2018年09月26日

仲島節

仲島節
なかしまぶし
nakashima bushi
語句・仲島 「[中島]那覇にあった遊郭の名」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。那覇には「辻」(ちーじ)、中島、渡地(わたんじ)の三つの遊郭があった。【沖辞】によると、辻は本土人(薩摩藩)、中国人、首里那覇の上流人を相手としていた。中島は首里那覇の普通の士族を相手にした高級遊郭で、渡地はいなか相手と、それぞれ、客の層が違っていたという。今の泉崎付近にあった。


唄三線 嘉手苅林昌


一、仲島の小橋あにんある小橋 じるが小橋やら定め苦りしゃ
なかしまぬくばし'あにん'あるくばし じるがくばしやら さだみぐりしゃ
nakashima nu kubashi 'aniN'aru kubashi ziru ga kubashi yara sadamigurisha
仲島の小橋 あんなにある小橋 どれが(約束の)小橋なのか決めにくい
語句・あにん あんなにも。<あん。ある。+ん。も。強調の助詞がついて→あにん。(例えば、「わん」〈私〉と「ん」が付いて「わんにん」〈私も〉となる」)・じる どれ。じるが→どれが。・ぐりしゃ しにくいことよ!(感嘆)。<ぐりしゃん。「‥しにくい。‥しがたい。」【沖辞】。



二、何時し名残ちゅが仲島の小橋 恋渡る人の繋ぢ所
'いちしなーぬくちゅが なかしまぬくばし くいわたるふぃとぅぬちなじどぅくる
'ichi shi naa nukuchuga nakashima nu kubashi kui wataru hwitu nu chinaji dukuru
いつのことか名が残ったのは 仲島の小橋 恋を渡る人を繋ぐ所
語句・いちし いつの。・ちなじ 繋ぎ。<ちなじゅん。糸などをつなぐ。



三、たとい仲島や音絶えて居てん恋渡る人の沙汰や残て
たといなかしまや'うとぅたいてぃうてぃん くいわたるふぃとぅぬさたやぬくてぃ
tatui nakashima ya 'ututaiti utiN kui wataru hwitu nu sataya nukuti
たとえ仲島は評判が絶えてしまっても恋渡る人の噂は残って
語句・うとぅ 「音。音響」もあるが「たより。音さた」「うわさ。評判」がある。「〜」・たいてぃうてぃん 絶えてしまっても。普通「絶えて」のウチナーグチは「てーてぃ」<てーゆん。を使うが林昌さんは「たいてぃ」と。文字数が「てーてぃ」だと二文字で字数足らずになるからか。・さた 噂。



四、仲島の浦の冬の寂しさや千鳥鳴き声に松の嵐
なかしまぬ'うらぬふゆぬさびしさや ちじゅいなちぐぅいにまーちぬ'あらし
nakashima nu 'uranu huyu nu sabishisa ya chiui nachikwii ni maachi nu 'arashi
仲島の浦の冬のさびしさは千鳥の鳴き声に松の嵐
語句・うら 「陸地が湾曲して湖海が陸地の中に入り込んでいる地形を指す。特に浦・浜は、前近代において湖岸・海岸の集落(漁村・港町)を指す用語としても用いられていた。」(Wikipediaより)





(コメント)

在りし日の嘉手苅林昌さんがよく好んで歌われていた曲の一つがこの「仲島節」。
普通のテンポと少し早弾きのそれがあり、人気度が高い民謡の一つ。

仲島と言えば、「仲島の大石」が有名で、泉崎にある那覇バスターミナル(2018年9月現在改装中)に突き刺さるようにそれは現在も残されている。その大石はよく見ると下の部分は波で侵食された跡、ノッチがある。沖縄の海岸でよく見るあの逆三角形の岩と同じものである。そしてこの岩は琉球時代の久米村の人々が「分筆峰」と呼んで縁起が良い岩として大切にされてきた歴史がある。


(2011年、筆者撮影)

仲島について

このウタは遊郭があった「仲島」をテーマにし、そこにあった小橋や浦の情景を描き込んでいる。それを知る手がかりを残された資料を元に少し覗いてみよう。

沖縄県立図書館 貴重資料デジタル書庫に「沖縄志」(伊地知 貞馨著)がある。この作者のことについてはまた別の機会に触れたい。伊地知 貞馨(1826-1887)は薩摩藩出身の明治時代の官僚だ。この伊地知が1877(明治10)年に書いた「沖縄志」の第1巻に「那覇港圖」が描かれてある。



実に興味深い資料であるがここで見てほしいのは左側の仲島。拡大してみる。



仲島の大瀬(うふし)と仲島池がわかる。大瀬(うふし)は現在では大石(うふいし)と呼ばれているが大きな隆起サンゴ礁である。仲島池は「仲島小堀」(なかしまぐむい)と呼ばれていた。


「仲島の小橋」とは

「仲島小堀跡」(泉崎1-9)には那覇市が案内板を立てている。



その案内板の説明文にはこう書かれている。

『泉崎村(いずみざきむら)にあった人工の溜(た)め池跡。
 かつて泉崎村の地先一帯は、久茂地(くもじ)川が漫湖(まんこ)に合流する河口で、土砂が堆積(たいせき)した中州(なかす)は「仲島(なかしま)」と呼ばれ、その後の埋立により陸続きとなった地域である。
 河口(かこう)の水が湾入(わんにゅう)していた所は、17世紀中頃、泉崎村在住の唐人(とうじん)の薦めにより、火難封じの風水として、土俵をもって潮入口を塞ぎ、溜め池(小堀(クムイ))とした。小堀は、王国時代から養魚場として使われ、後に泉崎村の管理地となり、池から上がる収入で小堀の浚渫費(しゅんせつひ)に充てたという(『南島風土記(なんとうふどき)』)。
 仲島小堀では、その後も鯉(こい)や鮒(ふな)が養殖されていたが、昭和初期には埋め立てられ、1937年(昭和12)、埋立地に済生会(さいせいかい)病院が建設された。
 一方、仲島には、1672年に「辻(つじ)」(現那覇市辻一帯)とともに花街(はなまち)が開かれた。歌人として有名な「よしや」(吉屋チルー)は、この仲島で生涯を閉じたとされる。泉崎村から仲島へは小矼(こばし)(仲島小矼)が架けられており、花街への出入り口であった。仲島は、1908年(明治41)に辻に統合・廃止され、小矼も埋立・道路拡張により消失した。
 花街廃止後、埋立により住宅地として発展した泉崎は、沖縄戦後の区画整理により、往時の街並みとは異なった住宅地となった。』


上に掲げた「仲島節」の一番、

仲島の小橋あにんある小橋 じるが小橋やら定め苦りしゃ

に出てくる「小橋」とは上の説明文の中の

「泉崎村から仲島へは小矼(こばし)(仲島小矼)が架けられており、花街への出入り口であった。仲島は、1908年(明治41)に辻に統合・廃止され、小矼も埋立・道路拡張により消失した。」

の中の小矼のことだったのだろう。
ちなみに「矼」とは「石橋」のことである。


そして「仲島節」の四番で

仲島の浦の冬の寂しさや千鳥鳴き声に松の嵐

と歌われている「浦」とは仲島の大瀬(大石)が浮かぶあたりなのか、それとも仲島の小堀が海とつながっていた時代の「浦」なのか、どちらかはわからない。

遊郭の仲島は1908年(明治41年)に辻と統合されて移転した。
そして大正初年までにこのあたりの埋め立てが進んだ。

その後沖縄の鉄道の那覇駅が置かれていた。
沖縄戦で一帯は焼け野原となったが戦後はバスのターミナルとして沖縄の重要な交通の要所となって今に至る。

このウタが歌われた景色は「仲島の大石」以外にはもう消えてしまっている。
しかし三番の
たとい仲島や音絶えて居てん恋渡る人の沙汰や残て

歌うたびにタイムカプセルのように蘇るのである。


(この記事は2005年12月29日の記事を加筆したものです)




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Posted by たる一 at 15:49│Comments(0)な行沖縄本島
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