今帰仁天底節

たる一

2025年01月10日 08:56

今帰仁天底節
なちじんあみすくぶし
nachijiN 'amisuku bushi
語句・なちじん 今帰仁村(なきじんそん)。・あみすく「天底」という村。「あみす」とも呼んだ。

歌三線 大城美佐子 (CD「沖縄恨み節」より)
作者不詳



1、我が生まり島や 枯木山原ぬ 今帰仁の天底 仲本ぬ産子
わが'んまりじまや かりきやんばるぬ なちじんぬ'あみすく なかむとぅぬなしぐゎー
waga 'Nmarijima ya kariki yaNbaru nu nachijiN nu 'amisuku nakamutu nu nashigwaa
私の生まれ故郷は枯木のようにさみしい山原の今帰仁は天底の仲本家の子ども
語句・かりき枯れ木。さびしい様子の例え。・なかむとぅ「仲本」という屋号の家。・なしぐゎー子ども。



2、七ちなる年に 二とぅくるぬ親や 我身一人残ち くぬ世界に参らん
ななちなるとぅしにたーとぅくるぬ'うややわみちゅいぬくち くぬしけーにもーらん
nanachinaru tushi ni taatukuru nu 'uyaya wami chui nukuchi kunu shikee ni mooraN
七つになる年にお二人の親は私を一人残してこの世界にいらっしゃらなくなった



3、十八なるまでぃや 伯母一人頼てぃ 暮らち居る内に 行ち欲さや大阪
じゅーはちなるまでぃや うばまちゅいたゆてぃくらちうる'うちに'いちぶさや[おおさか]
juuhachi narumadi ya wubamaa chui tayuti kurachiuru 'uchi ni 'ichibusa ya [oosaka]
十八になるまでは叔母一人を頼って暮らしているうちに行きたくなった大阪に
語句・うばま 叔母、伯母。



4、情ある伯母 云言葉んすむち 大阪北恩加島(きたおかじま)街頼てぃ来やしが 
なさき'あるうぅばまー'いくとぅばんすむち[おおさかきたおかじま]まちたゆてぃ ちゃーしが
nasaki'aru wubamaa 'ikutubaN shumuchi[大阪北恩加島]machi tayuti chaashiga
情けある叔母の言葉にも背き大阪北恩加島街を頼ってきたが



5、かかるかたねらん 縋がるかたねらん 我部ぬ新垣ぬ嫁に我なやい
かかるかたねーらん しがるかたねーらん がぶぬ'あらがちぬゆみにわねなやい
kakarukata neeraN shigarukata neeraN gabunu 'aragachi nu yumi ni wane nayai
頼れる人は全くいない すがれる人もいない 我部の新垣家の嫁に私はなって
語句・かかるかた 頼れる人。<かかゆん。頼る。・がぶ 今帰仁村の東隣にある屋我地島の字名。昔からモーアシビが盛んな地域。



6、一年二年や 梅とぅ鴬ぬ如に 暮らち居る内に 産子一人でぃきてぃ
ちゅとぅたーとぅや'んみとぅ'うぐいしぬぐとぅにくらち'うる'うちに なしぐゎーちゅいでぃきてぃ
chu tu taa tu ya 'Nmi tu 'uguishi nu gutu ni kurachi 'uru'uchi ni nashigwaa chui dikiti
一、二年は梅と鴬のように(仲良く)暮らしているうちに子供が一人できて
語句・んみとぅうぐいし仲良しのたとえ。



7、産子引ち連りてぃ 里が島来ーりば 里が母親に あくむくゆさりてぃ
なしぐゎーふぃちちりてぃ さとぅがしまちゃーりば さとぅがふぁーふぁーうやにあくむくゆさりてぃ
nashigwaa hwichichiriti satuga shima chaariba satuga hwahwa'uya ni 'akumuku yu sariti
子供引き連れて故郷にきてみたら彼の母親に悪い報いをされて
語句・あくむく悪い報い。いじめ。・を。



8、罪無らん我身に 朝夕ぶちかきてぃ 噂むち明かち我ねすそーんさりてぃ
ちみねーらんわみに'あさゆーぶちかきてぃ うわさむちあかち わねすそーんさりてぃ
chimineeraN wami ni 'asayuu buchikakiti 'uwasa muchi 'akachi wane susooN sariti
罪のない私に朝夕鞭を打ち噂を持ち出して私は粗末にされて
語句・ぶち鞭。むち。・かきてぃ (鞭で)打って。・すそーんさりてぃ



9、哀り泣く泣くに 出じゃさりてぃ我身や 落てぃてぃ花ぬ島 行ちゅる身ぬ苦りしゃ
'あわりなくなくに'んじゃさりてぃわみや うてぃてぃはなぬしま'いちゅるみぬくりしゃ
'awari nakunaku ni 'Njasariti wami ya utiti hana nu shima 'ichuru mi nu kurisha
哀れ泣く泣くうちに家を出されて私は落ちて遊郭に行く身の辛さよ!
語句・んじゃさりてぃ(家を)出されて。<んじゃすん。出す。・はなぬしま遊里。花街。遊郭。



10、 胸内や焼きてぃ 色に表さん  知らぬ客びれや 尾類小の勤め
'んに'うちややきてぃ'いるに'あらわさん しらんちゃくびれーやじゅりぐゎーぬちとぅみ
'Nni'uchi ya yakiti 'iru ni 'arawasaN siiraN chakubiree ya jurigwaa nu chitumi
胸中は焼けても表には出さない 見知らぬ客との付き合いは女郎のつとめ
語句・いる顔色。・ちゃくびれー客との付き合い。<ふぃれー。付き合い。




解説


(沖縄恨み節 沖縄島唄 大城美佐子)

大城美佐子さん(故人)をはじめ多くの女性唄者によって唄われてきた女性哀歌。

昭和初期につくられたとみられている。仲宗根幸市氏によれば、昭和5年頃に屋我地島の方によって作詞作曲されたという。
作者の氏名は判明しているが地域との兼ね合いで発表はされていない。

また当時実在した女性の半生をつづっているため、作者はそれに配慮して「天底」(今帰仁村)生まれということにしたらしい。

ヤンバルに生まれたこのウタは戦後も多くの人々に伝えられ、特に関西に住む沖縄出身者にも愛唱された。

このウタが生まれた1930年代、大不況の日本は戦争という暗黒時代に突入していた。
厳しい差別と貧困の中で沖縄の女性たちの権利も抑えられ、本土に出稼ぎに行くも、遊郭の仕事に転落していく。

「島うた紀行 第1集」(琉球新報カルチャーセンター)によると原作は13番まであり、今回紹介したものは大城美佐子さんが唄われたものだが、1996年頃に短縮された「元天底節」だと思われる。


▲天底は今帰仁村にあり、屋我地島は名護市。我部には昔モーアシビが盛んであったことを示す「平松の碑」がある。(参照 ヨーテー節


今帰仁村ホームページより
「天底は今帰仁村の東側に位置し、1719年に現在の本部町伊豆昧付近から移動してきた村(ムラ)である。天底にはアミスガーがあり、淡水のシマチスジノリが自生している(県指定天然記念物)。当初、集落は神アサギや御嶽(ウタキ)あたりに移動するが、明治以降になると、さらに天底小学校から山岳(サンタキ)あたりに移動する。天底から屋我地に向けて道路ができ、屋我地島と天底との間に橋が架かり、そこから古宇利大橋へとつながる予定である。」


2019年頃の大城美佐子さん。


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