつ、鹿児島島市内に戻ってからは、まるでテレビ番組の「酒場放浪記」みたいになりますのでご容赦ください。
▲天文館のアーケード街にある有名な「しろくま」のお店「むじゃき」。
ニコニコレンタカーの二階にあるビジネスホテルに無事到着し、荷物を部屋に置いて、さっそく散策。
▲流行りの酒場。
鹿児島の繁華街「
天文館」も歩いて五分くらいの便利さ。
「天文館」という固い名前に対し、最近は「天街」(てんまち)という言い方もあるようです。
薩摩藩第8代藩主、
島津重豪(しげひで)が1773年に天文館(当時は明時館)を建てたことが名前の由来。
蘭学に傾注し、オランダ語も話せたという重豪は「暦学」や「天文学」の研究のために建てたのでした。ほかにも探求心だけでなく豪華な暮らしと贅沢三昧で500万両という莫大な借金も抱えてしまいますが。
その借金を返納するために、琉球支配、それによる中国との密貿易の拡大、奄美からの「サトウキビ」を安く買い叩くなど収奪の強化という側面を忘れるわけにはいきません。
薩摩藩は大借金を踏み倒し、大黒字をひねり出し、その後の「明治維新」への財政的背景にもつながります。
このシリーズ「鹿児島旅 その3」で書いた山川港の薬草園も活用したらしく、薬草研究も熱心で「質問本草」という書物にまとめてもいます。
こうした島津家の蘭学、つまり西欧、海外の学問や技術に深い関心を持つ姿に琉球使節も触れたに違いありません。琉球は薩摩藩と共にやっていくのだ、と諦観的な気分になったのでしょうか。極めて複雑な思いだったかもしれません。
などと考えつつ、一杯やりに天文館にある居酒屋へ。
鰹のタタキ。もう「初鰹」は過ぎていますが新鮮です。脂が少なく鰹の旨味も程よく。
鰹は昔から食べられていた魚ですが、古くは生食はあまりせず加工していたようです。鰹節やタタキはこの名残でしょう。
「堅い魚」という意味の「かつ・うお」という説が有力。
鹿児島も北上して成長していく鰹の漁場の一つ。薩摩藩の頃からも食されていたのは間違いなく、琉球での鰹よりは旨味が増した九州の鰹を使節も食したでしょう。
それに合わせたのは、
焼酎であったか、どうか。
日本酒とは違う焼酎の「蒸留」技術は15世紀にはタイから琉球に伝わっていたといいます。
鹿児島には「伊佐市の郡山八幡神社では、1559年(永禄2年)に補修した際の、大工が残した落書き」があり、その内容は
「焼酎も振る舞ってくれないけちな施主」(笑)
と書いてあるそうです。
16世紀には薩摩にも焼酎はあったということです。
ただし
芋焼酎は1705年の「前田利右衛門」による「芋」の薩摩上陸以降ですから18世紀を待たねばなりません。
▲「
天保年間鹿児島城下絵図」の片隅に描かれている「
花見をする琉球人」の絵図。(鹿児島市立美術館 蔵)
三線(のようなもの)を弾き、踊る人も見えます。横の説明書きには「酔(って)踊(る)」の文字も。
19世紀に書かれた絵図ですから、芋焼酎だったのか、琉球の泡盛だったのか。恐らくは琉球館に詰める親方(うぇーかた)連中なのでしょう。
先ほどの居酒屋では、焼酎は各自の目の前に置いてあり「
焼酎飲み放題 五百円」との札がありました。かなり飲んで食べて酔いましたが、支払いのお値段も三千円でお釣りが来るほど。従って飲み過ぎには気をつけたいものです。
ほどほどにして宿に戻りましょう。
明日はまた遠出しなくてはなりませんから。
ではまた。