2017年04月26日

耳切坊主

耳切坊主
みみちりぼーじ
mimichiri booji
語句・ちり 切り。・ぼーじ 坊主。伝説では琉球王朝時代に首里にいた黒金座主(くるがにざーし)という僧の事。その僧が怪しい術を使って女性をたぶらかし襲っているという事に怒った琉球王が北谷王子に彼の殺害を命じた。北谷王子は黒金座主に囲碁の対局を持ちかけ、黒金座主は両耳を、北谷王子は髷をそれぞれ賭けた。黒金座主が怪しい術で北谷王子を眠らせようとしたところを逆に北谷王子が黒金座主の両耳を切り落として殺した。その後、黒金座主は幽霊となって北谷王子の住む大村御殿を囲う石壁の角に夜な夜な現れた。またそれ以来、大村御殿には男の子が生まれるとすぐ死ぬとう事が続き黒金座主の呪いだと言われた。という伝説である。幽霊云々は別として登場人物は実在しており十八世紀頃の事とされる。


大村御殿の角なかい耳切坊主の立っちょんど
'うふむら'うどぅんぬ かどぅなかい みみちりぼーじぬ たっちょーんどー
'uhumura'uduN nu kadu nakai mimichiribooji nu tachooN doo
大村御殿の角に耳切り坊主がたっているぞ
語句・うどぅん 邸宅、家柄という意味もある。「[御殿]。按司地頭(?azizituu)が首里に構えた邸宅の敬称。もと地方に割拠していた按司(?aji)が中央集権制以降、首里に集められ、住まった邸宅。またその家柄。」【沖縄語辞典(国立国語研究所編)】(以下【沖辞】と略す)。「大村御殿」は北谷王子の御殿。北谷王子は尚質王の四男、北谷王子朝愛で代々北谷間切の地頭を務めた。・たっちょーん たっている。<たちゅん。立つ。の現在進行形。「たっちゅんどー」(立つぞ)という歌詞もある。


幾人幾人立っちょがや 三人四人立ちょんど
'いくたい'いくたいたっちょーがやー みっちゃい ゆったいたっちょーんどー
'ikutai'ikutai tacchooga yaa micchai yuttai tachooN doo
何人何人たっているかね?三人四人立っているぞ
語句・いくたい 幾人。「たい」は「人数を表す接尾語」【沖辞】。人数の数え方 は次のようになる。一人 ちゅい。二人 たい。三人 みっちゃい。 四人 ゆったい。 五人 いちたい。 六人 むったい。 七人 ななたい。 八人 やったい。九人 くくぬたい。しかし、「五人以上はguniN(五人)、rukuniN(六人)のように言うことが多い」 【沖辞】。・みっちゃい 三人。・ゆったい 四人。「ゆっちゃい」と歌う歌詞もある。

〈ここは以下のような歌詞もある。
幾人幾人立っちょやびが三人四人立ちょんど
'いくたい'いくたいたっちょやび(ー)が みっちゃい ゆったいたっちょんど
'ikutai'ikutai tacchoyabiiga micchai yuttai tachoN doo
何人何人たっておられるか?三人四人立っているぞ


鎌も小刀も持っちょんど泣ちゅる童耳グスグス
'いらなんしーぐんむっちょーんどー なちゅるわらべーみみぐすぐす
'iranaN 'shiiguN mucchooN doo nachuru warabee mimi gusugusu
鎌も小刀も持っているぞ 泣いている子供は耳ザクザク
語句・いらな 鎌。「kamaともいう。」【沖辞】。・ も。・しーぐ 「小刀。ナイフ。」【沖辞】。・わらべー 子供は。<わらび。子供。+ や。は。biとjaが融合してbee、つまり「わらべー」となる。・ぐすぐす 「物を切るさま。さくさく。ざくざく。」【沖辞】。


ヘイヨーヘイヨー泣かんど ヘイヨーヘイヨー泣かんど
へいよーへいよーなかんど
hei yoo hei yoo nakaN doo hei yoo hei yoo nakaN doo
◯(囃子言葉)泣かないよ(泣くんじゃないよ)



概要

沖縄本島に琉球王朝時代から伝わる童歌(わらべうた)、子守歌である。
いつ頃誰が作ったか、記録はない。

「怖い怖い耳を切る坊主が立っているぞ~たくさんいるぞ~刀やカマを持って泣く子は耳を切られるよ~ だから泣くなよ~」と泣いている子を泣きやますわけだ。
この歌を歌って寝かしつけられた方や寝かしつけた側の方もおられるかもしれない。

それにしても恐ろしい幽霊を登場させたものだ。鎌や小刀を持って大村御殿の角に三人、四人立っていて寝ない子の耳を「切ってしまうぞ」というのだから。そう言われたら、たとえ大村御殿に行ったことない小さな子どもでも想像を膨らませて「早く寝なくては」と思うだろう。

モデルとされる人物たちとウタの背景

耳切坊主とされる黒金座主(くるがにざーしゅ)は実在していたという。各地の伝承では黒金座主は波上宮の一部だった真言宗の護国寺の盛海(じょうかい)和尚のことだとされている。盛海和尚は隠居生活を若狭町の護道院で送ったが、三世相(さんじんそう)という占いをしているため多くの女性が訪れていたが、伝承ではその女性達を誑(たぶら)かし術にかけ金を巻き上げ暴行までしたということになっている。

ところが仏教界では、盛海和尚は当時の北谷王子の悪政を批判し、琉球における仏教界の社会的地位向上を訴えるリーダー、いわばヒーロー的存在だったという逆の見方もあったのである。

悪行を働く黒金座主を成敗した北谷王子は北谷朝騎(1703~1739)だったとされる。(大村御殿の一世である北谷朝愛だという説もある)朝騎は琉球第二尚氏王統第十二代国王尚益王の次男で大村御殿二世である。

時代背景をみると1722年に徳川幕府が行った享保検地により薩摩藩は支配下の琉球に増税を課す。琉球王府の政治財政を主導していた蔡温は緊縮財政をさらに進め、僧侶や寺院の財政への制限も加えていくことになる。

こうした図式の中での「悪事を働いた妖僧」黒金座主と「王から妖僧の退治を命じられた」北谷王子との成敗劇が各地に伝承されている。緊縮財政を進めたい王府や蔡温と、琉球に仏教界の影響を強めたい盛海和尚の対立があったことがうかがい知れる。

黒金座主の「悪行」や妖術を知れば知るほどこのウタのリアリティーが増し「耳切坊主」の存在がさらにグロテスクな印象になっていく。耳を切られた黒金座主の幽霊が「みっちゃい、ゆったい」(三人、四人)現れたのは座主の元に仕えていた小坊主のことであろうか。おそらく小坊主達も成敗されたのだろう。

一方この大村御殿の主だった北谷一族には代々男の子が生まれず、養子を迎えざるを得なかったことを耳切坊主の呪いだという伝承もあり、話にリアリティーを加えている。

このウタの解釈は、妖僧黒金座主が北谷王子への逆恨みで大村御殿の角に幽霊として小坊主を引き連れて立っていた、ということになるが、別の見方では緊縮財政を強化し仏教界へも圧力かけていた王府と蔡温を批判した黒金座主、つまり盛海和尚への粛清を恨んだ幽霊の話ということにもなる。

幽霊が立ったのかも含め何が真実だったのかは今では知る由もないが、琉球王朝と仏教界の対立を背景にこのウタが生まれ、それが子守唄となり今日にまで伝わってきたことだけは事実である。

現在の大村御殿

2017年3月の大村御殿の様子をレポートしてみた。


大村御殿は首里城の北西側にある龍潭池のちょうど北側にある。この写真は大村御殿側から龍潭池、首里城を撮ったもの。


現在は周囲を囲む石垣の壁のみが残っている。


龍潭通りからの眺め。


「大村御殿の角なかい」というので角に立ってみる。


この辺りに「耳切坊主」の説明板がある。


残念ながら文字が消えかかっていて読めない。



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Posted by たる一 at 14:31│Comments(2)沖縄本島ま行
この記事へのコメント
合唱部で
狩俣ぬくいちゃ
を歌います
解説をお願いします
Posted by 合唱部で at 2017年06月27日 08:20
合唱部で、さん。
雨乞いのクイチャーでしょうか?
Posted by たる一たる一 at 2017年06月27日 12:29
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