高平良万才口説
たかでーらまんざいくどぅち
takadeera maNzai kuduchi
親の仇を討たんてやり万才姿に打ちやつれ棒と杖とに太刀仕込で
'うやぬかたちゆ'うたんてい まんざいしがたに'うちやちり ぼーとぅちーとぅにたちしくでぃ
'uya nu katachi yu 'utaNtei maNzaishigata ni 'uchiyachiri boo tu chii tu ni tachi shikudi
◯
親の仇を討つといって万才(芸人)姿に変装し棒と杖とに太刀(を)仕込んで
語句・
てい といって 「tiyai 【旧かな“てやり”;“ト言ヒアリ”〔連用形〕の縮約で、−ndiici〔接続形〕と対応;cf.-jai】・・と(いっ)て ・・とか」「縮約形でteiとも」(琉)とある。・
うちやちり 変装して <うち (接頭語)「うちするてぃ」「うちふりてぃ」などのように、それ自体に強い意味はないが行為を強調している。 + やちりゆん 「①やつれる、おちぶれる②やつす、変装する」(琉) 「やつす」は国語辞典で「目立たないように形を変える。みすぼらしく装う。」とある。「やつれる」とは意味が区別されているようだ。沖縄語の「やちりゆん」は両義を含むのが面白い。
編笠深く顔かくち忍び忍びに立ち出ぢて村々里々越え来れば
'あみがさふかくかうかくち しぬびしぬびにたち'んじてぃ むらむらさとぅざとぅくいくりば
'amigasa hukaku kau kakuchi shinubishinubi ni tachi 'Njitu muramura satuzatu kuikuriba
◯
編み笠深く顔隠し 忍び忍びに出発して村々里々(を)越えて来ると
平良や忍ぶ敵の門 兄弟尻目に目過ごして後の道に巡り来て
てーらやしぬぶてぃちぬむん ちょーでーしりみにみしぐしてぃ 'うしるぬみちにみぐりちてぃ
teera ya shinubu tichi nu muN choodee shirimi ni mishigushiti 'ushiru nu michi ni migurichiti
◯
平良は忍ぶ敵の門 兄弟(は、それを)尻目に見過ごして 後ろの道に回ってきて
語句・
てーら 平良。現在の首里平良にある高平良山あたり。現在の末吉公園の東側に高平良御鎖の屋敷があったといわれている。
行く末吉の御神に祈る心は我が敵に急ぢ引合わせ賜りてやり
ゆくすいゆしぬ'うんかみに 'いぬるくくるやわがてぃちに 'いすじひちゃわしたぼりてい
yukusuiyushi nu 'uNkami ni 'inuru kukuru ya wagatichi ni 'isuji hichawashi taboritei
◯
行く末吉の御神に祈る心は我が敵に急いで引き合わせくださいと言って
語句・
すいゆし 現在の末吉宮。首里の末吉公園内にある。「行く末吉」には「仇討の成功」を込めている。
登て社壇に願立てて真南に向かひて眺むれば 四方の景色の面白や
ぬぶてぃしゃだんにぐわんたてぃてぃ まふぇにんかいてぃながむりば ゆむぬちしちぬ'うむしるや
nubuti shadaN ni gwaN tatiti mahwe ni Nkaiti nagamuriba yumu nu chishichi nu 'umushiru ya
◯
登って社壇に願を立てて真南に向かって眺めると四方の景色の面白いことよ
語句・しゃだん 社壇 「神社で、殿舎の位置する区域」
慶伊と慶良間の渡中には海士の釣り舟浮きつれて 沖の鴎と見まがふや それから下り下り来て(えい)御寺御門に立ち寄やり休む姿や他所知らぬ
ちいとぅきらまぬとぅなかみば 'あまぬちりぶに'うちちりてぃ 'うちぬかむみとぅみまごや すりからくだりくだりちてぃ 'うてぃらぐむんにたちゆやり やしむしがたやゆすしらん
chii tu kirama nu tunaka miba 'ama nu chiribuni 'uchichiriti 'uchi nu kamumi tu mimagoya surikara kudari kudari chiti 'utiragumuN ni tachi yuyari yashimu shigata ya yusu shiraN
◯
慶伊島(チービシ)と慶良間の海(峡)には海士の釣り舟(が)浮き連なり 沖の鴎と見間違うよ それから下り下り来て お寺(の)御門に立ち寄り休む姿は他人(は)知らない
高平良万歳の概要と解説
高平良万才(たかでーらまんざい)は組踊り(くみうどぅい)「万歳敵討」(まんざいてぃちうち)の舞踊をまとめた、いわばダイジェスト版である。
「万歳敵討」は田里朝直(たさとちょうちょく)(1703〜1773)によって作られた組踊。
舞台は現在の首里平良にある高平良山周辺。そこには高平良御鎖(たかでーら うざし)という人物が住んでいたと言われ、この人物が大謝名比屋(おおじゃなのひや)」を闇討ちする。大謝名比屋が持っていた馬が名馬であったからだ。当時琉球では競馬が盛んであり、名馬の価値は非常に高いものであった。それを譲れと高平良は迫るが大謝名比屋は首を縦に振らない。そこで実力行使の闇討ちとなる。大謝名の息子「謝名子」(じゃなぬし)と「慶雲」(けいうん)の二人は万歳行者(京太郎)になりすまして高平良に近づき、門付けの踊りを披露しながら隙を見て仇討を果たすというストーリーだ。
始めに「万歳口説」で仇討の経緯を語り、続けて「
万歳かふす」「
おほんしやり節」「
さいんする節」という流れで二人が高平良に接近し、仇討を果たすまでが描かれる。
本ブログでは順番に解説していく。
舞踊としての解説は、「琉球舞踊入門」(宜保栄治郎著)がわかりやすい。
それによれば「父大謝名のひやを騙し討ちにした高平良御鎖を兄謝名子と弟の慶雲が討ちに行き、その頃の遊芸人である京太郎になりすまして敵に近づき、首尾よく討ち果たすというもので沖縄版曽我兄弟です。」
当時の組踊りが本土の芸能の影響をうけたものであることはいままでも書いたが、この「万歳口説」も七・五調で書かれた「仇討ち」系の物語。
「万歳姿」の「万歳」とは「京太郎」(チョンダラー)と同じもので「人形使い。万歳行者。maNzai,jaNzajaaともいう。首里郊外(中略)にいた賎民で年の初めには家々の門に立ち、祝言を唱え、人形を舞わせ、また葬式の時は念仏鉦をたたき、念仏を唱えるなどして銭を得た者」(沖)。
この舞踊では人形としては獅子舞の小さな頭と馬頭を兄弟が持つ。
「琉球舞踊入門」によれば「本土で古く流行した春駒の踊りが、この南島に遊芸人の京太郎によってもたらされたという貴重な証拠にもなる」とある。