那覇散歩 その3 〈渡地〉

たる一

2019年07月08日 05:48

渡地と民謡

先月沖縄を訪れた際に那覇、壺川に宿を取り、ぶらぶらと仲島、辻と歩いた話の続きを書いている。
遊郭の歴史と民謡、ウタが密接な関係にあったということも見た。

那覇にあった主要な遊郭は辻、仲島、渡地の三つ。
その「渡地」(わたんじ)にも行きたいのはヤマヤマだが、その街は現存しない。

人気のある民謡には登場する。

「三村踊り節」

♪辻仲島と渡地と三村
三村の尾類小達がすりとーて客待ち話 
美ら二才からはい行ちゃらなや♪


(たるー訳)
辻、仲島、渡地という三つの村 
三つの村の女郎達が揃って客を待ちながらの話 
イケメンの青年に早く会いたいな

他にも「海のチンボラー」などにも出てくる。
では遊郭があったその「渡地」とはどのあたりだったのだろう。昔の地図を見てみよう。



▲ 赤く囲ったあたりが渡地だった。その少し右に仲島遊郭と書かれている。

ゆいレール「壺川」の駅の前にかかる「北明治橋」のたもとに「奥武山の歴史をみまもる 明治橋の移り変わり」という説明碑がある。

その中の写真。明治初期の地図とあり、まだ那覇と対岸(垣花町)には橋がなかった頃だ。

渡地には二本橋が書かれているが、その昔は渡し船で渡ったという。そして、対岸の垣花町にも渡し船で渡った。それが地名「渡地」の由来だという。

現在のどの辺りになるのか。



グーグルマップを見ると上の地図にもあるが「在番奉行所」(琉球時代の薩摩藩の役 役場)の跡との位置関係から比較してみると、だいたい赤く囲んだあたりとなるだろう。住所でいうと西町一丁目と通堂町一丁目、沖縄製粉付近になるのではないか。

ちょうど那覇ふ頭船客待合所の建物の少し東側になる。

渡地の周辺

その那覇ふ頭船客待合所に行ってみる。


▲対岸には御物城(オモノグスク、読み方はウムヌグシク)がある。


▲琉球王朝時代の宝物庫。中国、東南アジアと交易が盛んだった頃に入手した宝物が収められていた。テレビの「ブラタモリ」でも取り上げられ、白磁の割れた陶器が散乱している様子も放映された。こうした歴史的建造物も米軍基地の中にある。

先程も取り上げた北明治橋たもとの説明板「奥武山の歴史をみまもる 明治橋の移り変わり」に渡地と御物城が描かれた絵があった。

▲今の明治橋は昔からあったのではなく、最初は渡地から垣花町(市街地から那覇空港に向かう道路のあたり)に橋が架けられていて、それが明治橋と名付けられていた。まだ形がはっきりしている御物城が描かれている。この当時は城の上に料亭「風月堂」があった。

北明治橋から北西を眺める。仲島と遠くに明治橋が見える。その向こう側に渡地があったわけだ。

▲北明治橋はゆいレール壺川の駅前に奥武山公園と繋げられた木造の橋である。今回初めて渡った。
ここの説明板はとても詳しく、写真や絵も多く分かりやすい。

三つの遊郭と琉球の芸能

たとえ遊郭が人身売買であり、今日では許されない事であっても、そこで暮らしたジュリ(女郎)たちと士族や庶民との間で芸能が交流され発展してきたことは隠しようもない事実だ。

地方の庶民はモーアシビで芸能を発展させた一方、那覇など都市部の士族や庶民は遊郭がそれに取って代わった。琉球王朝の中ではウタ三線、舞踊も全て男性の仕事であったが、遊郭では女性たちがウタ三線をし、舞踊の主体だった。

古典音楽の始祖すら曲の発想を遊郭にもとめた。遊び歌の多くは遊郭で発展した。

そう考えると、今でも那覇のこの遊郭の場所を訪れ、その光景を目の当たりにすることでウタへの思い入れも深くなる。ただ遊びのウタであってもジュリたちがどのような想いだったのか、家族への思いや生きることへの思いはどうだったのか。歌詞そのものからは浮きださない情景もある。歌詞を訳したからと言って、そこだけでは分かり得ない人々の思い入れもある。少しでも近づけないか、との思いでの那覇散歩、ひとまずこれで終えよう。


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