那覇散歩 その1 〈仲島の大石〉

たる一

2019年06月14日 12:21

2019年5月29日から沖縄に滞在した。その時の雑感を書いた。その1。

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早起きの習慣は抜けない。沖縄に行っても5時には起きている。いや、沖縄だからこそか。

今回、宿を那覇市の壺川(つぼがわ)に選んだのは近くに仲島の大石があるなどいくつか気になる場所があったからだ。早速カメラを持って散歩に出た。

ゆいレールの駅「壺川」から一つ先にある「旭橋」のすぐ近くにその「仲島の大石」がある。


▲仲島の大石。右にある建物はバスセンター。3階に沖縄県立図書館が入っている。


▲絵に描かれた仲島の大石と仲島の遊郭。
(文字は筆者)
大石(うふいし)ではなく大瀬(うふし)と呼ばれていた。
その大石は海の上に突き出た琉球石灰岩で、バスセンター側が陸地だった。大石の下には波に削られた跡、ノッチがあるのはそのためだ。

遊郭仲島には吉屋チルーも居た。多くのウタ、琉歌が生まれている。その一つが「仲島節」だ。作者は不明。

♪仲島の小橋 あいんある小橋 じるが小橋やらわかりぐりしゃ

仲島の遊郭に行くには小堀にかけられた橋を渡らねばならなかった。それ以外にもいくつも橋があったのだろう。「仲島の小橋というが、あんなにも小橋があるじゃないか どれがその小橋なのかわかりにくい」という意味だ。その小堀は上の絵では「仲島池」とある。

仲島の大石から北西に通りを少し歩くと最初の交差点の角に小さな説明板がある。



説明板にはこうある。

『泉崎村(いずみざきむら)にあった人工の溜(た)め池跡。
 かつて泉崎村の地先一帯は、久茂地(くもじ)川が漫湖(まんこ)に合流する河口で、土砂が堆積(たいせき)した中州(なかす)は「仲島(なかしま)」と呼ばれ、その後の埋立により陸続きとなった地域である。
 河口(かこう)の水が湾入(わんにゅう)していた所は、17世紀中頃、泉崎村在住の唐人(とうじん)の薦めにより、火難封じの風水として、土俵をもって潮入口を塞ぎ、溜め池(小堀(クムイ))とした。小堀は、王国時代から養魚場として使われ、後に泉崎村の管理地となり、池から上がる収入で小堀の浚渫費(しゅんせつひ)に充てたという(『南島風土記(なんとうふどき)』)。
 仲島小堀では、その後も鯉(こい)や鮒(ふな)が養殖されていたが、昭和初期には埋め立てられ、1937年(昭和12)、埋立地に済生会(さいせいかい)病院が建設された。
 一方、仲島には、1672年に「辻(つじ)」(現那覇市辻一帯)とともに花街(はなまち)が開かれた。歌人として有名な「よしや」(吉屋チルー)は、この仲島で生涯を閉じたとされる。泉崎村から仲島へは小矼(こばし)(仲島小矼)が架けられており、花街への出入り口であった。仲島は、1908年(明治41)に辻に統合・廃止され、小矼も埋立・道路拡張により消失した。
 花街廃止後、埋立により住宅地として発展した泉崎は、沖縄戦後の区画整理により、往時の街並みとは異なった住宅地となった。』




▲いつも味のある「仲島節」を聞かせてくださる大城美佐子さん。5月24日に広島は「うちな〜」さんのライブで素敵な歌声を聞かせていただいた。こうしたウタを味のある声で歌う方は少なくなった。残念なことである。

さて、大石のところに戻ろう。もう一つ残念なことがある。


この解説板は、バスセンターが建て替えられてからわかりにくい場所になってしまっている。説明板は元からあった場所である。昔のバスセンターでは、通路からよく見える場所だった。しかし今は花壇によって人はそこまで行けないようになっている。植えられた草花をかき分けて、ここまで見に来る方はまず居ないだろう。そもそも見えないのだから地元の方もあまり知らないのではないか?私も教えて頂いて知った。
とても残念な事である。

その説明板。



刻まれた文字にはこうある。

沖縄県指定史跡 天然記念物 昭和33年3月14日指定

高さ約6メートル、中央部の周囲は約25メートルの琉球石灰岩で、岩の下の方は波に侵食されてくぼんだ「ノッチ」と呼ばれる跡がある。昔このあたりが海岸であったことを示している。久米村の人々は「文筆峰」とも呼び、村の風水にかかる縁起のよい大石として珍重していた。
また、この付近に仲島の遊郭があり、多くの遊人が訪れ賑わっていた。歌人として有名な「よしや(吉屋チルー)」も、この遊郭で短くはかない生涯を終えたと伝えられている。1908年(明治41年)には、仲島の遊郭は辻に合併移転し、大正初年までにはこの付近は埋め立てられ、現在に至っている。
平成2年3月 沖縄県教育委員会 那覇市教育委員会



遊郭、花街、それ自体はとても悲しい歴史であり、女性の人権を無視した封建制度そのものである。貧しい農村から女子が売られていった。人身売買の歴史である。

だからといってその歴史そのものを「無かった」ことにはならない。

琉球の芸能文化には三つの要素があると言われる。
一つは琉球王朝を中心にした御冠船芸能といわれる中国との外交で生み出された組踊などの芸能。琉球使節と薩摩、日本文化も関わっている。

もう一つはムラ社会、各島々で行われた祭祀、若者達のモーアシビ(野遊び)、そこで生み出された芸能。

そしてこの遊郭である。中国や薩摩の人間、王族、士族、農民、漁民らが遊里として利用し、また対応した女郎達は幼い頃から芸能を学んだ。それらが複雑に絡み合って琉球の芸能文化が生まれ発展してきたという歴史は消しようがない。

説明板の一つくらいで、と言われるかもしれないが、やるせない気持ちのまま少し西にある明治橋に向けて歩いて行った。


(続く)



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