小禄間切口説

たる一

2019年02月18日 12:59

小禄間切口説
うるくまじり くどぅち
'urukumajiri kuduchi
語句・うるくまじり 現在の那覇市小禄に当たる。間切(まじり)とは琉球王国時代の行政区の一つ。「国」の下の行政単位だから都道府県くらいの意味。実際の規模は市町村くらいだった。・くどぅち「口説」(くどぅち)とは、室町・江戸時代に流行した「口説」(くどき)の影響を受けていて、本土のそれは歌舞伎、浄瑠璃などで情景や叙事、悲哀や恨みなどを一定のメロディーで繰り返して「説く」もの。17世紀以降、薩摩藩による琉球支配の時代に琉球に伝わった。七五調で大和言葉(のウチナーグチ読み)を一部使う特徴がある。
小禄間切の口説


歌詞は 「沖縄民謡口説大全集」(沖縄芸能出版 滝原康盛編著)[以下【口説全集】と略す]を参照した。



一、小禄間切ぬ真ん中に 白髪御年寄いめんそち 釣竿かたみてぃ浜下りてぃ
うるくまじりぬまんなかに しらぎうとぅすい いめんそち ちんぶくかたみてぃはまうりてぃ
'uruku majiri nu maNnaka ni shiragi 'utusui 'imeeNsoochi chiNbuku katamiti hama 'uriti
小禄間切の真ん中に白髪のお年寄りお集まり下さって釣竿担いで浜に降りて
語句・いめんそち <いめーんせーん。「おいでになられる。いらっしゃられる。いる・行く・来るの敬語。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。いめーんせーんの連用形。・ちんぶく 釣竿。



二、浜に育ちゅる浜千鳥 干瀬に育ちゅる あじけー貝 海山豊かな我が間切
はまにすだちゅるはまちじゅや ふぃしにすだちゅるあじけーがい うみやまゆたかなわがまじり
hama ni sudachuru hamachijuyaa hwishi ni sudacyuru 'ajikee gai 'umiyama yutakana waga majiri
浜に育つ浜千鳥 珊瑚のリーフに育つシャコ貝 海山が豊かな我々の間切
語句・ふぃし 「満潮の時は隠れ、干潮になると現れる岩や洲」【沖辞】。珊瑚のリーフ(珊瑚礁)と言っても問題はない。・あじけー シャコ貝。身はコリコリして美味い。貝殻は魔除けに使う。



三、先じや村々尋にやい 委細に話さば聞ち分きてぃ 朝夕忘るな我が子孫
まじやむらむらたじにやい いせにはなさば ちちわきてぃ あさゆーわしるな わがしすん
maji ya muramura tajiniyai 'isee ni hanasaba chichiwakiti 'asayuu washiruna waga shisuN
まずは村々を調べて詳しく話すので聞き理解して朝夕忘れるなよ我が子孫
語句・いせー 詳しく。



四、白浜前なす大嶺や 男女かりゆし肝合わす 海山豊かに栄えゆく
しらはまめーなす うふんみや だんじょかりゆし ちむあわす うみやまゆたかにさかいゆく
shirahama mee nasu 'uhuNmi ya danjo kariyushi chimuawasu 'umiyama yutaka ni sakai yuku
白浜を前にする大嶺は男女めでたく皆で心を合わせる 海山も豊かに栄えて行く
語句・だんじょ 「だんじゅ かりゆし」の「だんじゅ」に「男女」という当て字をしたのではないか。口説はヤマト口が混ざることを拒否しないが、発音はウチナーグチとなる。そうすれば「だんじょ」ではなく「断然」という意味の「だんじゅ」となる。(参照「だんじゅかりゆし」)しかし【口説全集】の歌詞に従う。・さかい 大和口の「さかえ」という可能性もあるが、これも「さかえ」ではなく発音は「さかい」(栄え)としたい。



五、田畑豊かな宮城 人ぬ心ん悠々とぅ 黄金冬瓜ん実美らしゃ
たはたゆたかな なーぐしく ひとぅぬくくるんゆーゆーとぅ くがにしぶいんないじゅらしゃ
tahata yutakana naagushiku hitu nu kukuruN yuuyuu tu kugani shibuiN naijurasya
田畑が豊かな宮城人の心も悠々としていて 大切な冬瓜の実もよく実っている
語句・しぶい 冬瓜。



六、真風ぬ具志村平原や 地味ん豊かに満作ぬ 働く人ん豊かなリ
まふぇぬぐしむらひらばるや じみんゆたかにまんさくぬ はたらくひとぅんゆたかなり
mahwee nu gushimura hirabaru ya jimiN yutaka ni maNsaku nu hataraku hituN yutakanari
南風が吹く具志村の平原は土地が肥えて豊かに満作となり働く人も豊かである
語句・じみ 地味(ちみ)とは土地が肥えていること。



七、芋種豊作高良村 人ぬ心ん福々とぅ 子孫牛馬ん優りゆく
んむすほーさくたからむら ひとぅぬくくるんふくぶくとぅ なしぐゎんぎゅーばんすぐりゆく
'Nmusu hoosaku takara mura hitu nu kukuruN hukubuku tu nashigwaN gyuubaN suguri yuku
甘藷(芋)が豊作の高良村 人の心も福々としていて子どもも牛馬も優れていく



八、道ぬ狭さや松川村 縦横広く明々とぅ 開く風水ぬ栄えさみ
みちぬしまさやまちがーむら たてぃゆくひるくあかあかとぅ ひらくふんしぬさかえさみ
michi nu shimasa ya machigaa mura tatiyuku hiruku 'aka'akatu hiraku huNshi nu saki sami
道が狭いと言えば松川村だ 縦横に広く明々と開く風水も良くて村が栄えるのである
語句・ふんし「家屋・墓地などの位置のよしあしを占うこと。またそのよしあし。家相。風水。」【沖辞】。村や間切などの風水も調べた。・さみ「・・なのだぞ。・」



九、二才達揃わい宇栄原や 西ん東ん肝合わち 互に励むしたぬむしや
にせーたーしなわいういばるや いりんあがりんちむあわち たげにはぎむしたぬしむや
niseetaa shinawai 'uibaru ya nishiN higashiN chimu 'awachi tagee ni hagimushi tanumushi ya
青年たちが揃っている宇栄原は西も東も心を合わせて互いに励んで頼もしいことだ



十、村ぬ大ぎさや小禄村 業ん数々分守てぃ内外揃てぃ栄え行く
むらぬまぎさやうるくむら わざんかじかじぶーまむてぃ うちすとぅするてぃさかえゆく
mura nu magisa ya 'uruku mura wazaN kajikaji buu mamuti 'uchisutu suruti saki yuku
村が大きいのは小禄村だ 仕事も多く人夫も守り村の内外揃って栄えて行く
語句・わざ仕事。・ぶー 「【夫役(ぶやく)・賦役(ふえき)】人夫」【琉球語辞典(半田一郎)】。



十一、水ぬ豊かな田原村 人ぬ心んうるわしく 往に報いてぃ道広し
みじぬゆたかなたばるむら ひとぅぬくくるんうるわしく おーにむくいてぃみちひるし
miji nu yutakana tabaru mura hitu nu kukuruN uruwashiku 'oo ni mukuiti michi hirushi
水が豊かな田原村は人の心も麗しく往来も多いことに報いるために道が広い
語句・たばる 田原は湖城、松川、堀川と共に新しい村。・うるわしく 大和口であろう。・おー ウチナーグチの辞書では「王」や「奥武島」くらいしか対応しない。ここでは「往来」の「往」とした。



十二、言葉甘さや金城 老も若衆ん打ち揃てぃ 譲い結びぬ肝清らしゃ
くとぅばうまさやかなぐしく ういんわかしゅん うちするてぃ ゆじゅいむすびぬちむじゅらしゃ
kutuba umasa ya kanagushiku 'wiiN wakashuN 'uchisuruti yujui musubinu chimu jurasha
言葉が上手な金城 老いも若きも揃って 譲りながら心を結んで心は純粋だ
語句・うまさ 大和口。金城からは優秀な人材を多く輩出したということからか。



十三、人ぬ温和赤嶺や 互に栄えや道一ち 結び固みどぅ栄えさみ
ひとぅぬうとぅなさあかんみや たげにさけーやみちてぃーち むしびかたみどぅさかいさみ
hitu nu 'utunasa 'akaNmi ya tagee ni sakee ya michi tiichi musibi katami du sakaisami
人がおとなしいのは赤嶺。互いに栄えるのは道を一つに結んで固めているからこそ栄えるのである。
語句・うとぅなさ <うとぅなしゃん。「おとなしい」【沖辞】。



十四、遊び清らしゃぬ安次嶺や 神に奉献真心に 子孫牛馬ん道広く
あしびじゅらしゃやあしんみや かみにほーけんまぐくるに なしぐゎんぎゅーばんみちひるく
'Ashibi jurashanu 'ashiNmi ya kami ni hookeN magukuru ni nashigwaaN gyuubaN michi hiruku
神遊び(かみあしゃぎ)も盛んな安次嶺は 神に真心を献上し 子ども牛馬も前途洋々だ
語句・あしび ここでは祭事、神事を指す。



十五、大根豊作す鏡水や 日々ぬ励みんたゆみなく 行末広くたのもしや
でーくにーゆからすかがんじやひびぬはぎみんたゆみなく ゆくしーひるくたぬむしや
deekunii yukarasu kagaNji ya hibi nu hagimiN tayuminaku yukushii hiruku tanumushiya
大根(鏡水大根)を多く稔らせる鏡水は日々の農作業にもたゆみなく励み 村の行く末も広く頼もしい事だ
語句・デークニー 大根。かつては大根に加え多くの農産物を国頭方面や近郊都市に送り出す都市近郊型の経済があった。



十六、巡り廻やい当間村 手墨学問道広く 花ぬ遊びん程々に
みぐりみぐやいとーまむら てぃしみがくむんみちひるく はなぬあしびんふどぅふどぅに
miguri miguyai tooma mura tishimi gakumun michi hiruku hana nu ashibiN huduhudu ni
巡りめぐって当間村 勉学に励んで道は広く (でも)華やかな遊びはほどほどに
語句・てぃしみ 学問。勉学。・はなぬあしび 華やかな遊び。こちらの「遊び」は遊郭や毛遊びなどの交遊を表す。



十七、下りてぃ上ゆる嘉増坂 又ん上ゆる蚊坂 儀間や湖城下に見てぃ
うりてぃぬぶゆるかましびら またんぬぶゆるがじゃんびら じーまやくぐしくしたにみてぃ
'uriti nubuyuru kamashibira mataN nubuyuru gajaNbira jiima ya kugushiku shita ni miti
下がって登る嘉増坂 またさらに登るとガジャン坂 儀間や湖城を下に眺めて
語句・じーま儀間真常



十八、北に聳ゆる住吉森 南にとぅがとる上ぬ棚 儀間ぬ大親 徳慕てぃ
にしにすびゆるしーしもー ふぇーにとぅがとーるうぃぬたな じーまぬうふうや とぅくした
てぃ
nishi ni suboyuru shiishimoo hwee ni tugatooru wii nu tana jiima nu 'uhu 'uya tuku shitati
北にそびえる住吉森 南にとがっている上の棚 ご先祖様である儀間の徳を慕って





十九、甘藷種豊かに 那覇四町 大和輸出ゆる黒砂糖 小禄紺地ん誇リさみ
んむすゆたかに なふぁゆまち やまとぅぬぶゆるくるざーたー うるくくんじん ふくりさみ
'Nmusu yutakani nahwa yuumachi yamatu nubuyuru kuruzaataa 'uruku kuNjiN huluri sami
芋の実りも豊かに那覇四町(西、東、泉崎、若狭)に売り、大和に輸出する黒砂糖、小禄紺地も誇りであるぞ
語句・うるくくんじ 17世紀から始まった木綿布で作られた紺地の絣。1611年に儀間真常が薩摩から木綿の種を持ち帰り栽培した。そして儀間真常も木綿の生産を勧めた。木綿を琉球藍で染めることで本土にはない味わいの琉球紺絣が生まれた。戦前まで生産され九州などで好評だったが沖縄戦で伝統が途絶えた。現在復活させる活動が行われている。



二十、行末頼む村人よ 意見寄事肝染みてい エイ 時代ぬ流りに進み行き いざや興さん小禄村
ゆくしーたぬむむらびとぅよ いちんゆしぐとぅちむすみてぃ えい じだいぬながりにすすみゆき いざやうくさん うるくむら
yukushii tanumu murabitu yoo 'ichiN yushigutu chimu sumiti eei jidai nu nagari ni susumiyuki 'iza ya 'ukusaN 'urukumura
将来を望む村人よ 意見や昔からの言い伝えを心に染めて 時代の流れに進んで行き いざや興そう小禄村
語句・ゆしぐとぅ 昔からの言い伝え。伝承。



コメント

このブログを読む方には那覇空港を利用する方も多いに違いない。

しかし那覇空港も、ゆいレールに乗って次の駅赤嶺も、もちろん次の小禄も昔は「小禄間切」であったことはあまり意識される方少ないのではないだろうか。

そして、あの空港があったあたりは、昔綺麗な砂浜と大根の畑があったこと。

さらに、ゆいレールでは車内に駅ごとに音楽が流れるが、小禄駅は「三村踊り」(みむらうどぅい)と言う曲が流れる理由をご存知だろうか?

実は私も正直に言えばこの口説に出会うまでは「小禄」について知らないことばかりだった。

皆さんと一緒に「小禄間切口説」を見ながら、歴史と今について考えてみたい。

この口説との出会い

この口説を取り上げるきっかけになったのは、この口説十五番の歌詞をガラスの置物に書いた置物との出会いからだった。

十五、大根豊作す鏡水や 日々ぬ励みんたゆみなく 行末広くたのもしや

広島の沖縄料理屋「うちな〜」の大将は小禄は鏡水のご出身。
ある時この置物を見せてくれた。名物の鏡水大根(カガンジデークニー)を模したミニチュアが横に付けられている。



大将の話で、小禄の人々の門中意識の高さ、地域の結びつきが強いことなども伺って、それではこの口説はどんなものなのか、調べてみたいと思った。

「小禄間切口説」について

二十番にも及ぶ長い口説である。

口説(くどき)は江戸時代に日本で流行したウタの一種だが、琉球に持ち込まれ組踊の情景描写、舞踊などで使われるようになり現在にまで継承され今も沖縄では愛されている。



上述したように歌詞は「沖縄民謡口説大全集」(沖縄芸能出版 滝原康盛編著)を参照した。

この本、口説大全集と言う名の通り99もの口説を収集し紹介されている。
若干の誤植、表記の揺らぎなどがあるが、それでも価値は高い。

小禄間切の歴史と概要

小禄間切は1673年に真和志真切と豊見城真切から分割されてできた。小禄・儀間・金城(真和志間切から)と、赤嶺・安次嶺・当間・大嶺・具志・高良・宇栄原・宮城(豊見城間切から)の合計11カ村からスタートした。その後、湖城・松川・田原・堀川という4ヵ村を新設。合計15カ村となる。

1908年に小禄間切から小禄村になる。1933年から海軍によって飛行場が作られ、戦後は米軍によって大嶺、当間などが接収。1954年に那覇市に編入されて小禄村は廃止。現在は十九の町名がある。

小禄間切口説の特徴

一番から三番までは、いわゆる口上、これからどのような口説を述べるかの前提である。
四番から十九番は各村の特徴や産業、人々の生業や特徴が織り込まれている。
二十番がまとめとなる。

語数は七、五の繰り返しを三回。
つまり、七五、七五、七五。
二十番だけが、七五、七五、(エイ)七五、七五。(三回目の七は字余りで八)
三線の手は「上り口説」と同じだと思われる。

小禄紺地と三村踊り

三村踊り(クリックで本ブログの「三村踊り」に行く)とは、ご周知のようにこの歌詞から始まる。

小禄 豊見城 垣花 三村 三村のアン小達が揃とて布織い話 綾まみぐなよ 元かんじゅんど
小禄 豊見城 垣花(の)三つの村 三つの村の姉さん達が揃って布織り話 模様を間違えるなよ 元が取れず損をするぞ

この娘さん達が織っているのは、まさにこの口説に出てくる「小禄紺地」なのである。

新聞などによれば戦争で途絶えた小禄紺地の技術が長年の努力によって近年復活したと言うことである。小禄の隣町の南風原町には南風原絣がある。こちらは絹の生地であるが、小禄紺地は木綿である。庶民の着物といえば木綿であろう。
いつか小禄紺地の実物を見てみたいものだ。



1920年(明治43年)に日本陸軍が作り、スタンフォード大学が公開している地図に、小禄間切の12カ村の名称を筆者が書き込んだもの。




国土地理院の地図。ほぼ現在の様子。
戦前は旧日本海軍が小禄飛行場を建設し、住民は他の字への強制的な移住をさせられた。

沖縄戦では徹底的にに米軍によって空爆、艦砲射撃の的となり激戦地となり、その後米軍基地として小禄の多くの部分が米軍の軍用地となった。

そして、沖縄の本土復帰後、空港と自衛隊の基地の敷地となった。

多くの犠牲と地元の住民の方々の苦労の上に今の空港や多くの施設が成り立っていることを忘れてはならない。




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