今帰仁ミャークニーへ 《ナークニーを追って 5》 終わり

たる一

2015年12月08日 16:50

仲原館長の運転で今帰仁のスク道を辿って、本部町まで戻ります。



仲原館長は、国道を走ったかと思えば、山道に入ります。

このようにまがりくねった道。


まさにこれが昔の人々が歩いた道=「宿道」(スクミチ、シュクミチ、シュクドゥーイなどと発音する)なのです。

国道と重なる部分もありますが、「合理性」を優先した直線の国道が
昔の宿道を「串刺し」みたいにした格好です。


記憶を辿ってGoogleMAPに落としてみました

館長が運転された道を黄色で示しました。
まっすぐなのが国道115号線です。

昔の「宿道」(スクミチ)は、こうして人々が使わなくなり、
木々に覆われて消滅するケースが多いというのがよくわかります。


その道で見かけた古いガジュマル木は何を見てきたのか、
なにも語りません。

国道115号線を離れ、やはり宿道を通り、伊野波へ。

伊野波ぬ石くびり 無蔵連りてぃ登る
なふぃん 石くびり 遠さはあらな

(ぬふぁぬいしくびり んぞちりてぃぬぶる なふぃんいしくびり とぅーさはあらな)
◯伊野波の小石の坂道を貴女を連れて登る もう少し小石の坂道が長かったらなあ

という歌詞で有名な小石のゴロゴロした坂道がある場所です。

今回はそこには登らずに、周囲の道を見ます。


左に石くびりがある丘があり、ここに広がるのは田芋畑。

満名川は、昔は今よりも広くヤンバル船などが
この伊野波まで来て荷物の積み下ろしをしたといいます。

伊野波とは、「『ヌーファ』の当て字で、満名川の川岸に位置する集落である。」「ヌーが付く地名は水路と深い関わりがある」(「地名を歩く」南島地名研究センター編著 ボーダーインク)。

つまり、この畑があるあたりまでは水があったようです。


満名を唄ったウタの歌碑を見ながら、次のシマへ。

久しぶりにきしもと食堂で「木灰そば」を食べるという小市民的「野望」は、
そんなことはおかまいなしに満名川の旧道を走ってくださる仲原館長のご配慮によって見事に打ち砕かれました(笑)

ヤンバル船が浮かぶ様子が頭に描けたのでそれはもういいのです^ ^





満名から伊野波 ながりやい浜川
遊びする泉河 花ぬ屋比久

(まんなからいぬふぁ ながりやいはまが あしびするしんか はなぬやびく)

浜川というのは本部小学校の裏手にあったと後から根路銘さんに伺いました。

「はまがー」と発音するので「川」ではなく「井戸」の意味があります。


これは隣の本部中学校の裏の方です。

湧き出る水は小学校の裏手の方が良かったようです。


この左手が本部中学校。

右の丘を越えた辺りが、昔泉河(しんか)と呼ばれた集落があります。



そこをさらに上がると、現在は野原(のばる)と呼ばれ、昔は屋比久(やびく)と言われた集落があります。
屋比久の集落はカルスト台地なので水が湧かず、下の浜河まで水を汲みに行かなければならなかったとも聞きました。

そこからの眺めは遠方も見渡せて
やはり毛遊びが盛んだった場所は高台の眺めの良い場所だとわかります。

下に渡久地港を見下ろし、遠くに辺名地が見えます。

まさか三線の音色がそこまで聞こえたはずはありませんが、叫べば声が聞こえそうにも思えます。

良く毛遊びをした泉河、そして華やかな屋比久。

もう一度ウタをここで口ずさみたくなりました。

満名から伊野波 ながりやい浜川 遊びする泉河 花ぬ屋比久

2015年4月11日。お付き合いくださって、たくさんのことを教えてくださった根路銘さん、渡久地さん、そして仲原館長、金城さん。

改めて感謝申し上げます。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

さて、那覇のタカマサイ公園から本部、今帰仁でのミャークニーの道を巡り一体何がわかったというのでしょう。


先ずは、本部ミャークニーと言われているひとつひとつの地名には無数の人々の「あしび」があり、道の移動があり、そこには出会いや別れ、つまり喜びや悲しみが深く染み込んだものだ、ということです。

渡久地港と満名川が今よりもはるかに大きく、そこには多くの交易船が行き交い、今帰仁城と首里、各地を結ぶスク道が時代の中で波打つ動脈のように生き生きとした人々の暮らしを支えていたのであろうことは、皆さんのお話とフィールドワークを体験することなしには知りえない事でした。

ところでカタマサイがあやぐを歌ったのは1390年頃、ミャークニーの成立ははっきりとは言えないまでも琉球王朝が薩摩侵略を受けたあと、琉歌の成立を待っての時期ではないか、と思います。

もしタカマサイのあやぐを誰かが聴き、それをナークニー、ミャークニーに作り変えたとすれば14世紀と17世紀という、300年の大きなタイムラグができてしまいます。

タカマサイではなく、その後に誰かが誰かの宮古のあやぐを聴き、今帰仁に持ち帰りミャークニーを作ったというのも、もちろんありえるだろうと思います。

私は全くのフィクションでもいいから、この壮大なウタの旅を描いてみたいと思い、小説「糸根の旅」(いちゅにーぬたび)を書き上げました。

まだ本として出版はされていませんが、いつかは多くの方に読んでいただけたら、と願っています。

《ナークニーを追って》のコラムがナークニー、ミャークニーを歌う方に、少しでもお役に立てる事を願っています。

終わり

関連記事