胤森さんからお手紙を頂いた。
前出の「お母さん」の訳をめぐっての感想である。
胤森さんには「直訳だと歌の気持ちが伝わらない」という指摘を受けたと話をしていた。それを気にされてのお返事である。
胤森さんは私の「ウチナーグチ」理解の先生。
一部省略してここで紹介したい。
また比較がわかりやすいように私の訳も載せて、胤森さんの訳は色をつけてある。
「テガミありがとうございました。早速わたしの解釈と感想を送ります。
お母さん
一、他所やでかしさみ 赤さ花持ちゃい ふくい顔しちょて 母ぬうすば
(関訳)他所はうまくやっている 赤い花を持って 嬉しい顔して母のお側に
(胤森訳)
よその人はしあわせを得ているんだよ。赤い花(を)持って嬉しい顔(を)しながら母のお側に(いる)。
二、母の御情や忘て忘らりみ 母の日のくりば思いまさて
(関訳)母の御情けは忘れても忘れられないか?(忘れられない)母の日が来ると思いが強くなる
(胤森訳)
母の御情けはわすれようとして忘れられるものか 母の日が来ると思いが勝って(くる)
三、我身や母居らん 白さ花持ちゃい母の御恩ちじにかみら
(関訳)私は母はいない 白い花を持って母のご恩を頭の上に乗せたい
(胤森訳)
私には母(が)居ない 白い花(を)持って母の御恩(を)頭上にのせましょう
四、真白咲く花に我が心くみて活ちてうさぎらばふくいみそり
(関訳)真っ白に咲く花に私の心を込めて 活けてさしあげますのでお喜びください
(胤森)
真白く咲く花にわたし(の)心(を)込めて活けてさしあげますから喜んでください。
「直訳」が不適切であるといわしめたひとつに、詩の初頭の(でかしさみ)にあるのではないだろうか。
(でかしさみ)=(うまくやっている)なのだろうか疑問を持ちます。
「
うまくやっている」と「
うまく行っている」とでは、おなじ「うまく」でもわたしには大きなニューアンスの差があります。
dikasiを「沖辞」(沖縄語辞典ー関注)でみますと図1のようにあります。
図1
(胤森さんの図には「幸福を得ること」に下線が引いてある)
第1義:(うまく行くこと)とあっても(うまくやること)とはありません。まずこれが誤解をうんだものでしょう。
第2義:(利益、幸福などを得る)。ここでは(幸せを得る)ことだと思います。「琉辞」(琉球語辞典ー関注)にはこれがありません。
図2(琉球語辞典)
(中略)
コトワザに
「情は人の為ならず」があります。
戦前は(私もそうですが)
a)
情というものは
人の為に成すものではない(自分のためにするものである)
戦後は別の解釈があらわれました。
b)
情というものは
人の為には成らない(だからやたらと人に情けをかけるな)
後者b)のほうが“直訳的”ではないでしょうか。
このコトワザをしめされて語句から前者a)の意味はすぐにはうかばないで説明されて理解できるのではないでしょうか。それだからよいコトワザだといえるのかもしれませんが。
コトワザとして2者直訳比較すると戦後の直訳的b)のほうがわかりやすくよいと思います。」
以上が胤森さんのテガミである。
私の調べ方の不十分さで「でかしさみ」を同じ直訳をするにしても「うまくやっている」という意味にしかとらず、それが読む人に誤解を与えているというのは、胤森さんのテガミでしっかりと分かる。
さすが30年ウチナーグチと格闘してこられた方である。
胤森さんは、こうも言われた。
時代が変わると歌の意味が違うように取られることもある。
それを、この歌の意味はこうだ、と決めることはできない。
違ってよいのではないか。
歌の面白さ、深さはここにあるのかもしれない。
たしかに歌の作られた時代背景から、ある意味を持って歌が生まれたのは間違いない。そのときは。
しかし、時代が変わり、人から人へ歌い告がれていく。
その歌を受け取る時代の人の思いや情けや状況は変わっている。
まったく昔と同じ解釈ができるのだろうか。
胤森さんは厳密に言葉の意味を探ることの大切さを今回私に注意された。
そのことは、歌をわかりやすくすることではない。
むしろ、不可解な歌詞になったり、さらに謎が深まることも少なくない。
逆に「あ、そうなんだ」と発見したような気になっているとき、「本当にそうなのだろか」と不安も湧く。
それが、情けは人のためならず のコトワザの話から教えられるように、短い歌詞から受け取れる内容というものは一つではないということだ。
直訳主義を貫かねば意訳もままならず、ということだろうか。