那覇散歩 その2 〈辻〉

たる一

2019年07月08日 05:44

仲島から那覇市の西へ。辻を訪れてみる。




今では色々なホテル(?)などが多く目立つ歓楽街という感じの街の中に小さな丘があり、そこには「鎮魂」の文字が見える。


その手間に説明碑がある。



いつものように長いが引用する。

『辻村跡(チージムラアト)

 那覇の北西部にあった花街(はなまち)跡。辻村(チージムラ)、または単に辻(チージ)といい、女性が主体となって生活した場所であった。辻の女性は「ジュリ」と呼ばれ、「侏イ离」・「尾類」の字が当てられた。

 琉球王国におけるジュリの起源については不明だが、15世紀以降、唐(とう)や南蛮(なんばん)(東南アジア諸国)、大和(日本)と交易を行った時代、中国からの冊封使一行や大和からの商人等をもてなした「ジュリ」が居たといわれる。『球陽(きゅうよう)』には、1672年に「辻」・「仲島(なかしま)」に村を創建し、そこに多くのジュリが住むようになったとあり、この頃、各地に居たジュリを「辻」・「仲島」・「渡地」の3 ヵ所が琉球の花街として明治期まで存続した。

 1879年(明治12)に沖縄県が設置されると、ジュリは18歳で登録証(鑑札(かんさつ))が交付された。1908年(明治41)に「仲島」・「渡地」の花街は廃され、「辻」に統合された。これにより「辻」は、政財界の要人、官公庁・教育界の指導者をはじめ、地元の商人などが出入りし、接待や宴会が行われた。また旅客が宿泊する場所ともなった。ジュリは、これらの客をもてなし、安らぎを与えるために、料理や唄・三線(サンシン)・琴・踊りなどの芸事にも磨きをかけた。「辻」は、沖縄県下最大の社交場、「華やかな」場所として知られた。

 一方、辻の女性は、「アンマー」(ジュリの抱え親・貸座敷の女将)を筆頭に、「ジュリ」、「ナシングヮ」(アンマーが産んだ子供)、「チカネーングヮ」(貧困のため幼い頃に「辻」に売られた子「コーイングヮ」ともいう)などで擬制的家族を作り、「辻」の親・姉妹はもとより、故郷の親・兄弟をはじめ、人間社会における義理・人情・報恩を第一の教えとして生活した。また、神への祈りと祭りを取り仕切る「盛前(ムイメー)」と呼ばれる神職を中心とした女性による、女性のための自治組織を整え、二十日正月(はつかしょうがつ)の「ジュリ馬(うま)」行事を始め、言葉・立ち居振る舞いから、衣裳・髪型・料理・芸能に至るまで独自の文化を創り上げた。

 1609年の薩摩藩島津氏の琉球侵攻を経て、1672年に誕生した華やかな「辻」も1944年(昭和19)10月10日の空襲により消滅し、その幕を閉じた。』


簡単にまとめられているが、「辻」すなわち遊郭の歴史は琉球王朝が薩摩の侵攻を受けてから戦前まで続いていたことがわかる。


▲「客をもてなすジュリ」


▲「『琉球美人』と称されたジュリたち」


▲「ジュリ馬」は旧暦の1月20日に行われる芸能。行列を作って歌い踊る事で、「故郷の家族に元気な姿を見せる」という意味があると言われている。

遊郭と民謡

遊郭を歌ったり、遊郭が出てくるウタ、琉球民謡は多い。

前回も見た仲島節、花口説、恋の花、海のチンボラー、西武門節、三村踊り節などなど枚挙にいとまがない。


「琉球交易港図屏風」にも「辻村」が、戯画的であるが描かれている。鳥居の左の村が、そうだ。

遊郭の仲島に通い、作詞作曲活動で花を咲かせた人物がいる。この人がいなかったら今日のような琉球芸能にならなかったかもしれない人物、それは幸地賢忠、琉球古典音楽の祖とも称される。琉球古典音楽の流れをくむ野村流、安冨祖流の源流とされる湛水流の始祖と言われる人物だ。

琉球芸能、文化にとって「ジュリ」と呼ばれた遊女たちや、その組織であった辻や仲島がなくてはならない存在だとされるのは、この幸地賢忠が作った「暁節」や「首里節」という代表的な曲がジュリと共に作った、とされることだ。(参考 「民謡を媒体した『辻遊郭』と民謡に表象された『ジュリ』与那覇晶子)

首里の士族たちは王府に勤めながら、ジュリたちにウタ三線、舞踊などの芸能を教えたという。そして、そのジュリたちから新たなウタ三線、舞踊のヒントを得ていたのではないか。

仲島、辻から今度は「渡地」に向かう。

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