廃藩の武士
はいばん ぬ さむれー
haibaN nu samuree
語句・
はいばん 廃藩(はいはん)を沖縄では「はいばん」と読む。「廃藩置県」のことを指すが、琉球では事情が他府県とは違っていた。日本の廃藩置県は1871年。ところが琉球王国は1872年に王国のまま琉球藩となり1875年に政府から「琉球処分」を言い渡された後、1879年に政府の名を受けた松田道之と軍隊300名余、警官160名余が首里城に乗り込み、琉球藩の廃止、沖縄県の設置、清国との絶交などの要求を無理やり受理させた。・
さむれー 琉球王朝に仕えた士族の事。「ゆかっちゅ」とも言った。本土の「武士」(さむらい)に対応するが、いわゆる「懐刀」を持っていなかった。琉球王朝では 人口の約5%がこの士族(さむれー)で、残りの95%の平民は、農業だけでなく漁業、商業に従事していても「ひゃくしょー」と呼ばれた。士族にも上級士族と一般士族があった。
《CD「The LAST SESSION」より筆者聴き取り 》
一
拝でぃ懐かさや廃藩ぬ武士 背骨小や曲がてぃ うすんかがん
うがでぃなちかさやはいばんぬさむれー こーぐぐゎーやまがてぃ うすんかがん
'ugadi nachikasa ya haibaN nu samuree koogugwaa ya magati 'usuNkagaN
◯
お会いすると悲しいよ 廃藩の士族 腰は曲がって少しかがんで
語句・
うがでぃ 「お会いする。お目にかかる。」【沖縄語辞典(国立国語研究所)】(以下【沖辞】と略)<うがぬん。(発音注意 声門破裂音、グロッタルストップがない。)・
なちかさや 悲しいよ。<なちかしゃん。 悲しい。気をつけたいのは、ノスタルジックな「懐かしい」という意味ではない。ちなみに「懐かしい」にあたるのは「あながちさん」。 'anagachisaN。ただし文語的表現では「なちかしゃん」を「懐かしい」という意味で用いる時もある。・
こーぐぐゎー 背骨。年寄りの曲がった背中を指す。・
うすんかがん 少しかがんで。「うす」には「少し」の意味もあるが、「うすゆん」は「おおう」「かぶせる」「抱く」【沖辞】などの意味もある。「うすこーぐ」に「少し腰が曲がっている者」【沖辞】という意味もある。宮古語(平良)には「ウスゥム」(しゃがむ)というのもある。
(唐や平組 大和断髪 我した沖縄や片結)
とーやひらぐん やまとーだんぱち わしたうちなーや かたかしら
too ya hiraguN yamatoo daNpachi washita 'uchinaa ya katakashira
◯
中国は弁髪 大和はザンギリ頭 我々沖縄はかたかしら(片方で髪を束ねる髪型)
(囃子は以下省略)
語句・
とー 当時は「清国」、中国をさす。・
ひらぐん 弁髪。中国特有の髪型。長髪にして後ろで束ねるが、前から頭上にかけてそり上げる。(図1)・
やまとー ヤマトは。「ヤマトゥー」ではない。ヤマトゥ+や(は)が融合してこうなる。・
だんぱち ザンギリ頭。廃藩で武士の丁髷(ちょんまげ)を切っても良い、という御触れが明治政府により出された。・
かたかしら 琉球王朝時代の一般男性の髪型。「欹髻」「片髪」などが当て字。「成人男性の髪型。元は頭の右辺に結び、後には中央に結ぶようになった。貴族は15歳で、一般は10歳内外で結った。」【沖辞】。一説には「舜天王(しゅんてんおう)が、頭の左側にあるこぶを隠すため、左耳の上に髷を結い上げ、家臣がそれを真似た」という。その後は、頭の中央、頭頂部より4センチ程後ろに結ぶようになった。当時はこれを「かんぷー」と呼んだが、現在は女性の髪結の事を指すようになった。男性はこの「かたかしら」を結う時には長髪にし、頭頂部を四角に剃って周りの髪を上で束ね、その髪を結んで二本の簪(かんざし、ジーファー)で留めた。(図2)
二
思みば名残りさや オウ傘小や片手 木フージョウ小腰にアダニ葉サバ小
うみばなぐりさや おーがさーぐゎーや かたでぃ きーふーじょーぐゎーくしに あだにばさばぐゎー
'umiba nagurisa ya oogasaagwaa ya katadi kiihuujoogwaa kushi ni 'adaniba sabagwaa
◯
思えば心残りなのは、青傘を片手に 木の煙草入れを腰に アダンの葉の草履(を履いて)
語句・
おーがさー 「傘の一種。骨の部分のみが緑色で、紙は黒。中国から輸入された男物のからかさ」【琉辞】。・
きーふーじょー 木製の煙草入れ。ちなみに「ふーじょー」とは「〔宝蔵〕女持ちのたばこ入れ。宝珠のような形に縫った袋物である」【琉辞】とあるので、材質で区別した表現。(図3)・
あだにばー アダンの葉。・
さばぐゎー 「ぞうり。皮・わら・阿旦葉・藺(い)・竹の皮などでつくり、種類が多い。」【琉辞】。ここではアダン(阿旦)の葉で作ったぞうり。(図4)
三
しばし国頭ぬ奥に身ゆ忍でぃ 共に立ち上がる時節待たな
しばしくんじゃんぬ うくにみゆしぬでぃ とぅむにたちあがる じしちまたな
sibashi kuNjaN nu 'uku ni mi yu shinudi tumu ni tachi 'agaru jishichi matana
◯
しばし国頭の奥に身を忍び共に立ち上がる時節を待とう
語句・
うく 現在の国頭村奥という沖縄県最北の集落なのか「奥の方」なのか不明。・
ゆ 文語で「を」。口語では使わない。・
またな 待とう。待ちたい。
四
あんちゅらさあたる タンメ片髻 大和世になたれ 断髪けなて
あんちゅらさあたる たんめーかたかしら やまとぅゆーになたれー だんぱちけーなてぃ
'Anchurasa 'ataru taNmee katakashira yamatuyuu ni nataree daNpachi keenati
◯
あんなに綺麗だった士族のおじいさんの片髻(まげ)日本支配になったら断髪しちゃって
語句・
なたれー なったら。<なた<なゆん。過去形。+れー。仮定(既定事実)。(例)ゆだれー。読んだら。・
けー ちょっと…する。
五
大和世になたれ 大和口タンメ うっちぇーひっちぇー何にんくぃーにん あんしてくださいな
やまとぅゆーになたれー やまとぅぐちたんめー うっちぇーふぃっちぇーぬーにんくぃーにん あん[してくださいな]
yamatuyuu ni nataree yamatuguchi taNmee 'uccheehwicchee nuuniNkwiiniN [aNshite kudasai na]
◯
大和の世(支配)になったら大和口のおじいさん 何度もひっくり返って なにもかもそうしてくださいね
([ ]は大和口)
語句・
うっちぇーひっちぇー 「盛んに裏返すさま。しきりにひっくり返すさま」【琉辞】。・
あん そう。「そうしてね」という時の。
六
うがでぃなぐりさや 廃藩ぬあやめー 銀簪差ちょてぃ 耳ゆくじてぃ
うがでぃなぐりさやー はいばんぬあやめー なんじゃじーふぁさちょーてぃ みみゆくじてぃ
ugadi nagurisa yaa haibaN nu samuree naNjyajiihwa sachooti mimi yu kujiti
◯
お会いして名残惜しいことだよ 廃藩のお姑さん 銀製のかんざしを差してて 耳をほじくって
語句・
なぐりさやー 名残惜しいことだよ <なぐりさん。なぐりしゃん。名残惜しい。形容詞が「さ」で終わるときは感嘆の意味。とても…だよ。・
あやめー 「貴族の嫁がしゅうとめを敬って言う語。?aimeeともいう。」【琉辞】。・
くじてぃ ほじくって。<くじゆん。「くじる。えぐる。ほじくる。」【琉辞】。
【
この唄の背景】
「廃藩」 私たちは「はいはん」と読むが沖縄では「はいばん」と連濁して読む。
廃藩置県は、1871年に明治政府が中央集権を進め近代国家をめざすためにそれまでの藩を廃止したもの。
沖縄は1609年に薩摩の島津の侵略を受けて実質的に本土の支配下にあり、同時に中国との「柵封」関係であったが、この廃藩置県で「王朝」体制も解体され、1879年に沖縄県となった。
二度の「
琉球処分」を被ったわけである。
「さむれー」は「武士」(さむらい)に対応している(samurai→samuree aiが長母音化)。
琉球王朝に使えた「士族」階級のことをさす。
上にも書いたが、琉球王朝では 人口の約5%がこの士族(さむれー)で、残りの95%の平民は、農業だけでなく漁業、商業に従事していても「ひゃくしょー」と呼ばれた。
本土の「武士」の規定は一般的には脇差をし、床の間に刀を飾った「官僚兼戦闘家」を多く指すが、琉球では、脇差はなく床の間には三線を置いたという。
琉球王国の身分は、国王の下に御殿( 王子地頭 按司地頭) 殿内( 総地頭 脇地頭)があり、さらに士族(さむれー)そして平民(百姓ひゃくしょー)と続く。
士族にも上級士族と一般士族があり、人口の約5%だった士族のうち上級は約5%、つまり人口の0.25%しか上級士族になれなかった。一般士族は采地をもらえず、「ブンニン」とも呼ばれ、農業などもして苦しい生活をしのいだ。
廃藩=琉球王朝の解体によって職も権威も失墜した多くの士族は、商業や農業、あるいは芸能分野を仕事とし、それまでの唄三線や琉球舞踊の技能を活かすものもいた。
【
歌詞について】
この唄は嘉手刈林昌先生のお母様ウシが作詞し、林昌先生8歳の時にウシと共に作曲したといわれている。
廃藩により職も権威も失った士族の老人タンメーの様子をユーモラスに描き、また同情的にも描いている。特定の個人ではなく世情を詠ったものだろう。
三番は、廃藩後も明治政府に抵抗していた士族を描いている。
反対派は「くるー」(黒)と呼ばれ、「特に、明治の廃藩時代に、明治政府に反対し、旧制度維持を目論んだ頑固党をいう。husaNsii(不賛成)ともいい、明治政府支持の開進派(siruu またはsaNsii)に対する。明治のすえごろまでも髪を切らずに、?usjuganasiimee(琉球王)をたたえた。」【琉辞】。
当時の清国と連絡を取っていた人々もいたようだ。
そうして国頭の奥に身を潜めて、いつか反撃する機会を待ったのだが。。。
【
囃子に出てくる髪型について】
囃子言葉に、中国と大和と沖縄の封建時代の男性の髪型の違いが囃子言葉になっているのは面白い。当時の髪型を調べてみた。
「
とーやひらぐん」
上述したが、弁髪といい中国(当時は「清」だが、中国を「唐」と呼んだ)特有の髪型。
長髪にして後ろで束ねるが、前から頭上にかけてそり上げる。
(図1)
「
やまとーだんぱち」
いわゆる散切り(ざんぎり)頭。廃藩により武士の髷は切られた。
「大和を断髪」と書いた歌詞もあるが、「を」を使うのはおかしい。
「を」に対応するウチナーグチ「ゆ」が使われているのだから「を」はない。
「大和は断髪」という意味で、こう発音している。
「
わしたうちなーやかたかしら」
「かたかしら」とはこんなものである。
(図2)
頭頂部を四角く剃って、長髪を上でねじって結っていき、二本のジーファー(かんざし)で前後からとめる。カタカシラは小さい方が上品と言われたにで、髪を少なくするために剃ったようだ。
士族では15歳、一般は10歳くらいでこの髪型になったわけだが、それより小さい男児の髪型は後で見るように「かんぷー」と言った。
【
「やまとーかんぷー」という歌詞について 】
林昌先生は、幾つかのCDで歌詞を少しづつ変えられている。
CD「
風狂歌人」では囃子を「やまとーかんぷー」と歌う歌詞がある。
知名定男さんもこう歌われて録音したCDもある。
「これは間違っている」と言われる方もおられるらしいが、
沖縄語辞典で「かんぷー」をひくと
「男の子の髪型。髪が短くて言えない場合に、折り曲げて小さく結うもの。女の子のそれにはhaajuuiiという」
つまり、カタカシラも結えない子どもの髪型で、長髪でない場合に髪を折り曲げた結い方のことだったわけだ。
いつの間にか、現代では女性の琉球髪結のことを「かんぷー」というようになった。
散切り頭をこの子どもの髪結のように後ろで結んだものもあったのかもしれない。
いずれにせよ、林昌先生はこの「やまとーかんぷー」という歌詞をそれほど多くは歌われてはいない。
【
キーフージョーとアダニ葉バサ小】
木のタバコ入れ。
(図3)
アダンで編んだ草履(さば)
(図4)
幾つかの士族の写真を見て、描いたサムレーのイメージ図。
(図はすべて筆者。)
【
他の歌詞】
CD 「
沖縄しまうたの神髄」では
ニ番は
うみばなぐりさや ではじまる。
「なぐりさや」とは「なぐりしゃん」(なごり惜しい)【琉辞】から。
とても名残惜しいよ、の意味。
上に取り上げたCD「
The LAST SESSION」での六番の歌詞も珍しい。
拝でぃ名残りさや 廃藩ぬあや前 銀簪さちょてぃ 耳ゆくじてぃ
タンメーのみならずアヤメー(お姑さん)、つまりおばあさんの様子も唄に。
CD「
唄遊び」では
二番を、
オー傘小片手 昔なぐりさや 木フジョー小腰にアダニ葉サバ小
(訳などは上を参照)
と少し変えた上に三番が、他では聞いたことがない歌詞になっている。
時や知らなそてぃ 時までぃかきてぃ きさからおーふぁー ぬーえそーしが なんじがなーとーら
とぅちやしらなそーてぃ とぅちまでぃかきてぃ きさから おーふぁー ぬーえーそーしが なんじがなとーら
「何時かをしらないで時間をかけて さっきから青葉を(ぬーえー;不詳)しているが 何時になったか?」
「ぬーえー」の意味がわからない、というところで、「廃藩ぬ武士」を締めくくる。
最後に嘉手苅林次先生が歌われる「廃藩ぬ武士」を。