私の旅の共googleは鹿児島市内から山川港までは車で約1時間半かかることを教えてくれます。おにぎり一個とお茶をレンタカーに積んで出発。
桜島を左手に見ながら海沿いの国道を南下します。
琉球使節が琉球を出て、薩摩藩の領地に入るのは奄美の島々を除けば山川港が初めて。また1609年の薩摩琉球侵攻の軍勢もここ山川港から出港しています。琉球にとっては因縁深い港でしょう。
ダンチクがあちこちに伸びています。
やはり南国、アメリカデイゴとも呼ばれるカイコウズが赤い花をつけていたり、ハイビスカスの花もあちこちに。
山川港から鹿児島城下に陸路で向かった使節もありました。
海路で向かった琉球使節は船の上からながめたことでしょう。
平日の交通量の多さで2時間近くかけて山川港に到着!
もう午後2時すぎ、おにぎりはもうお腹の中(笑)お茶も飲みきり、次を買わなくては。
指宿を過ぎたあたりからは車は急に減り、山川港あたりは釣り客と観光客もまばらな静かな港町という印象でした。
「
山川港まち歩きガイド」というサイトを少し前に見つけ、この辺りにある琉球使節に関する史跡はチェックしておきました。もちろん、ここは鰹節の製造でも有名ですからそちらも。
掲示板には
1659年に開園し、レイシ、ハズ、キクコ、カンラン、リュウガンなどの薬草が多く植えられ現在ではリュウガン(樹齢300年以上)が残されているだけ、だとか。
リュウガンの実が幾つかなっておりました。樹齢300年の木に!
さて次を急ぎます。外気温がとんでもないことになってます。夕方までには鹿児島市に戻らないと。
山川港に琉球の人々が寄港したことの証拠をしめす碑、
琉球人鎮魂墓碑を探します。
先ほどの「山川港まち歩き」マップを片手にgoogleを使いながら探すのですが見当たらない!
このマップ通りの場所に行っても何もない。そもそもこの琉球の碑を案内する看板はなかったのでした。
ガイドをされている方にも電話しましたが。。。「わからない」と。
「えい、ままよ!」とは叫んではいませんが、この「
河野覚兵衛家暮石群」の横の階段を上るとそこにありました。マップと設置場所は少し違っていたようです。
こう書かれていました。
【琉球人鎮魂墓碑
江戸時代には琉球から山川港へ幾たびも使臣船が来航した。この間遭難・客死した使臣は数百名にも上るが、明治10年代それらの琉球人の墓も取り壊され西南の役戦没者招魂塚が造成された。
新たな交流元年にあたり琉球人鎮魂墓碑を、を建立した。
2009年11月29日
琉球・山川港交流400年事業実行委員会】
西南の役の戦没者を祀ることは良いのですが、何故に「取り壊す」のか。
一年に一回の「薩摩上り」が琉球には義務付けられ、それ以外でも多くの行き来がありました。必ず経由するのがこの山川港。そして航海の途中で亡くなった方々のお墓が山川港にはあったようです。
そのお墓が破壊されていったとは。
墓碑の前で深く頭を下げて、この疑問を心に刻みながら次に向かいました。
山川港の街並みには、あちこちに「石敢當」があります。やはり琉球の人々が住んだ痕跡でしょうか。不思議にもシーサーは見当たりませんでした。
そして、もう一つの琉球の人々のための「琉球人望郷の碑」を探します。
少し小高い丘の上にありました。さっきの「琉球人鎮魂墓碑」と少しだけ違う碑文でしたので、こちらも記しておきましょう。同じ目的で建てられた碑でしたが地元の方々の優しい思いやりも込められていました。
琉球人望郷の碑
江戸時代には琉球から山川港へ幾たびも使臣船が来航した。この間遭難・客死した使臣は数百名にも上るが、明治10年代それらの琉球人の墓も取り壊され西南の役戦没者招魂塚が造成された。
新たな交流元年にあたり、福元墓地の一角に琉球人の鎮魂墓碑を、眺望の利くここ愛宕山には「琉球人望郷の碑」を建立した。
時代の潮流に翻弄されながらも身命を賭して往還逝去した琉球の古人たちに、心から敬意を表するものである。
2009.11.29.
琉球・山川港交流400年事業実行委員会
下線のあたりが、若干違いがあるのです。
まあ、それは良しとして、もう少し山川港をウロウロしようと思いましたが、レンタカーに乗った瞬間、かなりの暑さの中を動いたせいか、おにぎり一個しか食べていないせいか(笑)少しだけ疲れを。歳なんですかねえ。。
この丘にはガジュマルかと思ったのですがアコウの木や月桃がたくさん。きっと亡くなった方々も寂しくはないだろうと思いました。
五人番アコウの木も見たかった。
「五人番」とは海外などの船を見張るために山川港に設置された見張り番。行けなくて残念。。、
まだまだ行きたい所がありました。鰹節の製造所や、他にもいくつか。しかし、疲れには勝てません。
道の駅で、鰹節を探しました。削り器も。さすがに見た目も綺麗な鰹節が比較的廉価で。
値引きとおまけにつられて買った鰹節と削り器は今重宝しています。
まだまだゆっくり見て回りたいという気持ちに後ろ髪を掴まれて、しかし疲れた、夕方までには戻らないとという気持ちで山川港を離れました。
「さつまいも」は、1605年に琉球の野國總管が中国から苗を持って帰り琉球で栽培が始まりました。沖縄では「ンム」「ウム」などといいます。
それを持ち帰ったとは書いていないのは残念。
この辺で閉店の鐘のごとくお腹が鳴りました(笑)
今夜は鹿児島市内に泊まり、明日はいよいよあの絵図が書かれたと思われる場所へ。
また次回!