2006年06月04日
安里屋ユンタ (八重山民謡)
安里屋ユンタ
'あさどやゆんた
'asadoya yuNta
語句・あさどやゆんた 「ゆんた」は八重山の交唱歌(かけあい歌)のこと。「あさと」ではなく「あさど」と発音される。また「あさどぅ」でもない。資料に「振り仮名」を打ったものがない。八重山地方は竹富島の屋号であるらしい。
(山里勇吉氏のCDより聞き取り。「しぃ」「shï」は中舌母音をあらわす。また【石】は「石垣方言辞典」を指す)
一、(さー)安里屋のクヤマによ(サーユイユイ)あん美らさ生りばし(よー)(またはーりぬちんだらかぬしゃまよ) (括弧内はハヤシ、以下省略)
'あさどやぬくやまに 'あんちゅらさまりばし
'asadoya nu kuyama ni 'aNchurasa maribashi
○安里屋(という屋号)のクヤマに あのように美しく生まれて
語句・くやま 1722年生まれ 1799年に78歳で亡くなった。(「ウチナーの歌」音楽の友社)で上勢頭芳徳氏(竹富島 喜宝院蒐集館)が詳しい解説を行っている。・あんちゅらさ あのように美しく。
ニ、幼しゃからあふぁり生りばし 小さから白さ産でばし
'いみしゃから'あふぁりまりばし くゆさからしるさしぃでぃばし
'imisha kara 'ahwari maribashi kuyusa kara shirusa shïdibashi
○幼いころから美しく生まれて 小さいときから白く生まれて
語句・いみしゃ 幼少の時。【石】 ・あふぁり 美しく。<あふぁりしゃーん 美しい。【石】 ・くゆさ 「幼少、幼少時」【石】。・しぃでぃ 生まれて。<しぃでぃるん。「①孵(かえ)る。生まれる。」「②脱皮する」【石】。
三、目差主の乞よたら あたりょ親の望みよた
みざしぃしゅぬくゆたら 'あたりょやぬぬずみょた
mizashishu nu kuyutara 'ataryo(u)ya nu nuzumyota
○目差主が乞うたら 役人が望んだ
語句・みざしぃしゅ 目差主。 「琉球時代の役職名。与人(村長)の下役で、与人を補佐する、あるいは小村の村長を勤める役人、「目差」と表記」【石】。 ・あたりょ(う)や 「当たり親の意で、琉球時代に自分たちの上にいる役人を言う」【石】。「与人」(村長)とは違う。
四、目差主や 我な否 あたりょ親やくりや嫌
みざしぃしゅやばなんぱ 'あたりょややくりゃゆむ
mizashishu ya bana Npa 'ataryoyaya kurya yumu
○目差主は私は嫌 役人は私は嫌
語句・ばな 私は。 八重山言葉では「W」が「B」になる。 「我 わん」→「ばん」 ・んぱ いや。 沖縄語で「んぱんぱ」は「嫌いや」(ひやみかち節) ・くりゃ これ。「ばな」(私)の対語。 ・ゆむ 嫌
(てんよう節)
五、何故でから否です 如何でから嫌です
なゆでぃから んぱです 'いかでから ゆむです
nayudi kara Npa desu 'ik(y)ade kara yumu desu
○何故嫌なのです 如何に嫌です
六、後のこと思いど すらの為考やど
'あとぅぬくとぅ'うむいどぅ すらぬたみかんがやどぅ
'atu nu kutu 'umui du sura nu tami kangaya du
○将来のことを思ってこそ 身空の為を考えてこそ
語句・あとぅ 将来。「後」(あとぅ)は時間的な未来(あと)を表す。「後」(くし)は空間的な後方。・すら 「てっぺん。梢(こずえ)」【石】。「あとぅ」の対句で、つまり「末」「先」というような意。
七、島の夫持ちゃばど 後の為あるです
すまぬぶどぅむちゃばどぅ 'あとぅぬたみ'あるです
suma nu budu muchaba du 'atu nu tami 'aru desu
○島の夫を持てばこそ 将来のためなのです
語句・ぶどぅ 夫。
'あさどやゆんた
'asadoya yuNta
語句・あさどやゆんた 「ゆんた」は八重山の交唱歌(かけあい歌)のこと。「あさと」ではなく「あさど」と発音される。また「あさどぅ」でもない。資料に「振り仮名」を打ったものがない。八重山地方は竹富島の屋号であるらしい。
(山里勇吉氏のCDより聞き取り。「しぃ」「shï」は中舌母音をあらわす。また【石】は「石垣方言辞典」を指す)
一、(さー)安里屋のクヤマによ(サーユイユイ)あん美らさ生りばし(よー)(またはーりぬちんだらかぬしゃまよ) (括弧内はハヤシ、以下省略)
'あさどやぬくやまに 'あんちゅらさまりばし
'asadoya nu kuyama ni 'aNchurasa maribashi
○安里屋(という屋号)のクヤマに あのように美しく生まれて
語句・くやま 1722年生まれ 1799年に78歳で亡くなった。(「ウチナーの歌」音楽の友社)で上勢頭芳徳氏(竹富島 喜宝院蒐集館)が詳しい解説を行っている。・あんちゅらさ あのように美しく。
ニ、幼しゃからあふぁり生りばし 小さから白さ産でばし
'いみしゃから'あふぁりまりばし くゆさからしるさしぃでぃばし
'imisha kara 'ahwari maribashi kuyusa kara shirusa shïdibashi
○幼いころから美しく生まれて 小さいときから白く生まれて
語句・いみしゃ 幼少の時。【石】 ・あふぁり 美しく。<あふぁりしゃーん 美しい。【石】 ・くゆさ 「幼少、幼少時」【石】。・しぃでぃ 生まれて。<しぃでぃるん。「①孵(かえ)る。生まれる。」「②脱皮する」【石】。
三、目差主の乞よたら あたりょ親の望みよた
みざしぃしゅぬくゆたら 'あたりょやぬぬずみょた
mizashishu nu kuyutara 'ataryo(u)ya nu nuzumyota
○目差主が乞うたら 役人が望んだ
語句・みざしぃしゅ 目差主。 「琉球時代の役職名。与人(村長)の下役で、与人を補佐する、あるいは小村の村長を勤める役人、「目差」と表記」【石】。 ・あたりょ(う)や 「当たり親の意で、琉球時代に自分たちの上にいる役人を言う」【石】。「与人」(村長)とは違う。
四、目差主や 我な否 あたりょ親やくりや嫌
みざしぃしゅやばなんぱ 'あたりょややくりゃゆむ
mizashishu ya bana Npa 'ataryoyaya kurya yumu
○目差主は私は嫌 役人は私は嫌
語句・ばな 私は。 八重山言葉では「W」が「B」になる。 「我 わん」→「ばん」 ・んぱ いや。 沖縄語で「んぱんぱ」は「嫌いや」(ひやみかち節) ・くりゃ これ。「ばな」(私)の対語。 ・ゆむ 嫌
(てんよう節)
五、何故でから否です 如何でから嫌です
なゆでぃから んぱです 'いかでから ゆむです
nayudi kara Npa desu 'ik(y)ade kara yumu desu
○何故嫌なのです 如何に嫌です
六、後のこと思いど すらの為考やど
'あとぅぬくとぅ'うむいどぅ すらぬたみかんがやどぅ
'atu nu kutu 'umui du sura nu tami kangaya du
○将来のことを思ってこそ 身空の為を考えてこそ
語句・あとぅ 将来。「後」(あとぅ)は時間的な未来(あと)を表す。「後」(くし)は空間的な後方。・すら 「てっぺん。梢(こずえ)」【石】。「あとぅ」の対句で、つまり「末」「先」というような意。
七、島の夫持ちゃばど 後の為あるです
すまぬぶどぅむちゃばどぅ 'あとぅぬたみ'あるです
suma nu budu muchaba du 'atu nu tami 'aru desu
○島の夫を持てばこそ 将来のためなのです
語句・ぶどぅ 夫。
八重山民謡は専門外。しかし、歌う機会がある以上、不十分な知識とわずかな資料でも駆使してできるところまでは訳さなくてはならない。それが専門の方から見れば噴飯物であっても。厳しいご意見を頂きたいものだ。
亡くなった胤森さんは、亡くなる少しまでに私に「永久に貸す」といって「石垣方言辞典」をくださった。
わたしにとって、それが唯一の八重山民謡を理解する「武器」である。
安里屋ゆんた、新安里屋ゆんたは別としても、さまざまな歌詞がある。
これは民謡には常だが、その多様さは自由である一方、意味を考えるときに不自由ですらある。
しかし、民謡は人々のもの。権威が「こうだ」と決め付けるものではない。
絶世の美女をめぐる昔の役人の行為。
こういう構図は現代も変わらない。
天下り役人。利権にむらがる企業。
その行き着く先は、弱いものへのしわ寄せ。
「俺の現地妻になれ」と強要された竹富のクヤマがどうしたか。
拒否した、という歌もあり、受け入れたという歌もある。
山里勇吉先生の歌は拒否の歌。
それをどううけとめるかは、各人の自由。
ほかの「安里屋ゆんた」も掲載しておく
1、 ヒヤ 安里屋ぬ クヤマによ サーユイユイ
目差主ぬ くゆたらよ ハーリヌチンダラ カヌシャマヨ
マタ ハーリヌチンダラ カヌシャマヨ
2、 ヒヤ 目差主や ばなんばよ サーユイユイ
あたる主や くりゃおいすよ ハーリヌチンダラ カヌシャマヨ
マタ ハーリヌチンダラ カヌシャマヨ
3、 ヒヤ んばてぃ者(す)ぬ 見る目(み)んよ サーユイユイ
べーるてぃ者ぬ 聞(し)く耳(みん)よ ハーリヌチンダラ カヌシャマヨ
マタ ハーリヌチンダラ カヌシャマヨ
4、 ヒヤ んばてぃ者ぬ 見る目んよ サーユイユイ
べーるてぃ者ぬ 聞く耳よ ハーリヌチンダラ カヌシャマヨ
マタ ハーリヌチンダラ カヌシャマヨ
5、 ヒヤ 仲筋に 走りおりよ サーユイユイ
ふんかどぅに 飛びゃおりよ ハーリヌチンダラ カヌシャマヨ
マタ ハーリヌチンダラ カヌシャマヨ
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この記事へのコメント
安里屋ゆんた、名曲中の名曲ですね
山里勇吉先生は石垣島白保の出身なので
「つぃんだら」を「ちんだら」と発音されます
タルーさんが、ほかの「安里屋ゆんた」としている歌詞も竹富島の歌詞なので
「ちんだら」になります。
一般的には「つぃんだら」かと思います。
最初に揚げられている歌詞は八重山地方に多く広がっている歌詞
「ほかの安里屋ゆんた」といって揚げている方が元唄の竹富島の歌詞
ただし竹富島のお囃子の部分は「ハーリヌ チンダラカヌシャマヨ、 マタ ハーリヌ チンダラカヌシャマヨ」の部分は「声楽譜附 竹富島民謡工工四(竹富公民館認定)」とCD「てぃゆむたきどぅん 種子取祭奉納舞踊曲集」(KOKU3-0017~0018)では「ハーリヌ チンダラチンダラヨ、 マタ ハーリヌ チンダラカヌシャマヨ」となっています。
また一般的な八重山地方の歌詞の内容は、美女クヤマが単身赴任してきた目差主・与人両役人の求愛を蹴って、島の男を夫にしたと言う反権力の象徴として描かれていますが、
原曲の竹富島では、封建時代の一女性が役人の命令にそむく事も出来ず上級職与人の求愛を受け入れ、部下の目差主は悔しくてクヤマのいる玻座間村から隣の仲筋村に行き、クヤマよりもっと若くて美しいイスケマという乙女を見つけ喜んで抱きかかえ現地妻にしたという内容で、クヤマの話より目差主の話のほうに比重が多くなっています。
私見ですが、
労働の最中に歌う「ゆんた」は、労働者を楽しませる、辛い労働を唄で紛らわすためゴシップの内容が多かった。
原曲の竹富島の歌詞もそういったゴシップで実際にあった事件を元につくられた。
元唄が出来た当時は封建制度の人頭税時代、百姓は士族に例え唄でも面と向かって反旗は翻せなかった(八重山地方の政策として、八重山地方は村組織がまだ完成していなかったので祭礼・芸能を奨励して村組織を統治した、宮古は神事を通して村組織が出来ていたのでまた別の制政策があった)
封建制度の終わりごろか、もしくは終わった後
庶民が安里屋ゆんたを改作して反権力の唄として八重山全域に広がって、一般的に現在知られるようになった。
と考えています。
長くなってすいませんでした。
山里勇吉先生は石垣島白保の出身なので
「つぃんだら」を「ちんだら」と発音されます
タルーさんが、ほかの「安里屋ゆんた」としている歌詞も竹富島の歌詞なので
「ちんだら」になります。
一般的には「つぃんだら」かと思います。
最初に揚げられている歌詞は八重山地方に多く広がっている歌詞
「ほかの安里屋ゆんた」といって揚げている方が元唄の竹富島の歌詞
ただし竹富島のお囃子の部分は「ハーリヌ チンダラカヌシャマヨ、 マタ ハーリヌ チンダラカヌシャマヨ」の部分は「声楽譜附 竹富島民謡工工四(竹富公民館認定)」とCD「てぃゆむたきどぅん 種子取祭奉納舞踊曲集」(KOKU3-0017~0018)では「ハーリヌ チンダラチンダラヨ、 マタ ハーリヌ チンダラカヌシャマヨ」となっています。
また一般的な八重山地方の歌詞の内容は、美女クヤマが単身赴任してきた目差主・与人両役人の求愛を蹴って、島の男を夫にしたと言う反権力の象徴として描かれていますが、
原曲の竹富島では、封建時代の一女性が役人の命令にそむく事も出来ず上級職与人の求愛を受け入れ、部下の目差主は悔しくてクヤマのいる玻座間村から隣の仲筋村に行き、クヤマよりもっと若くて美しいイスケマという乙女を見つけ喜んで抱きかかえ現地妻にしたという内容で、クヤマの話より目差主の話のほうに比重が多くなっています。
私見ですが、
労働の最中に歌う「ゆんた」は、労働者を楽しませる、辛い労働を唄で紛らわすためゴシップの内容が多かった。
原曲の竹富島の歌詞もそういったゴシップで実際にあった事件を元につくられた。
元唄が出来た当時は封建制度の人頭税時代、百姓は士族に例え唄でも面と向かって反旗は翻せなかった(八重山地方の政策として、八重山地方は村組織がまだ完成していなかったので祭礼・芸能を奨励して村組織を統治した、宮古は神事を通して村組織が出来ていたのでまた別の制政策があった)
封建制度の終わりごろか、もしくは終わった後
庶民が安里屋ゆんたを改作して反権力の唄として八重山全域に広がって、一般的に現在知られるようになった。
と考えています。
長くなってすいませんでした。
Posted by コバ at 2006年06月04日 10:44
コバさん
詳しい解説をありがとうございます。
「つぃんだら節」でもそうですが。この場合「つぃ」は中舌母音だろうと思います。それは島や歌者でも多様で、また時代によっても変化するらしいので、一概にはいえないようですね。
ですから、「ちんだら」「つぃんだら」「つんだら」と多様なのでしょう。
ひとつ質問があるのですが、八重山民謡の場合、師匠の「方言」(島による方言)は、それを尊重されますか?
詳しい解説をありがとうございます。
「つぃんだら節」でもそうですが。この場合「つぃ」は中舌母音だろうと思います。それは島や歌者でも多様で、また時代によっても変化するらしいので、一概にはいえないようですね。
ですから、「ちんだら」「つぃんだら」「つんだら」と多様なのでしょう。
ひとつ質問があるのですが、八重山民謡の場合、師匠の「方言」(島による方言)は、それを尊重されますか?
Posted by せきひろし(たるー) at 2006年06月04日 22:27
>ひとつ質問があるのですが、八重山民謡の場合、師匠の「方言」(島による方言)は、それを尊重されますか?
どうでしょう
今「八重山古典民謡」として一般の三線屋さんとか書店で売られている工工四集は全て石垣風といわれているもので、八重山地方の中心地石垣島で伝承されてきたまたは、各島々から石垣島に伝わって石垣島風にアレンジされた曲ということになっています。
大きな流派に属されている先生方は、流派の唄としてはそれぞれの流派の石垣風の歌い方で、
島々の唄(小浜島の小浜節 鳩間島の鳩間節 与那国島のどぅなんすんかに等、祭事の奉納芸能)は今でも島の言葉で歌い継がれているようです。
山里勇吉先生の場合は、安室流のなかでも石垣島白保に伝わる歌い方を継承していくと言う事で、新しい会派(室山会)を立ち上げ、白保の発音で継承されています。
どうでしょう
今「八重山古典民謡」として一般の三線屋さんとか書店で売られている工工四集は全て石垣風といわれているもので、八重山地方の中心地石垣島で伝承されてきたまたは、各島々から石垣島に伝わって石垣島風にアレンジされた曲ということになっています。
大きな流派に属されている先生方は、流派の唄としてはそれぞれの流派の石垣風の歌い方で、
島々の唄(小浜島の小浜節 鳩間島の鳩間節 与那国島のどぅなんすんかに等、祭事の奉納芸能)は今でも島の言葉で歌い継がれているようです。
山里勇吉先生の場合は、安室流のなかでも石垣島白保に伝わる歌い方を継承していくと言う事で、新しい会派(室山会)を立ち上げ、白保の発音で継承されています。
Posted by コバ at 2006年06月05日 15:11
追記
島々に伝承されている唄の伝承保存と言う事で
鳩間島や竹富島、黒島、与那国島では各島々の民謡工工四集が発売されています
もちろん発音、単語、旋律は島々独特のものになっています
島々に伝承されている唄の伝承保存と言う事で
鳩間島や竹富島、黒島、与那国島では各島々の民謡工工四集が発売されています
もちろん発音、単語、旋律は島々独特のものになっています
Posted by コバ at 2006年06月05日 15:14
コバさん
いつもありがとうございます。
わたしたちは、あくまでその島(土地)のものではないので、ウチナー口のなかにも島(土地・村)独特の言葉や発音にまで気が回らないことが多いのですが気をつけたいことですね。
さきほどの「マタハーリヌ」の囃しは、「ウチナーの歌」(音楽の友社)から竹富島の上勢頭さんが紹介されているものでした。
その話の中に、コバさんが言われているようにユンタには「厳しい農作業の疲れを紛らわせるには内容も当然きわどい性的表現となってくるがなんといっても亜熱帯のあっけらかんとした民族性ゆえかおおらかなもの」とあります。
二十三番まで続く本歌「安里屋ゆんた」の最後まで聞いたことはありませんが、その土地に暮らす人の想いというものは人間の想像をこえるものがありますね。
ちなみに、同じ本で大工先生が「トバラーマ」の解説で、ユンタを本来は「他人に向かって歌うこともありませんでした。八重山では共同体の中の顔見知りのみんながいるまえで自分の思いを歌っていました」と解説されていることが深く印象に残ります。
民謡とはそういう身近な共同体の中のものだったが時代とともに地域も広がって伝わり方も変わっていったのでしょうね。
いつもありがとうございます。
わたしたちは、あくまでその島(土地)のものではないので、ウチナー口のなかにも島(土地・村)独特の言葉や発音にまで気が回らないことが多いのですが気をつけたいことですね。
さきほどの「マタハーリヌ」の囃しは、「ウチナーの歌」(音楽の友社)から竹富島の上勢頭さんが紹介されているものでした。
その話の中に、コバさんが言われているようにユンタには「厳しい農作業の疲れを紛らわせるには内容も当然きわどい性的表現となってくるがなんといっても亜熱帯のあっけらかんとした民族性ゆえかおおらかなもの」とあります。
二十三番まで続く本歌「安里屋ゆんた」の最後まで聞いたことはありませんが、その土地に暮らす人の想いというものは人間の想像をこえるものがありますね。
ちなみに、同じ本で大工先生が「トバラーマ」の解説で、ユンタを本来は「他人に向かって歌うこともありませんでした。八重山では共同体の中の顔見知りのみんながいるまえで自分の思いを歌っていました」と解説されていることが深く印象に残ります。
民謡とはそういう身近な共同体の中のものだったが時代とともに地域も広がって伝わり方も変わっていったのでしょうね。
Posted by せきひろし at 2006年06月06日 09:32
http://taru.ti-da.net/e2047891.html#more
ここに最近訳したものを掲載しました。
上で「ほかの安里屋ゆんた」として掲載したものも訳しています。
どうぞ、こちらもごらんください。
ここに最近訳したものを掲載しました。
上で「ほかの安里屋ゆんた」として掲載したものも訳しています。
どうぞ、こちらもごらんください。
Posted by たるー(せきひろし)
at 2008年04月01日 23:42
at 2008年04月01日 23:42



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